番人
赤い絨毯の廊下は、屋敷の奥へ進むほど静かになっていった。
飾り棚の花瓶にも、壁の絵画にも、埃ひとつない。それなのに、人の暮らす気配がまるでなかった。まるで、誰かに見せるためだけに整えられた、巨大な人形の家のようだった。
廊下の突き当たりに、それはあった。
扉だった。
白い壁の中で、そこだけが異質だった。分厚い鉄板を何枚も重ねて鋲で留めた、重々しい金属の扉。取っ手の横には、大きな鍵穴がひとつ。
——中央隔離棟。
ミラがそう思った、その瞬間だった。
がこん、と重い音がして、扉の閂が内側から外された。
ミラはとっさに身を翻し、廊下の角の陰に飛び込んだ。鎧の籠手が壁にこすれそうになるのを、必死にこらえる。息を殺し、兜の隙間から、角の向こうを覗いた。
金属の扉が、ゆっくりと開いた。
最初に出てきたのは、執事のブルースだった。片眼鏡が、フェアリーの灯りを受けて冷たく光る。
その後ろから、白い法衣を纏った初老の男が現れた。胸には、教会の聖印が下がっている。司祭だ。さらにその後ろに、黒い修道服のシスターが三人、静かに続いた。
ブルースは懐から金色の鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んで、がちゃり、と回した。重い錠の閉まる音が、廊下に響いた。
「新たに入荷された被検体へのファントムの投与は、すべて完了いたしました」
司祭の声は、礼拝堂で説教をするときのように、穏やかで、よく通った。
「早ければ数時間で、変異兆候が現れるでしょう。——こちらは、予備になります」
司祭が目配せをすると、シスターの一人が袖の中から、小さな硝子瓶を取り出した。
中で、液体が揺れていた。
紫色だった。それも、ただの紫ではない。瓶の内側から、まるでそれ自体が呼吸をしているかのように、妖しく脈打つ光を放っている。
ブルースは恭しくその瓶を受け取り、懐にしまった。
「今後とも、教会をごひいきに」
司祭は目尻に皺を寄せ、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「もちろんですとも」
ブルースもまた、穏やかに微笑んだ。
「ヴァンギット家として、十分な寄付をお約束いたしましょう」
二人は、まるで茶会の約束でも交わすように言葉を交わしながら、ミラの隠れている角とは別の廊下へと歩き去っていった。シスターたちの衣擦れの音が、絨毯に吸い込まれて消えていく。
ミラは、角の陰で動けなかった。
被検体。
入荷。
投与。
変異兆候。
一つひとつの言葉が、鉛の塊のように胸の底に沈んでいく。
帳簿にあった「変異兆候あり」の文字。
あれは、侵蝕の名残が見つかったという意味ではなかったのだ。
——ここで、変異させられているのだ。
師匠は、あの扉の向こうにいる。
ミラは震える膝を叩いて立ち上がり、ブルースたちの後を追った。鎧の足音を絨毯に沈め、一定の距離を保って。
司祭とシスターたちは、玄関の大扉から外へ出ていった。扉の脇には、あの無表情な少年が立ったまま、彼らを見送っていた。
ブルースだけが、屋敷の中に残った。彼は踵を返すと、迷いのない足取りで、廊下をさらに奥へと進んでいく。
ミラは柱の陰から柱の陰へと移りながら、その背中を追った。
ブルースは、両開きの大きな扉の前で足を止めた。金の装飾が施された、美しい扉だった。彼はそれを開いて中に入り、ほどなくして、懐に何も持たない様子で出てきた。そして、また別の廊下へと消えていった。
足音が完全に遠ざかるのを待ってから、ミラはそっと、その扉に近づいた。
隙間から、中を覗く。
息を呑んだ。
宝物殿だった。
高い天井まで届く広間に、硝子の陳列棚が、まるで聖堂の柱のように整然と並んでいる。
赤、青、緑、金——拳ほどもある宝石が、それぞれの台座の上で、内側から光を放っていた。刀身に古い刻印の走る魔剣。鏡のように磨かれた大盾。先端に巨大な水晶を抱いた杖。どれもこれも、ミラが一生かかっても手に触れることさえできないような、名品ばかりだった。
魔道具師の血が、一瞬だけ、恐怖を忘れさせた。
けれどミラの目は、すぐに、部屋の最奥に吸い寄せられた。
黒い天鵞絨を敷いた小さな台座。その上に、ひとつだけ、ぽつんと置かれているもの。
金色の鍵だった。
ブルースが金属の扉を閉めた、あの鍵と、同じ形をしていた。予備の鍵か。それとも、ブルースが今しがた、ここへ戻しに来たのか。
「……あれだ」
ミラは扉の隙間に身を滑り込ませた。
あの鍵があれば、あの扉が開く。師匠に、会える。
一歩、踏み出しかけた。
そのとき、足元を、小さな影が横切った。
鼠だった。
灰色の、どこにでもいる小さな鼠が、陳列棚の脚の間から飛び出して、ミラの目の前の床を、ちょこちょこと駆けていく。
その刹那。
ひゅん、と空気を裂く音がした。
天井から、針のように細い、目も眩むほど白い光の線が、一直線に降りてきた。
光が、鼠を貫いた。
いや、貫いたのではなかった。焼き切ったのだ。鼠の身体は音もなく二つに分かれ、断面からかすかな煙が立ちのぼった。肉の焦げる匂いが、遅れて鼻を突いた。床の大理石には、髪の毛ほどの細さの、黒い焦げ跡が一本、まっすぐに残っていた。
ミラは、踏み出しかけた足を、宙で止めたまま凍りついた。
光の線を目で辿り、天井を見上げる。
そこに、何かが浮かんでいた。
人の形をしていた。けれど、掌に乗るほど小さい。全身が、磨き上げた陶器のように白く、内側からぼうっと発光している。その背には、羽毛のような、光の糸を編んだような、白く輝く翼が一対。顔には、目も鼻も口もなかった。ただ、つるりとした白い面があるだけだった。
その白い面から、声が響いた。
人の声ではなかった。鈴を何十個も同時に鳴らしたような、抑揚のない、澄みきった音。
『フェアリー型自律駆動式力場・エンジェル47H、起動しました』
ミラの背筋を、氷の指が撫で上げた。
『登録外の有機体を識別したため、排除。——成功しました』
白いそれは、宙で静かに向きを変えた。
『エリア内のモニタリングを、継続します』
ミラは、瞬きひとつできなかった。
兜の隙間から、視線だけを、そろりと動かす。
そして、気づいた。
宝物殿の中を、それは一体だけではなかった。
陳列棚の間を、高い天井の近くを、いくつもの小さな光が、音もなく巡っていた。
赤く燃え盛る炎を纏い、通り過ぎたあとの空気をゆらゆらと歪ませているもの。
青白く輝きながら、その周りの空気に細かな氷の結晶を舞わせ、硝子棚の表面を白く凍てつかせていくもの。
紫色の、重たい蒸気を尾のように引きずり、その蒸気が触れた天鵞絨の縁を、じわじわと黒く腐らせているもの。
黄色い火花を全身からばちばちと放ち、その近くの金具に、細い稲妻を這わせているもの。
フェアリー。
けれど、広場の街灯で子どもたちを見守っていた、あの優しい小さな光とは、まるで違うものだった。
これは、番人だ。
この部屋に入った、登録されていない命を、ただ消すためだけの。
部屋の最奥で、金色の鍵が、黒い天鵞絨の上で静かに光っていた。
ミラとその鍵の間には、何十歩分もの床と、いくつもの光の番人が巡る空間が、横たわっていた。
兜の中で、ミラは自分の心臓の音だけを聞いていた。
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ミラは、宝物殿の扉からそっと身を引いた。
背中を廊下の壁に預け、震える息を、ゆっくりと吐き出す。
——登録外の有機体を識別したため、排除。
あの白いフェアリーは、そう言った。
登録外。ならば、登録された者なら、焼かれないということだ。ブルースは平然と出入りしていた。きっとこの屋敷の人間は、皆、何らかの形で登録されている。
では、どうやって見分けているのだろう。
顔ではない。あの番人には、目すらなかった。鎧を着ていても、関係ないだろう。あの光は、鼠の小さな身体を正確に見つけ出した。肉を、命そのものを、見ているのだ。
ミラは目を閉じた。
師匠の声が、また聞こえる気がした。
——力場解析の基本だ。どんなに精巧な術でも、見ているものは必ず「何か」だ。それが何かを見抜けば、術は欺ける。
そして、思い出す。
廊下の客間で眠らせた、あの少女の首元。襟の陰で鈍く光っていた、鉄の輪。この屋敷で、首輪を嵌められて働かされている子ども。
あの子は、間違いなく、登録されている。
ミラは客間へと引き返した。
少女は、天蓋の下で、さっきと同じ姿勢のまま眠っていた。胸が小さく上下している。きっちりと結われた髪が、白い枕の上に広がっていた。
ミラは寝台の脇に膝をつき、薬鞄から、薬草を刻むための小さな鋏を取り出した。
手が、止まった。
この子は、何も悪くない。首輪をつけられ、表情を奪われて、それでもここで生きている。その子の身体から、何かを奪うのだ。
「……ごめんね」
ミラは少女のうなじのあたり、襟に隠れて見えない髪をひと房だけ指ですくい上げ、そっと鋏を入れた。
しゃきん、と小さな音。
指の間に、細く柔らかな、亜麻色の髪の束が残った。
少女は、目を覚まさなかった。
ミラは乱れた髪を元のように整えてやり、部屋を出た。
宝物殿の扉の前に戻ると、ミラは鎧を脱ぎはじめた。
兜、籠手、胸当て、肩当て、脛当て。一つずつ留め具を外し、絨毯の上に並べていく。身体が急に軽くなり、汗で張りついた前掛けが冷たかった。
それから、空になった鎧を、もう一度組み上げた。中身のない人形のように。
胸当ての内側、心臓の位置に、少女の髪の束をきつく括りつける。
ミラは胸当てに両手を当てた。
「お願い……」
マナを、注ぎ込む。
今度は、ただ「歩け」と命じるのではない。この鎧が、ミラの手を離れても動き続けられるように。部屋の奥まで歩き、台座の上の鍵を取り、ここへ戻ってくる。その一連の仕事を、鎧の中に、ひとつの意志として編み込む。
ゴーレムを作るのと、同じだった。
師匠の工房で、何百回も見てきたやり方だった。
ぎし、と金具が軋んだ。
空っぽの鎧が、ゆっくりと立ち上がった。兜の中には、誰もいない。鎧は、首をわずかに傾け、行き先を確かめるような仕草をしてから、宝物殿の扉を押し開けた。
がしゃん。がしゃん。
ぎこちない足取りで、鎧は大理石の床を進んでいく。
ミラは扉の陰で、両手を胸の前で握りしめていた。
天井近くを巡っていた光のひとつが、すうっと降りてきた。
さっきとは別の、白いフェアリーだった。翼の光が、空っぽの兜を、胸当てを、なめるように照らしていく。
ミラは息を止めた。
『フェアリー型自律駆動式力場・エンジェル59D』
鈴の束を鳴らすような、抑揚のない声。
『有機体を確認。ID、47Q231Z。マナレベル0。——リサ。登録個体です』
白いフェアリーは、それきり興味を失ったように翼を翻し、別の陳列棚のほうへと漂っていった。
赤く燃えるものも、青く凍てつくものも、紫の蒸気を引くものも、黄色く爆ぜるものも。誰ひとり、空っぽの鎧に光を向けはしなかった。
ミラは、扉の陰で、口を両手で覆っていた。
リサ。
あの子の名前。
そして、マナレベル0。
ここで、表情を殺して、人形のように扉を開ける少女もまた、ゼロとしてここに連れてこられた一人だったのだ。
鎧は、陳列棚の間を、不器用に、けれど迷いなく進んでいった。宝石の光を浴び、魔剣の刻印の前を通り過ぎ、部屋の最奥の黒い台座の前で止まる。
籠手の指が、ぎこちなく持ち上がった。
かちり、と金属同士が触れ合う、小さな音。
鎧は、金色の鍵を握っていた。
そしてくるりと向きを変え、来たときと同じ足取りで、がしゃん、がしゃんと戻ってくる。番人たちは、その周りを、ただ静かに巡り続けていた。
扉の陰まで戻ってきた鎧は、籠手を差し出して、ミラの手のひらに鍵を落とした。
ずしりと、見た目よりも重い鍵だった。
ミラはそれを握りしめた。
ミラは鎧の留め具を一つずつ嵌め直し、もう一度それを身に纏った。マナを流し、身体が軽くなるのを確かめる。兜を被り、喉に指を当てる。
そして、廊下を引き返していった。
突き当たりの、鉄の扉へ。
扉は、さっきと同じように、白い壁の中で黒々と沈黙していた。
ミラは、金色の鍵を、鍵穴に差し込んだ。
指先が、かすかに震えていた。




