第十六話 霧の谷
霧の谷に近づくにつれ、周囲の空気は目に見えて変わっていった。
街道の両脇に立ち並ぶ木々の輪郭が、次第に白く霞んでいく。五日間の旅路の果て、一行がたどり着いたのは、名前の通り、深い霧に閉ざされた谷だった。
「これは……視界が悪いな」
レオンが眉をひそめながら、剣の柄に手をかけた。
「足元、気をつけて」
ミレイユが先頭を歩くシエルに声をかける。霧の中では、数歩先の仲間の姿すら朧げにしか見えない。
「この霧、普通のものではありませんね」
ガイウスが、周囲を注意深く観察しながら呟いた。
「魔力を帯びている気配がします。おそらく、谷の奥にある祭壇と、何らかの関係があるのでしょう」
「進んでも大丈夫なのか?」
ヨハンが尋ねると、ガイウスは少し考えてから答えた。
「悪意のある魔力ではなさそうです。むしろ――侵入者を選別しているような、そんな印象を受けます」
「選別?」
「詳しくはわかりません。ただ、慎重に進みましょう」
一行は霧の中を、慎重に歩を進めていった。
しばらく進むと、不思議なことに気づいた。霧は依然として濃いままなのに、なぜか足元だけは、はっきりと見えるようになっていた。まるで、道だけが霧の中に浮かび上がっているかのように。
「これは……導かれてる、のか?」
ヨハンの呟きに、ガイウスが頷いた。
「おそらくは。この谷自体が、何らかの意志を持って、我々を目的地へ案内しているのかもしれません」
「意志、って」
シエルが不安げに呟く。
「大丈夫だ」
ヨハンは、彼女の肩にそっと手を置いた。
「悪いものじゃないと思う。少なくとも、今のところは」
浮かび上がる道を辿って進むこと、さらに小一時間。
霧が、不意に晴れた。
目の前に広がっていたのは、これまでの遺跡とはまるで違う、驚くほど良好な状態を保った古代の神殿だった。石柱には未だ鮮やかな紋様が刻まれ、中央の祭壇からは、淡い光がこぼれている。
「これが……」
「無事な祭壇だ」
ガイウスの声に、隠しきれない興奮が滲んでいた。
「これほど良い状態で残っているとは。もしかすると、この霧こそが、外部からの干渉を防ぐ結界の役割を果たしているのかもしれません」
一行は、慎重に神殿の内部へと足を踏み入れた。
祭壇の中央には、淡く光る水晶のようなものが埋め込まれている。近づくにつれ、シエルの様子が明らかに変わっていった。
「シエル、大丈夫か?」
「うん……何だろう、これ。懐かしいような、変な感じがする」
シエルが祭壇に手を伸ばそうとした、その瞬間。
光が、彼女の手のひらに反応するように強く輝いた。
「――!」
眩い光が、神殿全体を包み込んだ。
ヨハンは咄嗟にシエルの名を呼んだが、光に遮られ、彼女の姿を確認することができなかった。
やがて光が収まったとき、シエルはその場に膝をついていたが、意識はしっかりしているようだった。
「シエル、平気か!」
「うん……なんか、すごく、頭の中が整理された、みたいな感じ」
シエルは、自分の手のひらをじっと見つめた。
「今までは、力が急に暴れ出すみたいな感覚だったけど……今は、ちゃんと、自分のものだって感じがする」
「祭壇が、機能したということでしょうか」
ガイウスが、驚きを隠せない様子で祭壇を見つめた。
「本来、この場所は、器の目覚めを長い年月をかけて緩やかに導くためのものです。それが一瞬でここまでの効果を示すとは……」
「良いことなんだよな?」
レオンの問いに、ガイウスは頷いた。
「少なくとも、シエル殿の力の暴発は、これで抑えられるはずです。急激な覚醒による危険は、大幅に減ったと考えていいでしょう」
一行の間に、安堵の空気が広がった。
だが、その安堵は、長くは続かなかった。
「――随分と、都合よく事が運びますね」
突然響いた声に、一行は一斉に振り返った。
神殿の入り口に、一人の女が立っていた。
長い黒髪を風になびかせ、身にまとうのは、どこの国のものとも判別できない、異様な意匠のローブ。その顔には、どこか人間離れした美しさと、酷薄な笑みが浮かんでいた。
「お前は――」
ヨハンが身構えると同時に、脳裏で何かが繋がった。
丘の上の人影。祭壇の陰に潜んでいた気配。そして、あの夜聞こえた、若い女の声。
「魔物を操っていたのは、お前か」
女は、否定も肯定もせず、ただ酷薄な笑みを深めるだけだった。
「ようやく見つけた、無事な祭壇。これで、少しは計画が遅れてしまいますね」
「計画……? お前は何者だ」
ヨハンの問いに、女は初めて、名乗りを上げた。
「名乗るほどの者でもありませんが――そうですね、あなた方には、こう呼んでいただきましょうか」
女は、優雅に一礼してみせた。
「『均衡の破壊者』、とでも」
(第十七話へ続く)




