第37話 魔王のいない世界
「……本当に、終わったのかな」
草原の上で、レオンが空を見上げていた。
どこまでも青い空。
赤い亀裂もない。
世界を覆っていた黒い影もない。
ただ、暖かな風が吹いている。
「たぶん」
俺は右手を見た。
そこには、まだ紋章が残っている。
「でも、俺たちだけは覚えてる」
シエルが俺の隣に立つ。
「今までの世界を?」
「ああ」
「私も覚えてる」
シエルは胸に手を当てた。
「全部じゃないけど……大切なところは、ちゃんと残ってる」
レオンが苦笑する。
「俺なんて、勇者だった記憶まであるぞ」
「もう勇者じゃないけどね」
ミレイユが笑った。
レオンは腰に差した剣を見る。
聖剣ではない。
ただの剣だ。
「それでいいさ」
レオンは剣を抜いた。
太陽の光が刀身に反射する。
「この剣で十分だ」
その言葉を聞いて、俺も少し笑った。
今までの世界では、勇者には特別な力が必要だった。
聖剣に選ばれなければならなかった。
魔王を倒す使命を背負わなければならなかった。
今は違う。
レオンはただの人間だ。
俺たちも同じだ。
それでいい。
「……行こう」
シエルが言った。
「この世界を見てみたい」
俺たちは近くに見える街へ向かって歩き始めた。
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街に入って最初に感じたのは、妙な静けさだった。
人はいる。
店もある。
子供たちが走っている。
市場では野菜が売られている。
鍛冶屋では金属を叩く音が聞こえる。
普通の街だ。
なのに。
俺は違和感を覚えた。
「ヨハン?」
シエルが振り返る。
「どうしたの?」
「……魔王って言葉、聞こえないな」
ミレイユが首を傾げた。
「魔王?」
「そう」
俺たちが歩いてきた道では、誰一人として魔王という言葉を口にしていない。
当然だ。
この世界には魔王が存在しない。
勇者も存在しない。
世界を滅ぼす運命もない。
だからこそ、俺たちは安心していた。
そのときだった。
小さな女の子が母親の手を引きながら走ってきた。
「お母さん、見て!」
女の子が空を指差す。
「雲がハートになってる!」
母親が笑う。
「本当ね」
シエルがその光景を見つめていた。
「……平和だね」
「ああ」
俺も空を見る。
確かに、雲は二つに分かれていた。
それが偶然重なって、ハートの形になっている。
「こんな世界が……本当にあるんだ」
シエルが呟いた。
俺は答えなかった。
ただ、その横顔を見ていた。
魔王にならなかったシエル。
勇者に選ばれなかったレオン。
失われなかったミレイユ。
世界を壊すことをやめたアベル。
そして、生きている俺。
これでいい。
そう思った。
その夜。
俺たちは街の宿に泊まった。
食事を終え、部屋へ戻ろうとしたときだった。
「ヨハン」
シエルに呼び止められた。
「どうした?」
「少し、外に出ない?」
俺たちは宿の屋上へ上がった。
夜空には星が広がっていた。
「綺麗……」
シエルが空を見上げる。
「ねえ、ヨハン」
「ん?」
「この世界には、私たちしか知らないことがあるよね」
俺は黙った。
「前の世界のこと」
「ああ」
「世界が何度も滅びたこと」
「……ああ」
「私が魔王になったこと」
「それも」
シエルはしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「じゃあ、どうして私たちだけ覚えてるの?」
俺は答えられなかった。
その瞬間。
右手の紋章が光った。
「ヨハン!」
俺たちは同時に立ち上がった。
紋章から、黒い光が漏れている。
「まだ終わってない……?」
俺が呟いた瞬間。
遠くの森で、何かが光った。
青白い光だった。
「行こう」
シエルが言う。
俺たちは宿を飛び出した。
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森の奥。
木々を抜けた先に、小さな黒い石が落ちていた。
第36話で見たものと同じだ。
俺は足を止めた。
「……これ」
シエルが近づく。
「前の世界の記憶?」
「分からない」
俺が手を伸ばす。
その瞬間。
黒い石から声が響いた。
『世界は……まだ終わっていない』
シエルが息を呑む。
「ヨハン」
俺は石を握った。
頭の中に、無数の映像が流れ込んでくる。
滅びた世界。
燃える王都。
泣いている人々。
魔王になったシエル。
聖剣を握るレオン。
そして――
俺。
何度も。
何度も。
同じ世界を繰り返している。
「違う……」
俺は石を離した。
「これは、前の世界じゃない」
「じゃあ何?」
「今の世界の記憶だ」
その瞬間。
黒い石に亀裂が入った。
パキッ。
小さな音がした。
シエルが俺の腕を掴む。
「何か出てくる」
石が割れる。
黒い煙が立ち上った。
俺は剣を抜いた。
シエルも魔力を集める。
けれど。
中から出てきたものを見て、俺たちは動けなくなった。
それは魔物ではなかった。
一人の子供だった。
十歳くらいだろうか。
黒い髪。
青い瞳。
白い服。
子供は地面に座り込んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
俺を見た。
「……お父さん?」
「……え?」
シエルが固まる。
俺も言葉を失った。
子供は俺を見つめている。
その目には、見覚えがあった。
俺自身の目だった。
「お父さん……」
少年は立ち上がる。
「やっと、会えた」
俺の背中に冷たいものが走った。
「お前……誰だ?」
少年は首を傾げた。
そして、当たり前のように笑った。
「僕は――」
そこで、少年の瞳が赤く光った。
「この世界で生まれた、最後の記憶だよ」
森の奥で。
鐘の音が、一度だけ鳴った。




