師匠
白く濁った両目が、ミラを捉えたまま動かなかった。
「……とは言っても、だ」
青年が、ミラの前に半歩出た。視線は師匠から外さないまま、足元を探る。
「俺には、まともな武器がねえ」
壁際の暗がりに、錆の浮いた長剣が一本、転がっていた。かつてここで誰かが持っていたものなのか、それとも、ここで誰かが喰われたときに落としたものなのか。青年はそれを拾い上げ、両手で握り直して顔をしかめた。
「これでいいか。……重いな」
そして、ちらりとミラの手袋を見た。
「あんた、魔導具師なんだろ。この剣に、何か仕込んでくれ」
「時間がないので、簡単なものしかできません」
ミラは剣の刀身に両手を当てた。
冷たい鉄。錆の下で、刃はまだ死んでいない。
マナを流し込む。まずは刀身の芯へ、鉄の目を締めるように。折れないように。欠けないように。それから刃の縁へ、細く、鋭く、雷の紋を這わせるように。手袋の雷精の紋が、マナの通り道を導いてくれる。
刀身が、かすかに青白く光った。刃の縁を、ぱちぱちと細い火花が走る。
「強度の向上と、雷撃を込めました」
ミラは手を離し、まっすぐに師匠を見た。
「師匠を、気絶させます」
声が震えないように、腹の底に力を込める。
「連れて帰って、治すんです」
青年が、信じられないものを見るような目で、ミラを振り返った。
「まだ、そんなことを言ってるのか」
その声は、責めるというより、ひどく疲れていた。
「ああなったら、終わりだ。俺は、何人も見てきた」
ミラが言い返そうと口を開いた、その瞬間だった。
ひゅおっ、と風が鳴った。
「伏せろ!」
青年がミラの頭を押さえつけ、二人同時に床へ倒れ込んだ。その頭上すれすれを、太い触手が薙ぎ払っていく。刃のような爪が背後の石壁を抉り、砕けた石片が雨のように降り注いだ。
ミラは床に手をついて顔を上げた。
師匠だったものが、這ってくる。
歪な左腕の三つの関節を、ばらばらに折り曲げ、伸ばし、長い爪で石の床を掴んでは、下半身のない身体を引きずって。ぎ、ぎ、と爪が床を掻く。背中の触手が、獲物を探る蛇のようにうねる。
速くはない。
けれど、確実に、二人を壁際へと追い詰めてくる。
「来るぞ!」
二本目の触手が、上から振り下ろされた。
青年が剣を跳ね上げる。がきん、と鉄と爪がぶつかり、刃の縁を走った雷が、触手の表面でばちんと弾けた。触手がびくりと痙攣し、跳ね返される。
「……っ、効くじゃねえか!」
三本目が、横からミラを狙った。
ミラは手袋をはめた右手を突き出した。手のひらと触手がぶつかる寸前、雷精の紋が光る。ばちっ、と火花が散り、触手が弾かれたように逸れた。腕が、肩まで痺れた。
二人は背中合わせになり、次々と襲いかかる触手を、剣と手袋で弾き返していった。
けれど、触手は何本もあった。弾いても、弾いても、また別の方向から伸びてくる。
青年の右から、低く、床を這うように一本が忍び寄った。
「後ろ——」
ミラが叫ぶより早く、触手が青年の手首を打った。
剣が手から弾き飛ばされ、宙を回って、離れた床に突き刺さる。間髪入れず、別の触手が青年の胴を薙いだ。
「ぐはっ!」
青年の身体が吹き飛び、反対側の石壁に叩きつけられた。鈍い音とともに、ずるりと床に崩れ落ちる。
「あ……!」
ミラが青年のほうへ駆け出そうとした瞬間、その行く手を、触手が鞭のように打ち据えた。
後ずさる。もう一歩。背中が、冷たい石に当たった。
壁だった。
逃げ場が、なくなった。
師匠が、ミラの目の前まで這い寄ってきていた。
近くで見ると、その顔は、なおさら師匠だった。
長く垂れた白い眉。目尻の深い皺。頬の、小さな古傷。工房で火傷したときのものだと、昔、笑って教えてくれた。
その唇が、ひくりと動いた。
「み……ら……」
喉の奥から、泡立つような声。
「お、ま……え……を……お……」
「師匠……」
ミラが、その名を呼んだ時だった。
足首に、何かが巻きついた。
気づいた時には、もう遅かった。ぬめりを帯びた触手が、ミラの右足を締め上げ、そのまま一気に宙へと吊り上げた。
「きゃあっ!」
視界が反転した。肩に掛けていた薬鞄の紐が外れ、鞄が床に落ちて、中の小瓶がいくつか転がり出る。
逆さに吊られたまま、ミラは師匠の顔の前まで引き寄せられた。
師匠の口が、すぐ目の前にあった。
腐った肉の臭いが、生温かい息とともに顔に吹きつける。濁った白い目が、まばたきもせずに、ミラを覗き込んでいた。
「お……お……」
唇が、裂けるように開いた。
「……か、し……たい……」
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
「……ちがう」
逆さまのまま、ミラは首を振った。
涙が、額のほうへ流れていく。
声が、震えた。
「師匠は、そんなこと絶対に言わない! あたしの頭を叩いて、調合を叱って、よくやったって笑って……! そんなこと言うのは、師匠じゃない!」
ミラは右手を伸ばし、足首に巻きついた触手を、手袋ごと鷲掴みにした。
ありったけのマナを、雷精の紋に叩き込んだ。
ばぢぃっ!
青白い閃光が、地下の空間を真昼のように照らし出した。
触手が激しく痙攣し、締めつけていた力が、ふっと緩む。
ミラの身体は、石の床に落ちた。
背中を打ち、息が詰まる。それでも、ミラはすぐに身体を転がし、床に落ちた薬鞄に手を伸ばした。
指先が、赤い封の小瓶に触れた。
高濃度のマナ薬。
——赤い封は、使いどころを、もう覚えたな。
あの日、騎士団の馬車に乗る前に、師匠はそう言った。
ミラは封を噛み切り、瓶の中身を、目の前の灰色の身体に向かってぶちまけた。
じゅうううっ、と肉の焼ける音が響いた。
赤い液体のかかった灰色の皮膚が、白く泡立ち、次の瞬間には黒く焼け爛れていく。焼けた肉が硬く縮み、石炭のように黒く変色し、表面からぼろぼろと崩れ落ちていった。
師匠の喉から、獣とも人ともつかない絶叫がほとばしった。
あの日と、同じだった。
師匠の腕に、この薬をかけた、あの日と。
ミラは震える足で立ち上がり、床に突き刺さったままの長剣へと走った。
柄を握り、引き抜く。刀身の縁で、まだ雷の火花がかすかに爆ぜている。
二本目の赤い封を、刀身に浴びせかけた。
剣が、青く脈打つように光った。
「う……あ……」
ミラは、剣を振りかぶった。
「ああああああっ!」
振り下ろす。
刃が、伸びてきた触手を断ち切った。斬られた断面がじゅっと焼け、黒く炭化して、ぼろりと床に落ちる。
もう一度。
歪な左腕の、三つ目の関節を。刃が食い込み、焼け、崩れる。
もう一度。
もう一度。
ミラは、泣いていた。
涙で、何も見えなかった。それでも、剣を振るい続けた。斬るたびに、肉が焼ける匂いがした。斬るたびに、黒い炭のかけらが、雪のように舞った。
師匠の工房の匂いを、思い出していた。
薬草を煮る匂い。魔渇石を砕く匂い。乳鉢を回す音。「よし」という短い呟き。
触手が、一本、また一本と、黒い炭になって崩れていく。
歪な左腕が、根元から焼け落ちる。
やがて、師匠だったものは、もう動かなくなっていた。
焼け爛れた胴体と、元のままの右手と、白い髪の頭だけを残して、床の上に、ぐったりと横たわっていた。
ミラは、剣を逆手に持ち替えた。
切っ先を、師匠の胸に向ける。
手が、震えた。
止まらなかった。
ミラは両手で柄を握りしめて——
心臓に、突き立てた。
じゅう、と、低い音がした。
刃の刺さったところから、白い湯気が、細く、静かに立ちのぼった。
背中に残っていた最後の触手が、宙で一度だけ震え、それから、だらりと床に垂れた。
しん、と、地下が静まり返った。
ミラは、剣の柄から手を離せなかった。
膝が崩れ、師匠の傍らに座り込む。
そのとき、床に垂れていた右手が、かすかに動いた。
節くれだった太い指。爪の間に、薬草の染みが残る手。
それが、ゆっくりと持ち上がり、ミラの頭に、ぽん、と触れた。
いつもと、同じ重さだった。
ミラは、顔を上げた。
師匠の目が、ミラを見ていた。
白い濁りの奥に、ほんのわずかに、灰青色の光が戻っていた。
唇が、動いた。
もう、ひび割れても、泡立ってもいなかった。
店のカウンター越しに聞いた、あの声だった。
「ミラ……」
目尻の皺が、ほんの少しだけ、深くなった。
「……お前を、愛してる」
頭の上の手が、するりと滑り落ちた。
灰青色の光が、ゆっくりと、遠ざかっていった。
ミラは、師匠の右手を両手で握りしめた。
まだ、温かかった。
石の天井に、ミラの泣き声だけが、いつまでも、いつまでも響いていた。




