第25話 束の間の日常
「おはようございます。内田紬、今日から出勤します!」
西暦2019年。4月25日。午前8時43分。
株式会社Hamburgの経理課に、紬ちゃんの元気な声が響いた。
「おはよう、紬ちゃん。もう体調は大丈夫?」
「はい! えへへ、ご心配をおかけしました」
「季節外れのインフルエンザだったんだって? いやー、俺達も気を付けないとな」
紬ちゃんの周りには先輩や同僚が集まって思い思いに声を掛けている。一人一人に頭を下げ、時には笑いながら話す彼女は以前の姿に戻ったかに見える。
けれど、私は知っている。色染めしているからぱっと見分からないが、紬ちゃんの側頭部が一部白くなっているのを。
それは、紬ちゃんが深化した証。次のステージへと上がった
実は、昨日の夜に征也さんからLINEが届いていた。内容は、紬ちゃんの容体について。
あの日から体調は随分と良くなり、誰かに怒られている夢を見ることも無くなったらしい。最後に青い髪の綺麗な女の人に怒られたと言いながら申し訳なさそうにしていたと、征也君は伝えてくれた。
「それじゃ、久しぶりに全員出勤した事だし、朝礼始めようか」
「「「はいっ!」」」
そして、今日。これまでとは少しだけ違う、けれども愛する普段の日常が戻って来た。
朝礼後、私は紬ちゃんが隣の席に着いたのを見計らって、こっそりと声を掛ける。
「紬ちゃん。あんまり無理はしないでね。その――」
「だいじょうぶ、分かってます。もう、あんな事になるのは懲り懲りですから」
「それならいいけど」
深化した影響がいつまた出てくるのか分からない。それでもぐっと握りこぶしを作って私にはにかむ紬ちゃんに笑みを返しながら、私は自分の仕事に専念する。
会計ソフトを使って日々の売り上げを仕訳、入力。偶に掛かってくる電話対応や請求書の確認、社員が持ってきた領収書の経費精算。
その他、月末の締めが近いから社員の勤怠管理もチェックしておきたい。ああその前に、1人退職した人がいたから住民税の移動届書を区役所に出さないと。
途中、メールの確認や請求書の仕訳入力などは紬ちゃんや他の人に回しつつ昨日の売り上げを会計ソフトに入力していると、向かいの席に座る同期の大河原君が声を掛けてきた。
「なあ深山」
「ん? なあに?」
「今朝のニュースって、見た? 新昴区が話題になってたぞ」
……はて。朝のニュースとは。
今日の朝は、2人揃って寝坊したから朝食を食べる暇も無く家を出てきた。セイヤに洗濯物と掃除を丸ごと押し付けて来たから、多分家の事は大丈夫だろう。……予想外の失敗さえしなければ、の話だが。
「見てないや。何があったの?」
「一週間ぐらい前、結構大きな地震があったろ? 日本で特殊な粒子が観測されたらしいんだってさ。それと、微弱な電磁波と放射線も」
「……へー。なにそれ」
一週間ほど前と言うと、確かその日は紬ちゃんたちとスキーに行く前の日だ。
あの日、凄く眩しい光と一緒に地震かと思うほどに会社が揺れたから、もしかしたら関係があるんだろうか?
あの時、私達は吃驚して机の下に潜り込んだり、揺れが収まってから皆外に避難したんだ。他の会社の人たちやお店のお客さん、通行人までもが怖がってたけど、気象庁の発表では新昴区での地震や隕石の落下などは確認されていないってテレビでやってたっけ。
後日両親に連絡したら、あなた疲れてるのよなんて言われて入浴剤を送って貰ったりしたけど、それはそれで恥ずかしかったなぁ。
なんて事を思い出しながら、私は大河原君の話に耳を傾ける。
「タキオン粒子が観測されたんだってさ」
「タキオン粒子?」
「光よりも早く移動する仮想の粒子らしい。俺はよく分からんかったけど。電磁波や放射線も、通常の範囲を超えなかったらしい」
「お、そのニュース、俺も見た」
「宇佐美先輩。おはようございます」
私と大河原君の会話に割り込んできたのは、株式会社Hamburgの総務課長である宇佐美先輩だ。私と大河原君がこの会社に入ったときに経理課に配属されていた人で、コミュニケーション能力が抜群で情報精査能力がバリバリ高い頼りになる先輩だ。
宇佐美先輩はスーツの懐からスマホを取り取り出して、私たちに画面を見せる。表示されていたのは、ネットニュース記事の見出しだった。URLを送って欲しいと頼むと、直ぐに私のスマホにURL付きの画像が送られてくる。
「えっと、なになに? ……『新昴区に仮想粒子の残滓発見、放射能も検出!』 って、なんか怪しいタイトルじゃない?」
「だろ? 新粒子の解析に時間がかかったらしくて、発表が今朝になったんだとさ」
「しかもこのニュース、よく見たら放射線が検出された方が問題だって書いてあるじゃないっすか」
同じくそのニュースを見ていたらしい大河原君が、呆れた様子で溜息を吐く。
確かに、この記事のライターはではタキオン粒子なるものが確認された事よりも、電磁波や放射線を観測しながらも発表しなかった研究機関と政府を槍玉に挙げている。
「放射線や電磁波の検出なんて、発表しだしたらキリがないだろ。しかも通常の範囲を超えないって結果が出てるんだからさ」
「まったくです。いちいち報道していたら、それこそ不安に思う住民が居るでしょうしね。不安を煽る必要ないっていうか」
私がそう言うと、賛同するように大河原君もうんうんと頷く。
先輩と大河原君は暫くタキオン粒子の話題で盛り上がっていたが、やがてゴシップ記事やら週刊記事やらの記事が云々などと本題から離れていった。置いてけぼりにされた私は記事を閉じると、目の前の仕事に打ち込む。
話が熱くなり、声を大にして話し込んでいた2人がそろって課長に注意されているのを尻目に、売り上げの入力を終えた私は買掛金のチェックを始める。
……む、この会社に買掛金の確認書類送らないと。
会社の封筒と社判を取りに行こうと席を立ったその時、段ボールを持った大木君が声を掛けてきた。
「あ、ちょうどいい所に。深山さん、今から前年度の書類」
なんだとこの野郎。
私は今、目の前のデータ入力を必死こいてやっている最中なんだ。この後にも、総務部に渡す書類の作成もしなくちゃならないし、郵便物の確認と発送もしなくちゃならない。
今日は紬ちゃんが休みだから、私ともう1人居る新見さんの2人でしなくちゃならないというのに。
「それ、後回しに出来ないの?」
「係長からまわって来たから、早めにこなさないと不味いかも」
「ええー……。大木君がやってよ」
「無理。このあと顧客と打ち合わせ入ってるし」
くぅ、なんて間の悪い。気が利かない男はこれだから、まったくもう!




