地下牢の主
金色の鍵は、驚くほど滑らかに回った。
がちゃり、と重い錠の外れる音。ミラは鉄の扉に肩を当て、全身の力で押し開けた。
扉の向こうに、部屋はなかった。
あったのは、石の階段だった。壁に沿って、闇の底へと、螺旋を描くように下りていく。
そして、臭いが這い上がってきた。
ミラは思わず、兜の上から鼻と口を押さえた。
甘ったるく、湿った、腐った肉の臭い。そこに、鼻の奥を針で刺すような、薬品の刺激臭が混じっている。あの日、行商人の包帯からかすかに漂っていたものと同じ臭いが、何十倍にも、何百倍にも濃くなって、喉の奥に絡みついてくる。
胃がひっくり返りそうになるのを、歯を食いしばってこらえた。
闇の底から、声が聞こえた。
言葉ではなかった。うめき声だった。ひとつではない。いくつもの、低く、長く、途切れることのない呻きが、石の壁に反響しながら、階段を這い上がってくる。
ミラは、背後の扉を細く開けたままにして、一段ずつ、階段を下りはじめた。
鎧の足音が、やけに大きく響く。
どれほど下りただろう。
足が最後の段を踏むと、そこは長い廊下だった。
両側の壁に、等間隔で魔力灯が埋め込まれている。けれど、その光は弱々しく、まるで病人の吐息のように、ちらちらと明滅していた。
そして、その薄暗い光に照らされて、廊下の両側に、鉄格子がどこまでも並んでいた。
牢屋だった。
一つひとつの檻の中に、人がいた。
老人がいた。若い女がいた。ミラと同じくらいの少年がいた。まだ幼い子どもさえいた。誰もがぼろきれを纏い、汚れた藁の上に座り込んでいる。床には得体の知れない染みが広がり、隅には汚物が溜まっていた。
ミラが通り過ぎても、誰も顔を上げなかった。
その目には、光がなかった。地上の区画で水を浴びせられていた人々と同じ、空っぽの目。ぼんやりと壁を見つめたまま動かない者。粗末な寝台に横たわったまま、胸が上下しているのかどうかもわからない者。
そして、ミラは気づいた。
彼らの身体の、ところどころが、黒かった。
腕の一部が。首筋が。頬が。指先が。まるで墨を流し込んだように、黒く、硬く、変色している。
侵蝕の、痕だった。
——新たに入荷された被検体への、ファントムの投与は完了しました。
司祭の穏やかな声が、耳の奥でよみがえる。
ミラは鉄格子のひとつに手を伸ばしかけ、そして、その手を握りしめて引っ込めた。今、ここで鍵を探して一人ずつ開けても、どこへも逃がせはしない。
ごめんなさい。
声に出さずに、何度もそう繰り返しながら、ミラは廊下を進んだ。
奥へ行くほど、臭いが濃くなった。
うめき声が、少しずつ遠ざかっていく。代わりに、別の音が聞こえはじめた。
ゴキッ。
ミラの足が止まった。
バキッ。
乾いた枝を折るような、けれどそれよりずっと鈍く、湿った音。
骨の、鳴る音だった。
ゴキッ。バキッ。ゴリッ。
何かが、ゆっくりと、内側から組み替えられていく音。
ミラは震える膝を叩き、音のするほうへ歩き続けた。
廊下が、唐突に終わった。
目の前に、天井の高い、広い空間が開けていた。地下とは思えないほどの高さで、天井の闇は、魔力灯の光が届かずに見えなかった。冷たい空気が、底のほうに澱んでいる。
その正面に、ひときわ大きな鉄格子の檻があった。
ほかの牢屋の何倍もある。格子の一本一本が、ミラの腕ほどの太さだった。
薄暗くて、よく見えない。
けれど、その中に、誰かがいた。
うずくまっている。背を丸めて、動かない。
ミラは、一歩、近づいた。
また一歩。
魔力灯の弱い光が、その人影の頭を、かすかに照らした。
白髪だった。
短く刈り込んだ、見慣れた白髪。そして、横顔。長く垂れた眉。深い皺。何百回も、何千回も、工房のカウンター越しに見てきた横顔。
ミラは、兜を脱いだ。
汗に濡れた栗色の髪が、頬に張りつく。
「……師匠?」
自分の声が、ひどく小さく、かすれて聞こえた。
人影が、ぴくりと動いた。
長い沈黙があった。
それから、喉の奥から、何かを無理やり引きずり出すような声が、檻の中から漏れた。
「み……ら……」
師匠の声だった。
ひび割れて、濁って、別人のように低く歪んでいた。それでも、師匠の声だった。
「師匠!」
ミラは兜を放り出し、檻へと駆け出した。
「く……る、な……」
その声に、足がもつれた。
檻の中で、人影が、ゆっくりと身を起こしはじめた。
ゴキッ。
骨の鳴る音が、すぐ目の前で響いた。
ミラは、檻の数歩手前で、立ち尽くした。
そこにいたのは、師匠だった。
白髪も、眉も、顔の皺も、確かに師匠のものだった。
けれど。
身体が、違った。
七十を過ぎた老人のものとは思えないほど、全身の筋肉が異様に盛り上がり、隆起していた。肩も、胸も、首も、まるで別の生き物の肉を無理やり詰め込んだかのように膨れ上がり、その上を覆う皮膚は、鈍い灰色に変わっていた。乾いた、石のような灰色。
左腕があった。
あの日、焼き落とした傷の、その先が。
けれどそれは、腕と呼べるものではなかった。肘のような節が、三つあった。それぞれの関節が、てんでばらばらの方向に折れ曲がり、ぐねぐねとうねっている。その先の手は、指が異様に長く伸び、一本一本の先端から、黒く鋭い爪が鉤のように生えていた。
その歪な左腕とは対照的に、右手だけが、元のままだった。
節くれだった太い指。爪の間に、薬草の染みがまだ残っている、師匠の手。
ミラの頭を、ぽんと叩いてくれた、あの手。
そして、下半身がなかった。
腰から下が、なかった。灰色の胴体の断面が、そのまま床の藁にべったりと貼りついている。
背中から、何かが生えていた。
数本の、太い、ぬめりを帯びた触手だった。それぞれがゆっくりと、宙をまさぐるようにうごめいている。その先端には、刃物のように薄く、鋭く研ぎ澄まされた爪がついていて、魔力灯の光を受けて鈍く光っていた。
ミラは、師匠の顔を見た。
目が、白く濁っていた。
あの、灰青色の瞳が。調合を褒めるとき、目尻の皺と一緒に優しく細められた、あの瞳が。
その白い目が、ミラのほうを向いた。
見えているのか、いないのか、わからなかった。
師匠の喉が、ひくりと動いた。
唇が震え、ひび割れた声が、一音ずつ、絞り出されてくる。
「お……まえ、を……」
背中の触手が、ぎちりと音を立てて、ミラのほうへ鎌首をもたげた。
師匠の右手が、それを押さえつけるように、自分の肩を掴んだ。指が、灰色の皮膚に食い込む。
「お、そい……たく……ない」
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ひゅん、と空気を裂く音。
数本の触手が、まるで師匠とは別の意志を持った生き物のように、檻の中を激しく薙ぎ払った。藁が舞い上がり、石壁に爪が当たって火花が散る。
そして、そのうちの一本が、檻の暗がりの奥に転がっていた何かに、ぶすりと突き刺さった。
触手はそれを持ち上げ、師匠の目の前まで運んできた。
ミラは、それが何なのか、最初わからなかった。
わかりたくなかった。
肉の塊だった。
かろうじて、人の形をしていた。腕らしきものがあった。頭らしき丸みがあった。けれど、それ以上は何もわからなかった。皮膚は黒ずんで爛れ、ところどころが溶けたように崩れている。
師匠の白濁した目が、それを捉えた。
次の瞬間、師匠はそれに喰らいついた。
ガリッ。
ミラの喉の奥で、ひゅっと息が鳴った。
ゴリッ。バキッ。
師匠は、一心不乱に食べていた。
顔を肉塊に埋め、歪な左腕の長い指で掴み、引き裂き、口へ運ぶ。右手だけは、まだ自分の肩を掴んだまま、震えていた。まるで、そこだけが最後まで抵抗しているかのように。
ミラは、目を逸らした。
逸らした先の、檻の暗がりに、同じものが転がっていた。
ひとつではなかった。
藁の上に、壁際に、隅の暗がりに。いくつもの肉の塊が、無造作に積み重なっていた。どれも原型を留めていない。男だったのか、女だったのか、年寄りだったのか、子どもだったのか、もう誰にもわからない。
けれど、元は人だったのだ。
上の牢屋で、虚ろな目をして座り込んでいた人たちと、同じ。
——ファントムの投与は完了しました。早ければ数時間で、変異兆候が現れるでしょう。
ここは、隔離棟なんかじゃない。
変えられた者に、変えられかけた者を、喰わせる場所だ。
ガリッ。ゴリッ。
その間も、咀嚼の音は止まなかった。石の壁に反響して、耳の奥にこびりついていく。ミラは膝が崩れそうになるのを、前掛けの裾を握りしめて耐えた。
「なあ、そこのあんた」
不意に、すぐ横から声がした。
ミラはびくりと肩を跳ね上げた。
声のしたほうを振り向く。師匠の大きな檻の脇に、もうひとつ、小さな牢屋があった。暗くて、今まで気づかなかった。
「ちょっと、こっちに来てくれないか?」
まともな、人の声だった。
この地下で、うめき声と咀嚼音以外の、言葉を持った声を聞くのは初めてだった。
「……あなた、誰?」
鉄格子の向こうに、一人の青年が胡坐をかいて座っていた。
二十代ほど。ぼさぼさの黒い短髪に、この辺りではあまり見ない、東の国の血を感じさせる顔。若干、目の下に隈がある。黒いローブを纏っていたが、裾は擦り切れ、あちこちが煤と泥で汚れていた。それでも、その目には、上の牢屋の人々のような虚ろさはなかった。むしろ、ぎらぎらとした、生きる気配に満ちていた。
「そんなことは、どうでもいい」
青年は格子に顔を近づけ、声を潜めた。
「俺の牢を開けてくれ。あの化け物が食事を済ませたら、今度は俺があいつの飯になっちまう」
化け物。
その言葉が、ミラの胸に棘のように刺さった。
ミラは唇を噛み、青年の牢へと歩み寄った。
「化け物じゃないです」
自分でも驚くほど、きっぱりとした声が出た。
「私の、師匠です」
「へえ、そうかい」
青年は、片眉を上げただけだった。同情も、驚きもない。
「だが、見ろよ。あんな鉄格子、あそこまで変異してりゃ、容易にぶち破れるだろう。そうなりゃ、男は餌になる。女は……」
青年は、そこで言葉を切った。
ちらりと、師匠の背中でうごめく触手に目をやり、それから、何かを飲み込むように視線を逸らした。
「……まあ、とにかくだ。俺もあんたも、こんな所からはさっさと離れたほうがいいぜ」
ミラは、青年が何を言いかけてやめたのかが気になった。
けれど、それを問いただしている時間はなかった。背後では、まだ骨を噛み砕く音が続いている。
ミラは青年の牢の錠前を見た。
鉄の、頑丈な錠だった。鍵穴はあるが、金色の鍵とは形が違う。
ミラは手袋の甲に親指を当て、紋様をなぞった。
雷の線を崩し、組み替える。今度は、炎のように揺らめく、曲線の紋。
「……ちょっと、熱いですよ」
錠前に、手袋の指先を押し当てた。
マナを流す。
じゅう、と音がして、鉄の錠前が見る間に色を変えていった。黒から、鈍い赤へ。赤から、橙へ。錠の周りの空気が陽炎のように揺らぎ、青年が思わず格子から身を引いた。
十分に赤熱したところで、ミラは指先で、手袋の紋をもう一度なぞった。
炎の曲線が、鋭く尖った氷の結晶のような紋へと変わる。
灼けた錠前に、冷気を叩き込んだ。
バキンッ。
鋭い音とともに、赤く焼けた鉄が、一瞬で白く霜を噴いた。急激な熱と冷えに耐えきれず、錠前の芯に、蜘蛛の巣のようなひびが走る。ミラが軽く押すと、錠はぼろりと崩れ、牢の扉が軋みながら開いた。
「……へえ」
青年は、崩れた錠前と、ミラの手袋とを見比べて、口の端を吊り上げた。
「いやあ、助かったぜ。あんた、ミラとか言ったか。さっき、あの化け物……いや、師匠さんが、そう呼んでたな。ありがとよ」
青年は牢から這い出し、凝り固まった首をぼきりと鳴らした。
「あなた、何者なんですか?」
ミラは、青年を見据えた。
「ここのこと、何か知っているんですか?」
青年が口を開きかけた、その時だった。
ドンッ。
地下全体を揺るがすような、重い音が響いた。
天井から、ぱらぱらと石の粉が降ってくる。
ミラは振り返った。
師匠が、檻の鉄格子に触手を叩きつけていた。
ミラの腕ほどもある太い格子が、真ん中から、くの字に歪んでいる。
「話は後だ」
青年が、ミラの肩を掴んで一歩下がらせた。その声から、さっきまでの軽さが消えていた。
「今は、あいつを何とかするしかねぇ」
ドンッ。
二度目の衝撃で、鉄格子の一画が、留め具ごと石の床から引き剥がされた。
重い鉄の塊が、ゆっくりと外側へ傾き、そして轟音を立てて床に倒れた。舞い上がった埃が、魔力灯の光の中で渦を巻く。
その埃の向こうから、師匠が這い出してきた。
下半身のない身体を、三つの関節を持つ歪な左腕で引きずって。長い爪が石の床を掻き、ぎ、ぎ、と嫌な音を立てる。背中の触手が、宙をまさぐるようにうねっている。
右手は、もう肩を掴んでおらず、力なく、床に垂れていた。
触手に絡めとられていた最後の肉片が、師匠の口へと運ばれていく。
ゴリッ、と最後の一噛み。喉が動き、それを飲み下す。
そして、白く濁った両目が、ゆっくりと持ち上がり、ミラを、見た。




