魔導具の調製
師匠のいない店は、驚くほど静かだった。
乳鉢を回す音も、調合の失敗を叱る声も、瓶の封をする「よし」という短い呟きもない。ミラはこの三日間、カウンターの内側に座ったまま、ほとんど何もできずにいた。客が来れば棚の薬を渡し、来なければ、師匠の前掛けを膝の上に広げて、えぐれた焦げ跡のような染みをぼんやりと眺めていた。
四日目の朝、ミラは鏡の前で両頬をぱちんと叩いた。
「……よし」
師匠の口癖を真似てみると、喉の奥が少し痛んだ。けれど、言ってしまえば不思議と手が動いた。前掛けの紐を、いつもより一つきつく結ぶ。大きすぎる前掛けが、少しだけ身体に馴染んだ気がした。
その日最初の客は、日に焼けた顔の青年だった。
革鎧の肩には擦り傷がいくつもあり、腰の剣は使い込まれて柄の巻き革が黒ずんでいる。冒険者だ。
「ゴルド爺さんの店で合ってるよな? アーティファクトを頼みたいんだが」
「師匠は今……いません。でも、あたしが作ります」
青年はミラを上から下まで眺め、それから少しだけ眉を下げた。事情を察したのだろう。この街で、ゴルドの名を知らない者はいない。そして十日前の騒ぎを知らない者も。
「カイルだ。頼みたいのは、炎の塊を撃ち出すやつ。単純なのでいい。とにかく、少ないマナで撃てるやつがほしい」
「少ないマナで……」
「俺、レベル一なんだよ」
カイルは気にした様子もなく笑った。
「貴族とは違うんだ。魔物とやり合うと、すぐに魔力が底をつく。力場障壁を一枚張ったら、あとは剣だけだ。騎士団の連中みたいに、ばんばん撃てりゃいいんだけどな」
騎士団の多くは、レベル2の中位貴族の子弟だ。その上に立つ団長や領主様はレベル3。そして王都の玉座に座る王族は、レベル4だという。
生まれ持ったマナの器が、そのまま身分になる。この世界では、それが当たり前のことだった。
「わかりました。三日ください」
カイルが帰ったあと、ミラは工房の奥の棚から、師匠の調合帳を引っぱり出した。分厚い革表紙の、角がすり切れた帳面。ページをめくるたび、師匠の角ばった字がびっしりと並んでいる。
——炎弾具。素体は樫の短杖。微マナ液に一晩浸し、よく染ませること。のち、魔渇石液に三日漬け込む。魔力を使い込んだ後は必ず溶魔液に沈め、中のイビルマナをすべて抜くこと。怠れば、杖が客を喰う。
最後の一行だけ、字が少し強く押しつけられていた。
ミラは作業台に、真新しい樫の短杖を置いた。まずは微マナ液。薬草の煎じ汁にほんのわずかなマナを溶かした、薄緑色の液だ。浅い桶に満たして杖を沈めると、木肌の細かな導管に液がゆっくりと吸い込まれていく。ほとんど感じられないほどの、かすかなマナの気配。これが、すべての始まりになる。
翌朝、杖を引き上げて布で拭うと、ミラは棚のいちばん下から、重い陶器の壺を取り出した。
蓋を開けると、中には黒い石がごろごろと詰まっている。魔渇石。生き物や魔物の死骸から取れる、マナの抜け殻だ。艶のない、炭のような黒さで、手に取ると妙に軽い。ずっと昔、師匠はこれを「死んだものが最後に残す、空っぽの器だ」と言っていた。
ミラは乳鉢で魔渇石を砕き、水で溶いた。墨を流したような真っ黒な液ができあがる。その中に、微マナ液を吸った短杖をそっと沈めた。
変化は、じわじわと起きた。
一日目の夕方、杖のまわりの黒い液面に、細かな泡が立ちはじめた。二日目には、杖の木目がほのかに赤みを帯び、触れると指先にちりちりとした熱を感じるようになった。杖の中に染み込ませたほんの僅かなマナが、少しずつ、少しずつ増えている。
ミラは三日間かけて、液に魔渇石を少しずつ足しながら調製を行った。
三日目の朝、杖を引き上げた。
黒い雫が落ちきると、樫の木肌の下で、赤い光が呼吸をするように明滅していた。握ると、手のひらに確かな温もりが返ってくる。杖そのものが、魔力を宿していた。
裏庭の的に向けて、ミラはほんの少しだけマナを流した。
短杖の先から、拳ほどの火球が唸りを上げて飛び出し、藁人形の胸を焦がした。
「……できた」
声に出したら、なぜか涙がこぼれた。
この三日間、悲しむのを忘れていたことに気づいたからだった。
翌朝、短杖を受け取ったカイルは、目を丸くした。
「すげえ。本当にちょっとのマナで撃てる。爺さんにも負けてないんじゃないか?」
「まだまだです。師匠が作ったほうが長持ちしますから。」
そう答えながら、ミラは少しだけ笑えた。
その夜、ミラは師匠に手紙を書いた。
郊外第三居住区へ立ち入ることは許されない。けれど、検閲を通した手紙なら、週に一度の便で届けてもらえる。
——師匠、元気ですか。カイルという冒険者さんに炎弾具を作りました。マナを込めると本当に温かくなるんですね。左腕は痛みませんか。ご飯はちゃんと食べていますか。そちらはどんなところですか。寒くはないですか——
書きたいことが多すぎて、便箋は三枚になった。
返事は、十日後に届いた。
封を切ると、見慣れた角ばった字が、たった三行だけ並んでいた。
——元気だ。飯は不味い。店を頼む。ゴルド
ミラは思わず吹き出し、それから、その三行を何度も読み返した。
それから季節がひとつ巡るまでに、ミラは七通の手紙を出し、師匠からは五通の返事が届いた。
どれも短かった。元気だ。心配するな。
五通目を読み終えたとき、ミラはふと、手を止めた。
師匠の手紙は、いつも元気だと書いてある。
けれど、ミラが何度尋ねても——そこがどんな場所なのかだけは、一度も、書かれていなかった。
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その日は、朝から依頼が立て込んでいた。
冒険者の短杖の手入れが三本、パン屋の窯のアーティファクトの溶魔液処理がひとつ、それに鍛冶屋から持ち込まれた盾の修繕。ミラは昼食も立ったまま済ませ、気づけば窓の外は茜色に染まっていた。
最後の仕事は、領主様のお屋敷に、マナを込め直した魔剣を納めることだけだった。
「もうこんな時間……疲れたな」
ため息まじりに呟きながら、ミラは布で包んだ魔剣を抱え、店の前に待たせていた四足型のゴーレム車に乗り込んだ。土塊の四本脚がのそりと動き出し、石畳を抜けて、街から少し離れた高い丘へと続く坂道を登っていく。
丘の上の屋敷が近づくにつれ、夕闇が濃くなっていった。
屋敷の脇には、高い石塀にぐるりと囲まれた庭がある。中は見えない。けれど、その塀の向こうから、ときおり光が漏れ出していた。赤、黄、緑、青——花火のような、けれど音のない、ばらばらの色の閃き。
ミラは目を凝らした。風に乗って、微かに人の声も聞こえる。笑い声のようにも、叫び声のようにも聞こえたが、何を言っているのかまではわからなかった。
「……お祭り、かな」
そう呟いてみたものの、胸の奥に小さな棘が刺さったような感じがした。
正門の前でゴーレム車を降りると、すでに一人の男が待っていた。
長身痩躯の、五十代ほどの男だった。白髪をきっちりと撫でつけ、黒いタキシードには皺ひとつない。右目にだけ嵌めた片眼鏡が、門灯の光を受けて冷たく光っている。
「お待ちしておりました。執事のブルース・ランフォードと申します。どうぞ、こちらへ」
声は丁寧で、物腰は柔らかい。それなのに、片眼鏡の奥の瞳だけが、少しも笑っていなかった。
ミラは屋敷の奥へと通された。
磨き上げられた大理石の廊下、壁に並ぶ歴代当主の肖像画、天井から下がるのは、一つ一つにフェアリーを灯した巨大な硝子のシャンデリア。ミラの店がまるごと収まりそうな広い部屋で、ようやく足が止まった。
「ハロルド様がお見えになります」
ほどなくして扉が開き、一人の青年が入ってきた。
三十代ほど。陽に透けるような金髪に、すらりと高い背丈。細身ながら、褐色の上等なスーツの肩には、ほどよく鍛えた筋肉の線が浮いている。整った顔立ちに、爽やかな笑みを浮かべていた。
この街の領主、ハロルド・ヴァンギット子爵。
マナレベル三の、高位貴族。
「君がゴルドの弟子か。噂は聞いているよ」
ハロルドは自ら魔剣を受け取ると、包みを解き、刀身を灯りにかざした。剣の芯で、込め直したマナが脈打つように淡く光る。
「いい剣だ。彼がいなくなって心配していたが、杞憂だったようだな」
「ありがとうございます」
「また、何かあれば頼もう」
穏やかな言葉だった。けれど、その間ずっと、ハロルドの視線はミラから離れなかった。
頭の先から足元まで、ゆっくりと。まるで、市場で品物の値打ちを見定めるような目つきで。
ミラは、前掛けの裾をきゅっと握った。どうしてかはわからない。ただ、その目が苦手だと思った。
「……魔道具の作製や修理でしたら、いつでもお任せください」
どうにかそれだけ言って頭を下げると、ハロルドは満足げに目を細めた。
部屋を辞して、長い廊下を一人で戻る途中だった。
曲がり角の柱の陰に、何かがうずくまっているのが見えた。
少年だった。十三か、十四くらいだろうか。擦り切れた襤褸布を身体に巻きつけ、裸足の足は泥と傷にまみれている。磨き上げられた大理石の床の上で、その姿だけが、まるで絵の中に紛れ込んだ染みのようだった。
少年が顔を上げた。ミラと目が合う。
次の瞬間、少年は弾かれたように駆け寄ってきて、ミラの前掛けにしがみついた。
「助けて……!」
「えっ、ど、どうしたの?」
少年の指は氷のように冷たく、がたがたと震えていた。
「マナレベルゼロは……貴族の、おもちゃにされて、殺されるんだ……! あの庭で、みんな……!」
ミラの頭の中が、真っ白になった。
ゼロ。
灯りのない丘。師匠の、短い手紙。
「ミラ殿」
背後から、静かな声がした。
いつの間にか、執事のブルースがそこに立っていた。足音ひとつ、聞こえなかった。
ブルースは少年の襟首を掴むと、ミラから引き剥がした。少年が叫び、暴れる。どこからともなく現れた別の執事とメイドたちが、手際よくその腕と脚を押さえ込んだ。
「お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
ブルースは片眼鏡の位置を指先で直しながら、淀みなく言った。
「この少年は、つい先ほど街道で保護したマナ欠乏症の予備軍患者です。錯乱しておりましてな。これから急ぎ、隔離居住地へ移送するところでございます。——では」
その目が、鋭くミラを射抜いた。
それ以上、何も訊くな。片眼鏡の奥の瞳は、そう言っていた。
「たすけて! お姉ちゃん、たすけ——」
少年の声は、廊下の奥へと引きずられていき、扉の閉まる重い音とともに途切れた。
「正門まで、お送りいたしましょう」
ブルースは何事もなかったかのように微笑み、ミラを促した。
ミラは何も言えなかった。ただ、震える足で、その背中についていくことしかできなかった。
正門を出て、待たせていたゴーレム車に乗り込む。ブルースは門の前で深々と一礼し、扉が閉まるまで、ずっとこちらを見ていた。
四本脚が動き出し、坂道を下りはじめる。
ミラは前掛けを握りしめたまま、振り返った。
高い石塀の向こうで、また、色とりどりの光が瞬いた。
赤。青。緑。
そして、さっきよりもはっきりと——誰かの、悲鳴のような声が聞こえた気がした。
ミラは、薬鞄の中の、師匠からの手紙を思い出していた。
——元気だ。心配するな。
師匠。
そこは、本当に、どんな場所なんですか。




