隔離居住地域
坂道を半ばまで下ったところで、ミラはゴーレム車の手綱代わりの制御石に手を当てた。
「……止まって」
四本脚が、ゆっくりと歩みを緩める。
振り返れば、丘の上の屋敷はまだ灯りに包まれていた。高い石塀の向こうで、また、色のついた光が瞬く。
——マナレベルゼロは、貴族のおもちゃにされて、殺される。
あの少年の、氷のように冷たい指の感触が、まだ前掛けに残っている気がした。
隔離居住地へ急ぎ移送する、とブルースは言った。ならば今夜のうちに、あの少年を乗せた車が正門から出てくるはずだ。
ミラはゴーレム車を坂道から逸らし、屋敷から少し離れた森の中へと乗り入れた。木々の陰に車を伏せさせ、自分は茂みに身を潜めて、正門をじっと見つめる。
夜は長かった。
フクロウが鳴き、冷たい夜露が髪を濡らした。塀の向こうの光は、夜半を過ぎたあたりでふつりと途絶え、それきり屋敷は静まり返った。ミラは膝を抱え、まぶたが落ちそうになるたびに自分の頬をつねった。
東の空が白みはじめた。
鳥たちが鳴きだし、朝露が陽を受けて光る。
正門は、一度も開かなかった。
ミラは、こわばった指で前掛けの紐を握りしめた。
急ぎの移送など、なかったのだ。あの少年は、今もあの屋敷の中にいる。あるいは——
「……領主様は、何かを隠してる」
声に出すと、それはもう疑いではなく、確信になっていた。
店に戻ってからの数日、ミラはいつも通りに店を開け、いつも通りに客を迎えた。けれど耳だけは、客たちの何気ない世間話に向けていた。
手がかりは、意外なところから転がり込んできた。
「そういや、明後日は領主様の視察の日だな」
短杖の手入れに来たカイルが、何の気なしに言ったのだ。
「視察?」
「ほら、月に一度、郊外の隔離居住地に顔を出してるだろ。ゼロの人たちがちゃんと暮らせてるか見に行くんだと。立派なもんだよな、高位貴族がわざわざ」
ミラは、カイルの短杖を磨く手を止めなかった。止めたら、顔に出てしまう気がした。
隔離居住地。
灯りのない丘。
師匠のいる場所。
その夜、ミラは店の扉に一枚の札を掛けた。
——材料調達のため、しばらく店を空けます。ミラ
薬鞄に、青い封の中和剤をありったけ詰める。赤い封の高濃度マナ薬を二本。携帯用の溶魔液。乾パンと水筒。そして、工房の引き出しの奥から、ひと組の革手袋を取り出した。
二日後の朝。
丘の上の屋敷から、一台のゴーレム車が出てきた。四本脚ではない。磨き上げた白銀の装甲をまとった、しなやかな馬型のゴーレムが二頭、金の装飾を施した車体を引いている。窓には、ヴァンギット家の紋章が刻まれていた。
ミラは自分の四足型ゴーレム車に乗り込み、十分な距離をとって、その後を追った。
馬型ゴーレムは軽やかに街道を進み、西門を抜け、やがて街道を外れて森の中の細い道へと入っていく。ミラは見失わないぎりぎりの距離を保ちながら、木立の陰を縫うようにしてついていった。
森が深くなるにつれ、空気が冷たくなっていく。
鳥の声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
半刻ほど進んだところで、木々の切れ間の向こうに、それが見えた。
壁だった。
森の中に、唐突に、灰色の石壁がそびえ立っていた。高さは、街の城壁とほとんど変わらない。左右どこまでも続いていて、果ては木々に呑まれて見えなかった。継ぎ目のない、のっぺりとした石の面。窓も、覗き穴もない。中の様子は、何ひとつうかがえなかった。それは、マナ欠乏症患者が魔物に変化したときのための隔離用の壁だった。
——衣食住が与えられ、何不自由なく暮らせる場所。
街の人々は、そう聞かされている。
領主のゴーレム車は、壁に穿たれた鉄の大門の前で止まった。重々しい音を立てて門が開き、車がその中へと吸い込まれていく。門は再び閉ざされ、森には静寂だけが残った。
ミラは自分のゴーレム車を、深い木陰へと伏せさせた。苔むした倒木と茂みの間に、土塊の身体がすっぽりと隠れる。
「ここで、待っててね」
制御石をそっと撫でてから、ミラは門から離れた壁際へと回り込んだ。
見上げる。首が痛くなるほど高い。足がかりになる凹凸も、蔦の一本さえない。
けれど、ミラは小さく笑った。
「……なんてこと、ないです」
薬鞄から取り出したのは、使い込まれた革の手袋だった。手の甲には、渦を巻く風の紋様が刻まれている。
風精のグローブ。本来は武闘家のための魔道具で、拳を打ち込む瞬間に風圧を生み、一撃の威力を増すためのものだ。
けれどミラのこれは、少しだけ違う。
何年も前、師匠と二人で、刻印を一本ずつ書き換えて改造したのだ。風を吹き出すのではなく、逆に——手のひらと、触れたものとの間の空気を、抜く。
ミラは手袋をはめ、指を一本ずつ握り込んで馴染ませた。
それから、冷たい石壁に、右の手のひらをぴたりと当てる。
ほんのわずかなマナを流すと、手袋の紋様がかすかに光った。手のひらと石の間から、しゅう、と空気の抜ける音がする。次の瞬間、手のひらは壁に吸いついたように離れなくなった。
——崖の上に咲く星露花はな、夜明け前の一刻しか開かん。取り逃したら、また一年待ちだ。
師匠の声が、耳の奥でよみがえる。
切り立った崖を、二人並んでこの手袋で登った朝。足を滑らせかけたミラの襟首を、師匠の太い腕が掴んで引き上げてくれた朝。崖の上で開いた、星屑みたいな青い花。
今は、引き上げてくれる腕はない。
ミラは唇を噛み、左の手のひらを、右手よりも少し高い位置に押し当てた。
しゅう。吸いつく。右手のマナを切って、離す。さらに上へ。しゅう。
一手、また一手。
ブーツのつま先で石の面を押さえながら、ミラは灰色の壁を登っていく。
背中に、冷たい汗が流れた。
下は見ない。上だけを見る。あの頃と同じように。
——師匠。
今、行きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最後の一手を壁の縁にかけ、ミラは身体を引き上げた。
腕が震えていた。指先の感覚がない。石の縁に腹ばいになり、荒い息を殺しながら、そっと顔を上げる。
そして、息が止まった。
眼前に広がっていたのは、集落などではなかった。
灰色の、まったく同じ形をした四角い建物が、定規で線を引いたように何列も並んでいる。窓は小さく、鉄格子がはまっていた。屋根の色も、扉の位置も、すべて同じ。花も、畑も、洗濯物も、子どもの遊ぶ声も、何ひとつなかった。
その灰色の通りを、人々が歩いていた。
ぼろきれを纏い、首には鉄の首輪。両手は手枷で繋がれ、足首には鎖を引きずる足枷。じゃら、じゃら、という鈍い音が、壁の上まで届いてくる。誰もうつむいたまま、互いに目を合わせようともしない。
「……うそ」
声にならない声が、ミラの唇から漏れた。
壁には、ミラが見た大門のほかにも、いくつもの門が穿たれていた。そのひとつが重い音を立てて開き、ゴーレム車が入ってくる。後ろに引いているのは、窓のない金属の箱だった。
箱の扉が開かれ、中から次々と人々が降ろされてくる。服装はまちまちだった。農夫らしい男、街の娘らしい女、旅装束の老人。誰の首にも、まだ首輪はない。
降り立った人々は、あたりを見回して戸惑っていた。
「おい、なんだここは!」
一人の男が叫んだ。
「普通の街だと聞いていたぞ! 衣食住は保証されるって——おい、さわるな!」
腕を掴もうとした兵士の手を、男が振り払った。
次の瞬間、別の兵士が手にした棒が、男の背中に叩きつけられた。棒の先端で青白い火花が弾け、ばちん、と嫌な音が響く。男は声もなく痙攣し、そのまま石畳に崩れ落ちた。指先だけが、ひくひくと動いている。
「きゃあっ!」
女が悲鳴を上げて後ずさった。
「おとなしくしろ」
兵士の声は、退屈そうですらあった。
「言うとおりにすれば、危害は加えない」
それきり、誰も逆らわなかった。
兵士たちは手慣れた手つきで、一人ずつの首に鉄の首輪を嵌めていく。かちり、かちり。錠の閉まる音が、ひとつ、またひとつ。そして首輪に繋いだ鎖を引き、人々を一列に並ばせると、区画の中央へと歩かせていった。
その先に、ひとつだけ、色の違う建物があった。
真っ白な屋敷だった。灰色の箱の群れより一段高く、陽を受けて眩しいほどに白い。まるでこの場所の中で、そこだけが別の世界であるかのように。
ミラは視線をさまよわせた。見たくないのに、目が離せなかった。
別の一角では、枷を繋がれたままの男女が、何人も一列に立たされていた。服を剥がれ、肌を晒したまま。兵士が桶の水を、まるで家畜の汚れを落とすように、乱雑に浴びせかけていく。冷たい水を頭からかぶっても、誰ひとり声を上げなかった。身をすくめることさえしない。
水を浴び終えると、彼らは足元に投げ出されたぼろ布を拾い、また黙ってそれを纏った。
その顔には、何の表情もなかった。怒りも、恥も、悲しみも。ただ、空っぽの目が、どこでもない場所を見ていた。
さらに奥の広場では、兵士たちが帳面を片手に、鎖に繋がれた人々の間を歩き回っていた。
「こいつは、バートランド聖王国のレイベルン家行きだ」
「そっちの三人はブロンズ家へ移送しろ」
「仕分けは終わったか? 次の便が詰まってるぞ」
まるで、市場の荷を捌くような声だった。
名を呼ばれた者たちは鎖を引かれ、さっきとは別の金属の箱に押し込まれていく。扉が閉ざされ、ゴーレム車が動き出す。門の外へ。どこか、遠い国へ。
仕分け。
移送。
——貴族の、おもちゃにされて。
ミラは、壁の縁を掴む指に爪を立てた。手袋越しでも、石の冷たさが骨まで染みてくる。
喉の奥がひくりと痙攣して、何かがせり上がってきた。必死に口を押さえて、それを飲み下す。
ここは、灯りのない丘なんかじゃない。
ここは——
視界の端で、金の装飾が光った。
ハロルド子爵が、ゆっくりと白い屋敷のほうへ歩いていくところだった。兵士たちが道を空け、深々と頭を下げる。鎖に繋がれた人々の列の脇を、子爵は一瞥もくれずに通り過ぎていく。
白い屋敷の玄関先で、二人の子どもが彼を出迎えた。
十代の半ばほどの、少年と少女。少年は仕立てのいい執事服を、少女は白いエプロンのメイド服を着ていた。この灰色の場所で、そこだけが、絵本の一頁のように整っていた。
けれど、二人の首元には、襟に半ば隠れるようにして——鈍く光る、鉄の輪が見えた。
ハロルドが何か言葉をかけると、二人は揃って頭を下げた。子爵は満足そうに目を細め、少女の髪をひと房、指先ですくい上げてから、屋敷の中へと消えていった。
白い扉が、静かに閉まった。
ミラは、壁の上で動けなかった。
師匠の手紙が、頭の中で何度も繰り返されていた。
——元気だ。心配するな。
師匠は、本当にあの手紙を、自分の手で書いたのだろうか。
それとも。
ミラは、灰色の箱が並ぶ区画を、一列ずつ、目で辿りはじめた。
うつむいて歩く人々の背中の中に、白髪の、肩幅の広い、片腕を失った老人の姿を探して。




