第十三話 大司教の思惑
「なるほど、なるほど。これは、実に興味深い」
アルデバランの視線は、依然としてシエルに注がれたままだった。その目には、獲物を見定めるような、静かな熱が宿っている。
「大司教様、何を仰っているのか……」
レオンが困惑した様子で口を挟むと、アルデバランはようやく視線をシエルから外し、穏やかな笑みをレオンへと向けた。
「いや、失礼した。勇者殿の旅の連れが、なかなか興味深い『気配』を纏っていたものでね」
「気配、ですか?」
「私は長年、神殿で古い伝承や結界の研究をしてきた。おかげで、多少人よりも敏感になってしまってね」
アルデバランは、何でもないことのように言ってのけたが、その視線が再びシエルへと戻ったとき、ヨハンは反射的に一歩前へ出て、彼女を庇うような位置に立った。
「――ほう」
アルデバランの口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、獲物を守ろうとする番犬を面白がるような、そんな笑みだった。
「大司教様、この祭壇について、何かご存知なのですか」
ガイウスが、努めて平静を装いながら尋ねる。
「ガイウス、だったか。神殿の下働きにしては、随分と博識なようだね。古代語まで読めるとは」
「恐縮です」
「ふむ。私が知る限り、この祭壇は古代文明期に作られた、いわゆる『均衡の儀式場』だ。もっとも、今となっては壊れた古い石に過ぎない」
アルデバランは、祭壇の亀裂に視線を落とし、大きく肩をすくめてみせた。
「壊れたのは、大司教様のお仕業ではないのですか」
ヨハンは、勢いのままに聞いてしまった。撤回できない一言だった。
場の空気が、一瞬で凍りついた。
レオンが驚いた顔でヨハンを見る。ミレイユも息を呑んでいる。
だが、アルデバラン本人は、意外にも動じた様子を見せなかった。むしろ、面白いものを見るような目で、ヨハンをまじまじと見つめた。
「――君、名は?」
「……ヨハンです」
「ヨハン君。随分と鋭い質問をするね。ただの村人にしては」
アルデバランは、含みのある口調で言葉を続けた。
「答えを聞きたいなら教えてあげよう。私は、この祭壇を壊してなどいない。むしろ、私は――」
一瞬、言葉を切ってから、彼はこう続けた。
「この祭壇が破壊されたことを、憂慮している側の人間だ」
「……どういう意味ですか」
「文字通りの意味だよ。この祭壇が正常に機能していれば、『対』の均衡は緩やかに保たれていたはずだ。それが破壊されたことで、均衡が急激に崩れ始めている。魔物の異常発生も、その影響の一つだろう」
アルデバランの説明は、先ほどガイウスが語った内容と、大筋で一致していた。
「では、誰が壊したというんですか」
ガイウスの問いに、アルデバランは静かに首を振った。
「わからない。だからこそ、私自身がこうして調べに来たのだ。神殿の上層部でさえ、この件については情報が乏しい」
その言葉が真実なのか、それとも巧妙な演技なのか、ヨハンには判断がつかなかった。
「一つ、忠告しておこう」
アルデバランは、一行を――特にシエルとヨハンを、順に見回しながら言った。
「もし本当に『対の均衡』が崩れ始めているのだとすれば、いずれ神殿の上層部の耳にも入るだろう。そのとき、彼らがどう動くか――正直、私にも読めない」
「それは、どういう」
「一部の過激な聖職者たちは、こう考える。『均衡を保てないのなら、いっそ器となる存在を排除し、次代に委ねればいい』とね」
その言葉に、ヨハンの全身が総毛立った。
「そんな……!」
「あくまで一部の意見だ。私自身は、そのやり方を支持していない。むしろ、危険だと考えている」
「なぜですか」
「器を強引に排除すれば、均衡はさらに大きく崩れる。それこそ、取り返しのつかない形でね。私が知る限りの記録では、そういった強硬手段が、かえって世界の崩壊を早めた例もある」
アルデバランの目に、初めて、はっきりとした憂いの色が浮かんだ。
「だからこそ、私は静かに事態を見守り、然るべき対処法を探している。今日、ここに来たのも、その一環だ」
その言葉を最後まで信じていいのか、ヨハンにはまだ確信が持てなかった。だが、少なくとも今この瞬間、アルデバランに敵意はないように見えた。
「もう一つ、聞かせてください」
ずっと黙っていたシエルが、意を決したように口を開いた。
「大司教様は、私が――」
「シエル、それは」
ヨハンが制止しようとしたが、シエルは首を振った。
「大丈夫。もう、隠しても仕方ないと思う」
シエルは、まっすぐにアルデバランを見つめた。
「私が、その『器』なんですよね」
静寂が、その場を支配した。
やがて、アルデバランは静かに頷いた。
「――ああ、その通りだ」
「私は、これからどうなるんですか」
「それは、君自身と、君の周りにいる者たちが、どう歩むかにかかっている」
アルデバランは、意味深にヨハンとレオンを交互に見た。
「勇者と器。そして、それを見守る者たち。この組み合わせが、これからどんな未来を描くのか――正直、私にも予測がつかない。だからこそ、私は静観する」
「静観するだけで、いいんですか」
レオンが、初めて事態を理解し始めたのか、緊迫した声で尋ねた。
「レオン殿。君には、いずれ酷な選択を迫られる日が来るかもしれない。だが今は、まだその時ではない」
アルデバランは、そう言い残すと、踵を返した。
「今日のところは、これで失礼するよ。ああ、そうだ――」
立ち去る間際、彼はふと足を止め、振り返った。
「ヨハン君。君のような存在が現れることも、実は古い記録に記されている。せいぜい、その役目を全うすることだ」
その言葉を残し、アルデバランは荒野の彼方へと消えていった。
残された一行の間に、重い沈黙が流れた。
レオンが、ゆっくりとシエルに向き直る。
「シエル……今の話、本当なのか」
シエルは、覚悟を決めた表情で頷いた。
「うん。本当だよ、レオン」
勇者と、魔王の器。
これまで曖昧なままにされてきた真実が、ついに当事者たちの間で、はっきりと言葉になった瞬間だった。
(第十四話へ続く)




