中央隔離棟
ミラは壁の縁に身を伏せたまま、兵士たちの巡回の間合いを数えた。
帳面を持った兵士が背を向け、水場の兵士たちが桶を片付けに去り、通りから人影が途切れた、ほんの一瞬。
今だ。
手袋を壁に吸いつかせ、片手ずつ、音もなく内側の壁面を降りていく。最後の数歩分は手を離して飛び降り、膝を折って衝撃を殺した。ブーツの底が灰色の砂利を踏む。
すぐさま、建物と建物の隙間の影に滑り込んだ。
心臓が、喉元で暴れている。
ミラは手袋の甲に親指を当て、刻まれた紋様をなぞった。渦を巻く風の線を、指先でゆっくりと組み替えていく。
これも、師匠と一緒に仕込んだ仕掛けだった。一組の手袋に二つの紋を重ねて刻み、なぞり方ひとつで切り替えられるようにしてある。
——道具はな、一つの役目に縛るな。使い手が困ったときに、もう一枚の顔を見せられるようにしておけ。
風の紋が消え、代わりに、稲妻のように鋭く折れ曲がった線が浮かび上がった。
雷精のグローブ。指先に、ぱち、と小さな火花が走る。
影から覗くと、少し先の物置の前に、兵士が一人立っていた。木箱を机代わりにして、分厚い帳簿に何やら書きつけている。周りに、ほかの兵士の姿はない。
ミラは息を止め、足音を殺して近づいた。一歩。また一歩。帳簿をめくる紙の音に、自分の足音を重ねる。
兵士の背中まで、あと腕一本。
ミラは素早く、兵士のうなじに指先を触れさせた。
ぱちん。
小さな、乾いた音。兵士の身体がびくりと跳ね、そのまま膝から崩れ落ちる。ミラは慌ててその身体を受け止めた。重い。鎧の分だけ、とんでもなく重い。
「……っ、このままじゃ、運べない」
ミラは唇を噛み、兵士の胸当てに手のひらを当てた。
冷たい鉄の板。けれど、その内側には、着る者の動きを補う細い刻印が走っているはずだ。兵士の鎧も、言ってしまえば魔道具なのだから。
「ゴーレムと、同じ要領で……」
鎧に、マナを流し込む。
歩け。物置の奥へ。
ぎし、と金具が軋んだ。
気を失ったままの兵士の身体が、鎧に引きずられるようにして、ぎこちなく立ち上がった。首はだらりと垂れたまま、腕は糸の切れた人形のように揺れている。それでも脚だけが、不器用に、一歩、また一歩と前へ出た。
ミラはその背を押すようにして、物置の奥へと誘導した。藁束の陰まで歩かせたところでマナを切ると、兵士はそのまま藁の上にどさりと転がった。
手早く留め具を外し、鎧を剥がしていく。胸当て、肩当て、籠手、脛当て。最後に兜。
自分の身体に当ててみると、胸当てだけで膝が笑いそうになった。
「重い……けど……」
前掛けの上から、鎧を一つずつ身につけていく。留め具をきつく締め、大きすぎる隙間には藁を詰めた。兜をかぶると、視界が細い隙間だけになった。
そして、自分の着た鎧に、マナを流す。
ふっと、身体が軽くなった。
鎧そのものが、ミラの動きを先回りして支えてくれる。最初の数歩は、膝と鎧の動きが噛み合わず、木の人形のようにぎくしゃくとした。けれど十歩も歩くと、すぐに呼吸が合ってきた。
物置を出る前に、ミラは木箱の上に残された帳簿を手に取った。
ずらりと、人の名が並んでいる。その横に、状態と、行き先。
——ベネット・ゴルキン 健康状態良好/垓亜王朝・リー家へ移送
——ジャン・ルベルク 変異兆候あり/中央隔離棟へ移送
指先で行を辿っていく。
そして、その指が止まった。
——ゴルド・ハーヴェン 変異兆候あり/中央隔離棟へ移送
「……え」
兜の中で、自分の声がくぐもって響いた。
変異兆候。
あの日、師匠の腕の焦げた窪みの縁を、灰色がかって見えたと思ったのは、気のせいだったはずだ。師匠は、確かにマナを失った。けれど、侵蝕は焼き落とした。手紙にだって、元気だと——
ミラは、帳簿を持つ手の震えを、鎧の籠手ごと握り潰すようにして止めた。
中央隔離棟。
この区画の中央にあるのは、あの白い屋敷だけだ。
ミラは帳簿を元の場所に戻し、物置を出た。
灰色の通りを、まっすぐ白い屋敷へ向かって歩いていく。鎧の足音が、ほかの兵士と同じように、がしゃん、がしゃんと石畳に響いた。
「おい!」
背後から声が飛んできて、ミラの心臓が跳ね上がった。
振り向くと、鎖の束を抱えた兵士が、こちらに顎をしゃくっていた。
「こっちを手伝ってくれ。新入りの数が多くてな、手が足りねえんだ」
まずい。
口を開けば、娘の声だと一瞬でばれる。
ミラは籠手の指先を、そっと自分の喉に当てた。
振動の力操術。喉の奥で鳴る声の震えを、ほんの少しだけ低く、太く、ねじ曲げる。
「悪いな」
自分の口から出たのは、聞いたこともない、低い男の声だった。
「ハロルド様から、急ぎの用事を頼まれてる。後でな」
「ちっ……しょうがねえな」
兵士は舌打ちをして、鎖を引きずりながら去っていった。
ミラは、背中を冷たい汗が伝っていくのを感じながら、何事もなかったように歩き続けた。
白い屋敷は、近くで見るとなおさら白かった。
壁には染みひとつなく、窓硝子は磨き抜かれて、灰色の区画を鏡のように映している。
玄関の前には、あの二人の子どもが立っていた。
執事服の少年と、メイド服の少女。人形のように背筋を伸ばし、まったく同じ角度で前を向いている。
ミラが階段を上ると、少年が一歩前に出て、行く手を塞いだ。
「ここから先は、ヴァンギット家の関係者以外の立ち入りを禁じられています」
何の抑揚もない声だった。少年の目は、ミラの兜の隙間を見ているようで、どこも見ていなかった。
ミラは喉に指を当てたまま、鼓動が兜の内側に響くのを聞いていた。
「緊急の報告だ」
男の声が、低く響く。
「あいつらの何名かが、脱走した。ハロルド様に、直接指示を仰ぎたい」
沈黙。
少年は、まばたきひとつしなかった。
その隣で、少女が静かに口を開いた。
「緊急の要件とのこと、承知いたしました」
少年と同じ、平らな声。少女は白い手袋の手で扉の取っ手を引き、重い扉を開いた。
「どうぞ、お入りください」
中は、外の灰色が嘘のようだった。
足首まで沈み込みそうな、深紅の絨毯が、まっすぐ奥へと伸びている。壁は一点の曇りもない白。天井には、等間隔にフェアリーの灯りが吊るされ、柔らかな光を落としている。
あまりに美しくて、あまりに静かで、かえって息が詰まりそうだった。
少女が先に立ち、絨毯の上を音もなく進んでいく。ミラはその小さな背中を追った。白いエプロンの紐。きっちりと結われた髪。襟の陰で鈍く光る、鉄の輪。
しばらく進み、廊下の角を曲がって、玄関の少年からこちらが見えなくなった。
ミラは、籠手を外した。
雷の紋が刻まれた手袋の指先で、少女のうなじに、そっと触れた。
ぱちん。
少女の身体から力が抜けた。倒れかかったその身体を、ミラは両腕で抱きとめる。驚くほど軽かった。十代の娘の身体とは思えないほど、軽かった。
廊下の脇の扉を開けると、使われていない客間らしい部屋があった。ミラは少女を抱えて中に入り、天蓋のついた寝台に、そっと横たえた。
少女の寝顔は、さっきまでの人形のような無表情とは違って、ただの、疲れ果てた子どもの顔だった。
ミラは、乱れた少女の前髪を指で直した。
「……ごめんね」
小さく呟いてから、ミラは立ち上がった。
部屋を出て、扉を閉める。
赤い絨毯の廊下が、屋敷の奥へと伸びていた。
この屋敷のどこかに、師匠がいる。
ミラは籠手を嵌め直し、静かに歩き出した。




