第五話 森の魔物と、消えない影
王都を出て二日目。
街道は次第に細くなり、周囲の景色も畑や牧草地から、鬱蒼とした森へと変わっていった。
前回の生の記憶によれば、このあたりは「クロウ森林」と呼ばれ、低級の魔物が生息する、駆け出しの冒険者にとっての定番の狩場だったはずだ。
「このあたりから魔物が出るぞ。気を引き締めていけ」
レオンの声に、パーティ全体の空気が引き締まる。
俺は剣の柄に手を添えながら、内心で自分に言い聞かせていた。
――この森で、大きな事件は起きなかったはずだ。前回の生でも、確かここは通過点に過ぎなかった。
だが、今回は前回と違うパーティ構成だ。
何が起きても、油断はできない。
「ヨハン、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。この程度の魔物、レオンなら瞬殺だから」
シエルが隣で小さく笑う。
だが、俺はその笑顔の裏に、何か張り詰めたものを感じ取っていた。
――気のせいだろうか。
考える間もなく、茂みががさりと揺れた。
「来るぞ!」
レオンが叫ぶと同時に、灰色の毛皮をした大型の狼が三頭、飛び出してきた。
「グレイファング」。
低級とはいえ、群れで襲ってくると駆け出しの冒険者では手を焼く相手だ。
前回の記憶が正しければ。
「ミレイユ、後方支援を頼む! ヨハン、シエル、俺の後ろに!」
レオンの聖剣が輝き、一頭目の狼へと斬りかかる。
一撃で切り伏せる様は、さすがに聖剣の勇者と呼ぶにふさわしい鮮やかさだった。
だが、残り二頭が同時に別方向から襲いかかってくる。
「くっ――」
レオンの反応が、わずかに遅れた。
一頭がミレイユへ、もう一頭がシエルへと向かっていく。
「シエル、下がれ!」
俺は咄嗟に剣を抜き、シエルの前に飛び出した。
剣術など碌に習っていない俺の一撃が、狼にまともに通用するはずもない。
それでも、時間さえ稼げれば――。
狼が牙を剥き、俺に向かって跳びかかった、その瞬間。
「――っ!」
シエルが小さく声を漏らした。
次の瞬間、狼の体が、まるで見えない壁にぶつかったかのように、宙で弾かれた。
静寂が落ちた。
狼は地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
まるで何か強大な力に、一瞬で命を奪われたかのように。
誰も、何が起きたのか理解できていなかった。
レオンはもう一頭を斬り伏せた体勢のまま、目を見開いて固まっている。
「……今の、何?」
ミレイユが震える声で呟いた。
俺は、シエルを見た。
彼女は自分の手のひらを、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「シエル」
名前を呼ぶと、彼女はハッとしたようにこちらを振り向いた。
「わ、私、何もしてない……はず、なんだけど」
その声は、明らかに動揺していた。
演技ではない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「多分、たまたま木の枝が落ちてきたとか、そういうことなんじゃ……」
ミレイユが場を取り繕うように言うが、誰もその説明を信じてはいなかった。
狼が弾き飛ばされた軌道は、明らかに不自然だった。
上から何かが落ちてきたのではなく、シエルの方向から、まるで見えない力が放たれたかのような動きだった。
「レオン、今の剣は?」
俺は一縷の望みをかけて聞いた。
もし聖剣が今、シエルに反応していれば――それが何よりの証拠になる。
だがレオンは、困惑した顔で首を振った。
「いや……何も。むしろ、いつもより静かなくらいだ」
俺は密かに安堵した。
少なくとも、聖剣はシエルを「敵」だとは認識していない。
今のところは。
「とにかく、怪我人がいなくてよかった。休憩を取ろう」
レオンの提案で、一行は近くの開けた場所で休むことになった。
焚き火を囲みながら、シエルは相変わらず自分の手のひらを見つめていた。
俺はその隣に座り、小さな声で話しかけた。
「シエル、さっきのことだけど」
「……ごめん、自分でも何が起きたのか、全然わからないの」
「怖がらなくていい。誰も、お前を責めてない」
「でも」
シエルは俯いたまま、消え入りそうな声で続けた。
「もし、私が――私じゃない何かに、なりかけてるんだとしたら」
その言葉に、俺は息を止めた。
シエル自身が、何かに気づき始めている。
それは俺の推測を裏付ける、決定的な兆候だった。
同時に、これまで以上に彼女を守らなければならないという、強い焦りが胸を突いた。
「大丈夫だ」
俺はできる限り、平静を装って言った。
「何が起きても、俺がお前を守る。だから、一人で抱え込むな」
シエルは驚いたように顔を上げ、それから小さく、泣きそうな顔で笑った。
「……うん」
焚き火の炎が、二人の顔を赤く照らしていた。
その様子を、少し離れた場所から見つめる視線があったことに、このときの俺はまだ気づいていなかった。
森の闇の奥、木々の隙間から、灰色のローブの裾が一瞬だけ翻り――そして、音もなく消えた。
(第六話へ続く)




