城塞都市ハルネ 夕暮れ
「師匠、腕を!」
ミラは鞄の底から、赤い封の小瓶を掴み出した。ゴルドが特別な客のためだけに作る、高濃度のマナ薬。一滴で骨折さえ繋ぐという、店でいちばん高価な薬だ。
マナが足りないから、侵蝕される。なら、マナを注げばいい。
そう、思った。
「待て、ミラ——」
師匠の制止より先に、ミラは封を切り、赤い液体を傷口に注ぎかけていた。
ゴルドの喉から、声にならない声がほとばしった。
傷口が白く泡立ち、次の瞬間、ぶすぶすと煙を上げて黒く焼け爛れていく。赤黒い飛沫が触れていた肉が、皮膚が、見る間に縮れて固まり、石炭のような塊に変わっていく。師匠の指が石畳を掻きむしった。ミラは瓶を取り落とし、ただ、それを見ていることしかできなかった。
ごろり、と。
拳ほどの黒い塊が、師匠の前腕からこぼれ落ちて、石畳の上で乾いた音を立てた。
あとに残ったのは、えぐり取られたような、焦げた窪みだった。
「あ……あ、あたし……」
膝が震えた。手が震えた。
治そうとしたのに。助けようとしたのに。
「……いい」
荒い息の合間に、ゴルドが言った。額から汗が滴り、顔は紙のように白い。それでも師匠は、残った右手でミラの手首を掴んだ。骨ばった、熱い手だった。
「よく、やった。侵蝕は……焼いて落とすしかない。教えて、なかったな」
「でも、腕が……」
「腕で済んだなら、安いもんだ」
その言葉を遮るように、店の奥から、湿った足音が近づいてきた。
かつて行商人だったものが、扉の残骸をまたいで、陽の下へ這い出してくる。鱗に覆われた背が波打ち、炭化した手首の先で、新しく生えた細い指が、ひくひくと空気を探っていた。
もう、顔はなかった。顔のあった場所には、閉じたり開いたりする、縦に裂けた穴があるだけだった。
それが、ミラのほうを向いた。
「伏せろ!」
ゴルドが右手を突き出した。ミラの目の前の空気が、硝子のようにきしんで凝り固まる。力場障壁。突進してきた怪物がそれにぶつかり、鈍い音を立てて弾かれた。
けれど障壁は、蜘蛛の巣のようにひび割れていた。師匠のマナが、もう足りないのだ。
二度目の突進で、障壁は砕けた。
その刹那、横合いから銀の閃光が走った。
怪物の首——首だったはずの場所——が、斜めに断ち割られる。どさりと崩れた巨体の向こうに、警備隊の外套をまとった長身の女が立っていた。剣身に纏わせた力場の光が、ゆっくりと消えていく。
「警備隊長のヴァルナロッドだ。ゴルド翁、無事か」
「……生きてはいる」
「東門から三体、同じゴーレムが入った。どれも止まらん。荷はすべて、あの赤黒いやつだ」
ミラは息を呑んだ。三体。あんなものが、まだ街の中を歩いている。
ヴァロが去ったあと、ゴルドは壁にもたれたまま、焦げた窪みの残る腕をじっと見つめていた。長い沈黙のあと、師匠はぽつりと言った。
「ミラ。ひとつ、約束しろ」
「……はい」
「もし俺が、この先、変わりはじめたら」
師匠は、そこで言葉を切った。
そして、いつも調合のやり方を教えるときと同じ、穏やかな声で続けた。
「迷うな。鉈は、棚の下にある」
ミラは答えられなかった。
ただ、師匠の腕の、黒く焦げた窪みの縁を見ていた。
城塞都市ハルネの日は沈んでいった。
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あの日から十日が過ぎた。
東門の焼け跡はまだ黒く、市場の石畳には炭化したゲルの痕がまだらに残っている。それでも、パン窯には火が戻り、広場の街灯には新しいフェアリーが灯された。城塞都市ハルネは、何事もなかったような顔をしようとしていた。
その朝、街の診療所の前には長い列ができていた。
季節ごとのマナレベルチェック。本来はひと月先のはずだったが、あの騒ぎのあと、領主の布告で前倒しになったのだ。
「次の方、どうぞ」
白衣の診療官に呼ばれて、ミラは診察室に入った。部屋の中央には、腕ほどの太さの水晶柱が据えられている。手のひらを当てると、内側に淡い光が満ち、刻まれた目盛りのどこまで光が昇るかで、その者の有効マナ濃度がわかる仕組みだ。
ミラの光は、一つ目の刻みを少し越えたところで止まった。
「マナレベル1。問題なし。」
診療官は帳面に何かを書きつけた。
待合の長椅子に戻ると、ゴルドが腕を組んで座っていた。左の前腕には、焼き落とした跡を覆う薄い包帯。この十日間、師匠は一度も痛いと言わなかった。片手で器用に乳鉢を回し、片手で瓶の封をし、いつも通りに店を開けて、いつも通りにミラの調合の失敗を叱った。
「ゴルド・ハーヴェン殿」
呼ばれて、師匠はゆっくりと立ち上がった。
すれ違いざま、ミラの頭にぽんと手を置いていく。ミラは、なぜか胸がざわついた。
診察室の扉は閉ざされた。
けれど、薄い板壁の向こうから、診療官の声が聞こえた。
「……もう一度、お願いします。手のひらを、しっかりと」
長い沈黙。
それから、帳面を閉じる、乾いた音。
「マナレベル、ゼロです」
ミラは息を止めた。待合にいた人々が、一斉に診察室の扉を見た。ざわめきが、さざ波のように広がっていく。
ゼロ。
この街の誰もが、その意味を知っている。マナを失った器は、イビルマナを押し返せない。わずかな侵蝕でも、一気に呑まれる。だからゼロの者は、街の中に置いておけない。
「そんなはず、ない」
ミラは立ち上がっていた。
「師匠はこの街でいちばんの魔道具師です。誰より強い力場を使えるんです。何かの間違いです、もう一度測って——」
「ミラ」
扉が開き、ゴルドが出てきた。師匠の顔は、いつもと何も変わらなかった。
「間違いじゃない。自分のことは、自分がいちばんわかる」
「でも……」
言いかけて、ミラは気づいた。
あの日。師匠は障壁を張り、ミラを守り、それが砕けるまで魔力を絞り出した。そして傷口から侵蝕が入り込み——ミラが、高濃度のマナ薬で、それを焼き落とした。
「あたしの、せいだ……」
「違う」
ゴルドの声が、少しだけ強くなった。
「お前が焼かなければ、俺は今頃、あの行商人と同じ姿だ。ゼロでも、人の形で生きてる。上出来だ」
診療所の入口で、甲冑の擦れる音がした。
銀の胸当てに、領主の紋章を刻んだ外套。騎士団の兵が四人、無言で待合に入ってくる。その後ろには、窓に格子のはまった、金属張りの馬車が停まっていた。
「ゴルド・ハーヴェン殿。領主令第十二条に基づき、郊外第三居住区へ移送いたします」
先頭の騎士の声は、丁寧で、冷たかった。
「待ってください! 師匠は危なくなんかない、ずっと普通に——」
ミラが騎士の腕にすがりつこうとした瞬間、別の騎士が槍の柄を差し入れて、その間を遮った。乱暴ではなかった。それが、かえって残酷だった。
「お嬢さん。これは罰ではない。この方のためでもあるのです」
ゴルドは騎士たちに軽く頭を下げ、それからミラのほうを振り返った。
前掛けの紐をほどき、それをミラの手に押しつける。革に、師匠の体温がまだ残っていた。
「店の鍵は、三段目の棚の裏だ。青い封の中和剤は切らすな。赤い封は……使いどころを、もう覚えたな」
「師匠……っ」
「泣くな。郊外っていっても、隣の丘だ。死にに行くわけじゃない」
師匠は、笑った。
目尻の皺を深くして、いつも調合を褒めるときと同じ顔で。
騎士たちに挟まれて、ゴルドは馬車に乗り込んだ。金属の扉が閉まる重い音が、待合の床まで響いた。
馬車が動き出す。石畳を鳴らし、広場を横切り、真新しいフェアリーが灯る街灯の下を抜けて、西の門へ。
ミラは診療所の前に立ち尽くしたまま、前掛けを胸に抱きしめていた。
郊外第三居住区。
ハルネの人々はそこを、声を潜めてこう呼ぶ。
——灯りのない丘、と。




