第十七話 均衡の破壊者
「『均衡の破壊者』、とでも」
女の名乗りに、神殿内の空気が張り詰めた。
「お前が、祭壇を壊してたのか。あちこちの遺跡を回って」
ヨハンの問いに、女は艶やかに微笑んだ。
「ええ、その通り。あなた方が訪れた『沈黙の祭壇』も、私の仕業です。もっとも、この場所だけは、少し出遅れてしまいましたが」
「なぜ、こんなことを」
レオンが聖剣を構えながら、鋭く問い詰める。
「なぜ、と聞かれても困りますね。強いて言うなら――」
女は、シエルへと視線を移した。
「その子のような、半端な存在をなくすためです」
「半端な存在……?」
シエルが、思わず身を強張らせる。
「均衡だとか、緩やかな目覚めだとか、そんな悠長なことを言っている場合ではないのですよ」
女の声に、初めて感情らしきものが滲んだ。それは、苛立ちに近い響きだった。
「本来、器は一気に完全な形へと目覚めるべきなのです。中途半端に力を制御されたまま生きることこそ、その子にとっての不幸だと、なぜわからないのでしょうか」
「それは……お前が決めることじゃない」
ヨハンが、シエルを庇うように前へ出た。
「シエル自身が、どう生きたいかを決めることだ」
「甘いですね」
女は、酷薄な笑みを崩さないまま、静かに首を振った。
「中途半端な目覚めのまま生きた器が、どんな末路を辿るか――あなた方は、知らないでしょう」
「どういう意味だ」
「知りたいなら、教えて差し上げましょうか」
女は、優雅な仕草で片手を掲げた。
「三百年前、一人の『器』がいました。あなた方と同じように、周囲の助けを借りて、力を抑え込んで生きようとした器です」
その言葉に、ガイウスが息を呑んだ。
「まさか、その記録は……」
「ご存知のようですね、観測者殿」
女は、ガイウスの方を見て、微かに笑みを深めた。
「その器は、長い年月、力を抑え込んで生きました。ですが結局、抑えきれなくなった力は、ある日突然、制御を失って暴走した。結果として、その器自身も、周囲の人々も、多くが命を落としました」
「そんな……」
シエルの顔から、血の気が引いていった。
「中途半端な抑制は、いずれ限界を迎える。それが、私の得た教訓です」
女は、静かに続けた。
「だからこそ、私は考えました。ならば、いっそ徹底的に均衡を崩し、器を完全に目覚めさせてしまえばいい、と。半端な状態を長引かせるくらいなら、一気に決着をつける方が、まだ救いがある」
「それは、詭弁だ」
ヨハンが、怒りを滲ませた声で言い返した。
「一気に目覚めさせて、シエルがどうなるかなんて、お前にはわからないだろう」
「わかりませんとも。ですが、少なくとも中途半端に苦しみ続けるよりは、マシだと考えています」
女は、感情の読めない目でヨハンを見返した。
「それに――あなたのような『時を超えし者』が現れたことも、私にとっては好都合です」
「俺のことも、知ってるのか」
「もちろん。あなたが介入したことで、この世界の『定め』は、すでに大きく揺らいでいる。だからこそ、私の計画も、少し急ぐ必要が出てきました」
女は、ゆっくりと祭壇の方へと視線を移した。
「せっかく無事だったこの祭壇も、これ以上機能させるわけにはいきません」
「待て――!」
ヨハンが叫ぶと同時に、女の手のひらから、漆黒の光が放たれた。
「レオン!」
「わかってる!」
レオンが聖剣を構え、祭壇と女の間に割って入った。光と剣がぶつかり合い、神殿全体が激しく揺れる。
「くっ……!」
レオンの表情に、初めて明確な苦痛が浮かんだ。女の力は、これまで戦ってきたどんな魔物とも、明らかに次元が違っていた。
「ミレイユ、回復を! ガイウス、何か手立てはないのか!」
ヨハンが叫ぶと、ガイウスは焦りを滲ませながら周囲を見回した。
「この状況で、私にできることは限られています……!」
「私が――」
その時、シエルが一歩前に出た。
「シエル、危ない!」
ヨハンが止めようとするが、シエルは首を振った。
「大丈夫。今なら、さっきよりずっと、自分の力が制御できる感じがするから」
シエルが両手を掲げると、彼女の周囲に、淡く優しい光が広がっていく。それは、女が放つ漆黒の光とは対照的な、温かな輝きだった。
「――なるほど」
女が、初めて表情を変えた。
「思ったより、早く馴染んだようですね」
「私は、あなたが言うような『完全な目覚め』なんて、望んでない」
シエルの声には、これまでにない強さが宿っていた。
「みんなと一緒に、少しずつでいいから、自分の力と向き合っていきたい。それが、私の答え」
光と光がせめぎ合い、神殿の中に眩い輝きが満ちていく。
女は、しばらくその光を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。
「今日のところは、退きましょう」
「待て!」
レオンが追おうとするが、女の姿は、漆黒の霧に紛れるように、その場から消え去っていた。
静寂が戻った神殿の中、一行はしばらく、荒い息を整えることしかできなかった。
「大丈夫か、みんな」
レオンの問いに、それぞれが疲労の色を浮かべながらも頷いた。
「今の女、一体……」
ミレイユが、震える声で呟く。
「かなり厄介な相手のようですね」
ガイウスが、険しい表情で祭壇を確認した。幸い、祭壇そのものに大きな損傷はないようだった。
「あの人が言ってたこと」
シエルが、ぽつりと口を開いた。
「三百年前の器の話……あれは、本当のことなんですか?」
ガイウスは、少し沈黙してから、静かに頷いた。
「――事実です。禁書の記録に、確かにそのような記述がありました」
シエルの表情が曇る。
「でも」
ガイウスは、あえて力強く続けた。
「その記録には、こうも記されています。『しかるべき絆を得た器は、力に呑まれることなく、己を保ち続けられる』と」
「絆……」
「あなたには、それがある。少なくとも、私はそう感じています」
シエルは、周囲を見回した。ヨハン、レオン、ミレイユ、そしてガイウス。それぞれが、真剣な眼差しで彼女を見つめ返していた。
「うん」
シエルは、小さく、しかし確かに頷いた。
「私には、これだけの人がいるから」
神殿に差し込む淡い光の中、一行はしばしの休息を取ることにした。
だが、誰の心にも、新たな脅威への警戒だけは、消えることなく残り続けていた。
(第十八話へ続く)




