第二話 森の小屋のシエル
王都の喧騒が遠ざかるにつれ、周囲の音は鳥のさえずりと葉擦れの音だけになっていった。
森へと続く小道は、子供の頃から数えきれないほど歩いた道だ。
今日はいつもより息が上がるのが速い。
走り通しだったせいだけではないと、自分でもわかっていた。
――シエルが、魔王。
その可能性に気づいたのは、前回の生の記憶を思い出し始めてから、もう半年になる。
最初はただの偶然だと思っていた。
だが、思い出せば思い出すほど、符合する点が増えていった。
前回の生で、魔王討伐が語られるとき、必ず一緒に語られる言葉があった。
「魔王は、かつて人間だった」
当時は誰もそれを気に留めなかった。
魔王とはそういうものだ、と誰もが思っていたからだ。
だが今の俺は知っている。
その「かつて人間だった」という一文の重さを。
そして、シエルには前回の生の記憶がない――はずなのに、時折、見たことのない言語で寝言を呟くことがあった。
子供の頃、一度だけ聞いたことがある。誰も知らない、不思議な響きの言葉を。
小屋が見えてきた。
森の奥、切り株を椅子代わりにした小さな庭。
煙突からは、いつも通り細い煙が立ち上っている。
「シエル!」
声を張り上げると、木戸がすぐに開いた。
「ヨハン? どうしたの、そんなに慌てて」
姿を見せたシエルは、いつもと変わらない。
淡い水色の髪を後ろで一つに結び、薬草の匂いを纏った、どこにでもいる村娘の格好をしていた。
この少女が、世界を滅ぼす存在だなんて、誰が信じるだろうか。
「……いや、その」
言葉に詰まる。
何と切り出せばいいのか、この半年、ずっと考えてきたはずなのに、いざ本人を前にすると声が出なかった。
「もしかして、勇者選定のこと?」
シエルの方から切り出されて、俺は思わず息を呑んだ。
「知ってるのか」
「知ってるも何も、王都中がその話題でしょう。さっき薬草を届けに行った先でも、みんなその話ばかりだったよ。……レオン君が選ばれたんだってね」
「あ、ああ」
「意外、ってほどでもないか。あの子、昔から真っ直ぐだったもんね」
シエルは屈託なく笑う。
その表情のどこにも、俺が恐れているような影はない。
だとすれば、俺の記憶違いなのだろうか。
ただの偶然に、無理やり意味を見出そうとしているだけなのかもしれない。
――だが。
「ヨハンは、何をそんなに怖い顔してるの?」
その瞬間、シエルの瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何かが揺れた。
言葉にするのは難しい。
強いて言うなら――「懐かしさ」のようなもの。
今この瞬間を生きているはずのシエルの目の中に、もっとずっと長い時間を見てきたような、そんな色がよぎった気がした。
一瞬で消えた。
「……いや、何でもない」
俺はそれ以上、踏み込むことができなかった。
もし彼女が本当に魔王なのだとしたら、それを本人に告げることが、果たして正しいのかどうか、俺自身わからなかったからだ。
もし前回の生で、魔王が「かつて人間だった」のだとしたら――シエルは、いつ、どうやって魔王になったのか。
生まれつきなのか。
それとも、これから何かのきっかけで「なる」のか。
もし後者なら。
俺がすべきことは、シエルから遠ざけることではなく――彼女を、そのきっかけから守ることなのかもしれない。
「ねえ、せっかく来たんだから、お茶でも飲んでいきなよ。ちょうど新しい薬草茶を作ったところなの」
「あ、ああ……いただくよ」
小屋に招き入れられながら、俺は決意を固めていた。
この三年、シエルのそばを離れない。
どんな理由をつけてでも、彼女が魔王になる「きっかけ」とやらから、遠ざけ続ける。
――それが、世界を救う唯一の方法だと、信じて。
湯気の立つカップを差し出しながら、シエルが小首を傾げた。
「そういえば、ヨハンは勇者選定の儀、見に行かなかったの? さっきまで王都にいたんでしょう?」
「見たよ。ちゃんと最後まで」
「そう。……大変な時代になりそうだね、これから」
何気ない一言のはずなのに、俺の背筋を冷たいものが走った。
シエルは何も知らないはずだ。
何も、覚えていないはずだ。
それなのに、なぜ今、彼女はそんな顔をしたのだろうか。
窓の外で、木々がざわめいた。
まるで、これから始まる何かを予感するように。
(第三話へ続く)




