第七話 灰色の神官
王都、中央神殿。
地下深くに位置する禁書資料室には、本来、大司教とごく限られた高位神官しか立ち入りを許されていない。
その薄暗い部屋の中に、一人の人影があった。
灰色のローブを深く被り、顔は影に隠れている。
その手には、先ほどまでひとりでに開いていた古い書物――『聖剣記・外伝』が握られていた。
「……やはり、間違いない」
小さく呟いた声は、若い男のものだった。
書物のページには、聖剣にまつわる伝承の中でも、ごく一部の高位神官にしか伝えられていない一節が記されていた。
『魔王とは、災厄ではない。世界そのものが生み出す、対の存在である』
『勇者が生まれるとき、世界は同時に、それを打ち消す器を用意する』
『魔王の器は、愛によって満たされ、愛によって目覚める』
『そして、目覚めた魔王が討たれるとき――世界は、対の片方を失い、崩壊する』
男は書物を静かに閉じ、震える手でそれを胸に抱いた。
「三百年前も、同じことが記されていた。だが、誰もその意味を理解しなかった」
彼の名は、ガイウス。
表向きは下働きの神官として神殿に仕えているが、その実態は――三百年前、この禁書を記した先代の記録者から、密かに知識を受け継いだ「観測者」の末裔だった。
観測者の役目は、ただ一つ。
魔王の器となる者を見つけ出し、その目覚めを見守ること。
そして、その器が「討たれる」ことのないよう、時に陰から手を貸すこと。
ガイウスは、森で見た光景を思い出していた。
あの水色の髪の少女――シエルと呼ばれていた娘が放った、無自覚な力。
あれは間違いなく、魔王の器が目覚め始めている兆候だった。
「そして、あの少年か」
シエルの前に飛び出した、黒髪の青年。
ヨハンといったか。
あの咄嗟の行動は、単なる幼馴染への庇護本能にしては、あまりに迷いがなかった。
まるで――何かを、知っているかのような。
ガイウスの脳裏に、書物のもう一節がよぎった。
『稀に、器の目覚めに先んじて、真実を知る者が現れる。時を超えし者、あるいは、定めより逃れし魂』
もしヨハンが「時を超えし者」だとすれば――彼は、前回の「世界の終わり」を知っている可能性がある。
「面白い」
ガイウスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
それは悪意からくるものではなく、むしろ、長年孤独に「観測」を続けてきた者が、初めて同じ真実を知る者に出会えたかもしれないという、静かな高揚だった。
「私も、彼らに合流するべきかもしれないな」
問題は、どう接触するかだった。
神殿の下働きが突然パーティに加わりたいと申し出れば、当然怪しまれる。
しかも、勇者パーティには既に、神殿から正式に派遣された聖職者――ミレイユがいる。
「……いや、焦る必要はない」
ガイウスは書物を棚に戻し、資料室を後にした。
三年という猶予がある。
前回、世界が崩壊するまでの時間が正しければ。
その間に、然るべき時にヨハンたちと接触し、真実を伝えればいい。
問題は、それまでに神殿本体が――特に、大司教アルデバランが、シエルの存在に気づかないかどうかだった。
もし神殿上層部が「魔王の器」の存在を察知すれば、彼らは迷わず、器が完全に目覚める前に「排除」しようとするだろう。
魔王が生まれる前に、その芽を摘む。それが、正統な神殿の教義だ。
――だが、それこそが、間違っている。
器を排除することは、対となる勇者の存在意義を消し去ることに等しい。
そして何より、器と勇者は「対」であるがゆえに、無理に片方だけを消し去ろうとすれば、世界の均衡そのものが崩れる。
三百年前の記録には、そうも記されていた。
ガイウスは足早に神殿の廊下を歩きながら、密かに決意を固めていた。
シエルという少女を、そしてヨハンという青年を、陰ながら見守り続けること。
そして、いざというときには、この禁断の知識を彼らに託すこと。
それが、観測者としての、自分の役目だと。
***
一方その頃、ミドルトンの街に到着した一行は、宿を取り、旅の疲れを癒していた。
「やっと落ち着けるね」
ミレイユが伸びをしながら、宿の窓から街並みを見下ろした。ミドルトンは商業で栄える中規模の街で、大通りには様々な店が軒を連ねている。
「今夜はゆっくり休んで、明日また出発しよう」
レオンの提案に、誰も異論はなかった。
だが、その夜。
シエルが一人、宿の裏庭で夜風に当たっていると、見知らぬ人影が近づいてきた。
「――少し、よろしいですか」
振り返ると、そこには見覚えのない、旅装束の若い男が立っていた。柔和な笑みを浮かべているが、その目の奥には、どこか観察するような鋭さが宿っている。
「どちらさまですか?」
シエルが警戒しながら聞くと、男は静かに一礼した。
「申し遅れました。私、しがない旅の学者でして。あなたに、少しお伝えしたいことがあるのです」
「私に?」
「ええ。あなた自身のことについて」
男の言葉に、シエルの心臓が大きく跳ねた。
「――もしかして、最近、自分でも説明のつかない力を、感じたことはありませんか?」
(第八話へ続く)




