城塞都市ハルネの一日
城塞都市ハルネの朝は、パン窯の匂いと荷運びゴーレムの足音で始まる。
石畳を鳴らして通りを往く土塊の巨人たちは、背中に麦袋を山と積み、誰に命じられるでもなく市場へ向かっていく。魔道具師見習いのミラは、その列の隙間を縫うように走りながら、店の鍵を指先でくるくると回していた。
「ミラ、また遅刻か」
「遅刻じゃありません、ゴーレムが詰まってたんです」
カウンターの奥で、師匠のゴルドが白い眉を上げる。七十を過ぎてもなお、この街で一番の物操術の使い手だ。棚には、彼がマナを込めた薬の小瓶が、朝の光を受けて淡く光っている。
午前中は穏やかに過ぎた。武器屋の息子が擦り傷の薬を買いに来て、パン屋の女将が「窯のアーティファクトの火力が弱い」と愚痴をこぼし、ミラは師匠に教わりながら解毒薬の調合を三つ失敗した。広場の街灯の中では、手のひらほどのサイズの半透明の正多面体の輝きーフェアリーが、昼間でも光を放っている。ハルネの子どもは皆、あの小さな光を眺めて育つのだ。
異変に気づいたのは、昼過ぎだった。
薬草を買いに広場を横切ったとき、ミラは足を止めた。東の端の街灯が、ひとつ、空っぽになっている。
割れたわけではない。ガラスの中にいたはずのフェアリーが、ただ、いない。
「……核が壊れた?」
覗き込んでも、残骸すらなかった。まるで光が少しずつ痩せて、最後に消えてしまったかのように。
隣の街灯のフェアリーも、どこか弱々しい。光が、弱弱しく点滅している。
店に戻って話すと、ゴルドは黙って立ち上がり、店先で力場解析を走らせた。指先から広がる薄い波紋が、空気のマナをなぞっていく。しばらくして、師匠は小さく舌打ちをした。
「……薄いな。東のほうだけ、妙に薄い」
「薄いって、マナがですか?」
「ああ」
そのとき、店の扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは、旅装束の男だった。東街道を通ってきた行商人だという。顔色が悪く、右手に巻いた包帯には、じっとりと黒っぽい染みが浮いている。
「薬を……傷薬を、いちばん強いやつを」
「その手、見せてください」
ミラが包帯に触れようとすると、男はびくりと手を引いた。
「森の、街道沿いでな。荷車が何かに嵌まったんだ。赤黒い、泥みたいな……ちょっと触っただけなんだよ。甘ったるい、腐った果物みたいな匂いがして……」
ゴルドの顔から、すっと血の気が引くのがわかった。
師匠は無言で男の手首を掴み、包帯を一気に剥がした。
ミラは息を呑んだ。
男の指先から手の甲にかけて、皮膚が灰色の、乾いた鱗のようなものに変わっていた。鱗の隙間からは、細い糸のような何かが、かすかに蠢いている。
「ミラ。扉を閉めろ。それから、鉈を持ってこい」
「な、鉈って……」
「早く!」
行商人が悲鳴を上げた。「切るのか!? 薬で治るだろう、なあ!」
ゴルドは答えず、男の手首に指を当ててマナを流し込んだ。鱗の縁がじゅっと音を立て、黒く焦げて、石炭のように固まっていく。けれど、その焦げた境目のさらに奥、手首の皮膚の下で、もう何かが脈打ちはじめていた。
「……速い。この男は、速いほうだ」
師匠の声が、かすかに震えていた。ミラは、それを初めて聞いた。
窓の外で、からん、と乾いた音がした。
振り向くと、広場のフェアリー灯が、またひとつ、静かに光を失っていくところだった。
そしてその向こう——東の門の方角から、荷運びゴーレムが一体、主を失ったように、ゆっくりと、ふらつきながら歩いてくるのが見えた。
その足元を、赤黒い何かが濡らしていた。
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ゴーレムは、止まらなかった。
門番が槍を突きつけても、通りの男たちが声を張り上げても、土塊の巨人は顔のない頭をわずかに傾けただけで、同じ歩幅で石畳を進んでくる。背中の荷台に積まれた木箱の隙間から、赤黒いものが、とろり、とろりと垂れていた。
「なんだ、ありゃ……」
「荷崩れか? 誰のゴーレムだ」
人が集まりはじめていた。ミラは店の窓に張りついたまま、喉の奥が凍りつくのを感じていた。
あの色だ。行商人の包帯に滲んでいた、あの色。
「ミラ」
背後で、ゴルドが低く呼んだ。振り向くと、師匠は行商人を床に押さえつけ、その手首に革紐をきつく巻いていた。男はもう悲鳴を上げていない。ただ浅い呼吸を繰り返し、焦点の合わない目で天井を見つめている。
「棚の三段目、青い封の瓶を全部持っていけ。マナを含んだ中和剤だ。あれに、ぶちまけろ」
「師匠は……」
「こっちは、俺がやる」
その手には、鉈が握られていた。
ミラはそれ以上、何も訊けなかった。
瓶を抱えて外へ飛び出すと、広場はもう悲鳴に満ちていた。
ゴーレムの足跡が、黒ずんだ赤に濡れている。石畳の目地に染み込んだゲルが、ぶくぶくと泡を立てながら、まるで根を張るように四方へ細い筋を伸ばしていた。その上を、誰かの飼い犬が不思議そうに嗅ぎまわっている。
「触らないで! みんな、離れて!」
ミラは叫びながら、最初の瓶を叩きつけた。
青い液体が赤黒い泡にかかった瞬間、じゅう、と肉の焼けるような音がした。ゲルの表面が黒く縮れ、炭のように固まっていく。
効く。効いている。
二本、三本と投げつけるたびに、広場に焦げた匂いが立ちこめた。人々が少しずつ後ずさり、輪が広がる。
けれど、ゴーレムは歩き続けていた。広場を横切り、市場の通りへ——昼間、パン屋の女将が窯の愚痴をこぼしていた、あの通りへ。
「止まって……止まりなさいよ!」
ミラは力場を叩きつけた。見習いなりに精一杯の、ゴーレムへの停止命令。
何の手応えもなかった。命令が、深い水に石を投げたように、ただ吸い込まれて消えていく。
店の方角から、獣の咆哮のような声が響いた。
ミラは振り返った。
店の扉が、内側から弾け飛んでいた。転がり出てきたのは、ゴルドだった。白髪が乱れ、片腕を押さえている。そしてその後ろ、暗い店の奥で、何かが身を起こしていた。
人の形をしていたのは、もう肩から上だけだった。
背中から腰にかけて、灰色の鱗がびっしりと覆い、裂けた服の下で、関節の数がおかしい脚が床を掻いている。切り落とされた右手首の断面は黒く炭化していたが、その炭の縁から、新しい、細い指のようなものが何本も伸びはじめていた。
あの行商人だった。
まだ、ほんの半刻も経っていないのに。
爬虫類と節足動物と人間が融合したような奇妙な見た目をしていた。
「……速いほうだと、言っただろう」
ゴルドが膝をつきながら、かすれた声で笑った。
その腕から垂れる血を見て、ミラは息を止めた。師匠の袖に、赤黒い飛沫が、ひとしずく、付いていた。
カン、カン、カン——と、街の鐘楼が鳴りはじめた。
ハルネで最後に警鐘が鳴ったのは、ミラが生まれるよりずっと前のことだと聞いている。




