鼻を明かす 12
体調崩して投稿できませんでした。大変申し訳ありません。
【目に入る】は、【自分の視界を相手に共有する】能力だ。
だから今、ツキカたちに攻撃をした男の目には、椅子から落ちて床でのたうつ男自身が遠く映っている。
「う、わ、わ」
「お客様、どうされましたか!?」
どれだけ動いても視界は変わらない。自分の手も、足も、声をかけてくる店員も何も見えない。正確には見えているが、自分の感覚と大きくずれているせいで、パニックになっていた。
店員の男性が男の腕に触れるが、見えない中での接触はさらに混乱を招く。
「さ、触るな!」
「うわっ!」
振り払ったはずなのに、見えない。どうなっているのか把握できない。
唯一安定している床を手のひらでしっかり感じ、這いながら前に進むが、当然店内であるから椅子やテーブル、他の客にぶつかっている。
しきりに目を動かしながら床でうごめく男への周囲の視線は、迷惑、不気味、そして好奇。
見えないのは幸運なのかもしれない。
店の電話が鳴る。
「はい、カフェ・レッティ……ああ、え、ごめん、今取り込み中……は? え、あんた絡みなの?」
カウンター内で電話を取ったやけに化粧の濃い男性こと店長が、驚きつつも這い這いしている男を見た。
その視線は、客のどれとも異なる同情がはっきり浮かんでいた。
「あんたついに人を壊すこともできちゃう……なんでもない。で、どうすんの。警察呼ぶ? それとも救急車? …………ならさっさとしてよ。営業妨害よ、これ」
店長が顎で指示を出すと、対応していた人と違う筋肉質な店員が、男を後ろから抱えて店内を歩いていく。他の客や物にぶつからないように、対応していた店員が足を押さえた連携。教育がしっかりしていると、客からは拍手が起きる。
男は抵抗しようにも体勢的に力が入らない。喚く口だけ元気だが、それも拍手にかき消された。
「はなっ、離せ! 下ろせ!」
「迷惑なんですよ、あんたみたいなのはお客じゃないんで」
そのまま店の外、階段を丁寧に降りていくと、そこにはにっこりと笑っている女、宇坂ツキカが立っていた。
「はーい、まいど。ごめんだけど、うちの階段前まで運んでもらってもいい?」
「事務所まで運びますよ」
「ありがとう、根室君。あ、真名坂さんは戻っていいよ。店長には、今後お詫びするって言っといて」
「え、あ、はい!」
女性店員の真名坂は、筋肉店員の根室と突然現れたスーツの女性を見送り、階段を戻っていく途中で気付いた。
「……え、あの人、誰……ていうか、なんで名前知ってるの……?」
さすがにツキカ一人で暴れ狂い、途中で視界異常に耐えられなくなって嘔吐してしまう成人男性を三階まで運ぶことは無理だった。週五で事務に通う根室がいなければ、途中で階段から突き落としていただろう。二重の意味で助かった。
事務所の床に無造作に転がして、会釈一つして帰っていった根室に対しても、何かお礼をしなければと考える一方で、拘束から解放された男はまた暴れ出した。
「なんなんだよ! どこだよ! なんなんだよ!!」
「うるせえ」
ガッ。
仰向けで涙や鼻水やさっき出てしまった吐瀉物の残りをまき散らす男の額を左のスニーカーで押さえる。もちろん自由な両手がツキカの足を思い切り掴んで退けようとするが、徐々に体重をかけていく。
見えていればまだよかっただろうに、今の男の視界は、こことは別の、洗面所の景色しかない。
状況把握ができないというのは、殊の外精神にくる。
足が頭を踏みつけていると何となくわかっているのに、それを証明できない。しかも少しずつ痛くなっている、重みが増えていく。
「黙って質問に答えれば、戻してやるよ。嘘偽りなく、はっきりと、明確に、答えろ」
ツキカの命令に合わせてココが洗面所から出てくる。その瞼は閉じている。
扉の前に座り、【骨を休める】を発動すれば、この事務所は完全な密室だ。外部の人間は、窓からしか中の状況を確認できない。向かいに二階以上の建物がないから、やるならドローンでも飛ばさなければならないが、そんなことをこの街中でやれば、通報されておしまいだ。
だから、心置きなく“質問”できる。
呼吸を荒く泣いている男をツキカが見下ろす。
「なんで私を狙った」
「い、だ、誰だよ! 知らねえよ!」
「窓から落とそうとしたろ。知らねえなんて通じるわけないんだわ」
一瞬、男の喉がヒュッと音を鳴らした。
「そらみろ。わかってんじゃないのよ。で、なんで狙った?」
男が目に見えて動揺しだした。そして恐怖で顔色が変わっていく。
視界が変わって最初に見せられた脅し文句を思い出したからだ。
「ちが、違う、違うん、違うんです! あんたを狙ったわけじゃなくて!」
「嘘だ」
せっかく言葉遣いを多少直したのに、遮るように聞こえたのはココの、少年でありながら生物らしくない声。
自分とツキカしかいないと思っていたのに第三者の声がして、しかも嘘が見破られて、汚い顔がさらに汚くなっていく。
ツキカはその経過を眺めていたが、完全に汚物を見る顔になっていた。
実際、男の涙やら唾やらが飛んで汚らしいことと、この期に及んで嘘を吐いたことへの嫌悪感だ。さっさと終わらせて、洗濯とシャワーを浴びたくて仕方ない。
ココは男の思考を【気がする】で読んでいた。
いくら他の能力の干渉を遮断できたとしても、それ以外に意識が完全に向いている現状ではその遮断能力は仕えていないらしい。好都合であり、また一つ情報は得られた。
「へえ、嘘。嘘吐いたんだ」
「ひっ」
「なるほど、命賭ける覚悟はあったわけね。了解、了解。口を絶対に割らないって意思表示ね。オーケー」
「や、やめ、ごめんなさい! 俺のこと、し、し、調べてるってわかって! だから!」
「だから、命奪ってやろうって?」
「ちがっ! 怪我! 怪我、したら! やめるかなって!」
「三階から転落しても死なないかもしれないけど、あんたのやり方で落下した場合、頭を下に真っ逆さまなわけ。で、下は歩道。レンガタイル。しかもあの腕の引かれた力を考えると、あんた窓から落ちてもまだ引っ張る気だったでしょ? それで、怪我で済むって本気で考えてんの?」
左足を退けても、男は天井を見たまま動かない。否、動けない。
視界が完全にないからだろうか。聴覚や触覚が、冴えわたっている。
ツキカの表情は笑顔。そんなもの見えていない。
代わりに、肌を突き刺す何かが、男を床に縫い付けている。
「クソ空っぽ野郎。私があんたを殺さないのは、依頼人がいるからだよ。いなかったら、三階から落ちた結果をその身で体験させてやったのに。依頼人に感謝しろ」
安い言葉で表現するなら、ツキカから降り注ぐそれは、殺意。
何の対価もなく自分のものを奪おうとする輩へ対する、ツキカの固定の対応だった。




