03 生臭坊主と夕餉の殺生
夕暮れ時、山陰に日が沈むと、それまで部屋に籠もっていた熱気が嘘のように引き、入れ替わるように涼しい夜風が網戸を揺らし始めた。
夕食の食卓には、仁が夕方に収穫したばかりのみずみずしいレタスのサラダと、甘辛い醤油の香りを漂わせる豚の生姜焼きが並んでいる。
「茜ちゃん、レトルトのやつだけど、お味噌汁は飲みたい?」
台所でやかんをおろしながら仁が声をかけると、居間の座卓についた茜は、スマホの画面に視線を落としたままふるふると首を横に振った。
「いらない。暑いし、生姜焼きだけで十分」
茜は箸を割り、器用に肉を一枚つまみ上げて口に運んだ。咀嚼しながら、ふと目の前でエプロンを外している仁に、いかにも中学生らしい意地悪そうな視線を向ける。
「ねえ、毎回ここに来るたび思うんだけどさ。お坊さんってお肉食べていいの? 私、ここに夏休みで遊びに来て、精進料理とか出された記憶一回も無いんだけど」
仁は待ってましたとばかりにニヤリと笑うと、座布団に腰を下ろし、自分の指を一本ずつ折りながら説明を始めた。
「いいんだよ、茜ちゃん。仏教には『三種浄肉』という考え方があってね。まず、僕はこの豚が殺される瞬間を直接見ていない。次に、僕自身のためにこの豚が殺されたと誰からも聞いていない。そして最後、これはスーパーで不特定多数に向けて販売されていたものだから、僕のために殺されたという疑いもない。だから、この肉を食べることは罪にはならないんだ」
茜は箸を止め、心底あきれたように薄い唇を尖らせた。
「うわあ……。お釈迦様の時代みたいに、托鉢で出されたものは何でも有難く食べなきゃいけない時代じゃないのに。すっごく詭弁っぽい。都合のいい言い訳じゃん」
「ははは、すごいぞ茜ちゃん。詭弁なんて難しい言葉を知ってるんだね」
仁は声を立てて低く笑い、お櫃からご飯をよそった。
「それにね、歴史的な話をすると、日本の法律でも明治時代に『僧侶の肉食と妻帯』が正式に認められているんだよ。もし今さらカルビや生姜焼きが食べられなくなったら、おじさんはあっさりと還俗して、お坊さんをやめちゃうよ」
「生臭坊主じゃん! 修行が全然足りないよ!」
茜は声を上げて笑った。昼間の宿題の時のむくれた表情とは打って変わって、楽しそうな笑みが白い歯からのぞく。
「ほら、お釈迦様だって『苦行のための苦行に意味はない』って言って、過酷な断食をやめて悟りを開いたんだからね。美味しいものを美味しくいただくのも大事なことさ」
「ふーん……。じゃあさ、昼間に話した悟空のキンコジとか五百年の封印も、ある意味では『苦行のための苦行』だよね。自分で自分を縛ってたんだとしたらだけど」
「まあ、そういう見方もできるかもね。――あ、ごめん、そこのお醤油取ってくれる?」
「はい」
茜から小瓶を受け取ると、仁は手元の納豆のパックに醤油をひと回し垂らし、箸で猛烈にかき混ぜ始めた。白い粘り気が器の中でまたたく間に泡立っていく。
「ちょっとおじさん、生姜焼きがあるのに納豆も食べるの? 味が喧嘩して合わなくない?」
「これが美味いんだよ、ご飯が進むんだ。……はっ」
仁はふと箸を止め、真顔になって納豆のパックを見つめた。
「待てよ……こうして納豆菌を大量に増殖させて、それを食べるのは、仏教徒として『殺生』になるんだろうか?」
突然考え込み始めた叔父の姿に、茜は吹き出しそうになりながら肩を揺らした。
「お釈迦様だって、二千五百年前に顕微鏡もなしに菌のことまで想定してないと思うよ。おじさん、考えすぎ」
「そうだよね、よかった。じゃあいただきます」
安心したように納豆をご飯にのせる仁を見ながら、茜は再び生姜焼きに箸を伸ばした。その目は、昼間の西遊記の考察の続きを求めて、生き生きと輝き始めている。
「でね、さっきの続きなんだけど。例えばさ、五行山もキンコジも全部悟空の幻影なんだとしたら、悟空は本当はいつだって逃げられたのに、そうしなかったわけじゃない?」
「お、そうだね」
「だってさ、悟空くらいの実力があれば、三蔵法師が呪文の一文字目を唱える前に、如意棒で頭を殴って気絶させることだってできたはずだし。それが嫌なら、呪文が聞こえないくらいの超スピードで効果範囲外に逃げちゃえばいいんだもん。なのに、わざわざ頭を押さえて痛がってた」
「なるほど、鋭い視点だ。確かに、悟空を物理的に縛り付けるものは最初から何もなく、三蔵法師という生身の人間さえ無力化してしまえば完封できそうだね。それをしなかったのはなぜか……」
茜は箸で器用に肉を持ち上げ、夕食の明かりにかざすようにして言った。
「だからさ、道中に悟空がしばき倒して回った悪い妖怪たちも、実はみんな同じなんじゃない?」
「同じって?」
仁はみずみずしいレタスを口へ運びながら、興味深そうに先を促した。
「ほら、女性しかいない国とか、あからさまじゃん。蠍座の女妖怪が出てくるところ」
茜は箸の先を小さく振って、さも当然のように言ってみせる。
「あの時戦ってたのってさ、本当は実体がある妖怪じゃなくて、愛とか家族っていう『執着』なんだよ」
「ははは、蠍座の女妖怪って、某大物歌手じゃないんだから」
思わず吹き出した仁に、茜は「おじさん、古い」と不満げに頬を膨らませた。そんな姪をまあまあと手で宥めながら、仁は頭の中の経典と物語をひも解いていく。
「正確には、西梁女国の回だね。女王が三蔵法師に一目惚れして、国を譲るから夫になってくれと懇願する。そしてその裏で三蔵をさらおうとしたのが、蠍の精だった」
「ゲームだとさ、信じられないくらい強かったんだよ。『どうして私を愛してくれないの!』って叫びながら、下半身が蠍の姿になって暴れ回るの。毒とデバフの嵐で、初見だと本当に苦戦したんだから」
当時の全滅の記憶が蘇ったのか、茜は本気で顔をしかめてみせた。仁はその様子に微笑みながら、さらに指を一本立てる。
「じゃあ、茜ちゃんのその仮説に、他のエピソードも当てはめてみようか。たとえば、車遅国では三人の道士が術で雨を降らせて、王様を騙していた。これは分かりやすい現世利益や権威への執着だね」
仁はもう一本、指を立てる。
「その次が、さっきの愛や情欲に揺れる西梁女国。そして、さらに進むと、人間の激しい怒りや激情そのものを示すような火焔山が立ちはだかる」
立てた指を数えるように揺らしながら、仁は言葉を紡いでいく。田舎の静かな夜の空気に、住職としての静かな声音がよく馴染んだ。
「さらに旅が進むと、小雷音寺という偽物の寺が現れる。これは偽りの悟りや虚栄心を振り払う試練だ。比丘国では、人間が誰もが感じる老いや、死への恐怖からくる苦しみを乗り越えなければならなかった」
話を聞いていた茜の顔が、目に見えて曇っていく。
「比丘国って……あの、子供たちの心臓を集めてた悪趣味な国でしょ? 犯人が寿老人の乗ってた鹿と、白面狐のヤバいステージじゃん。ゲームでもストーリーがかなりエグくて、ちょっとトラウマになりそうだったもん」
「そうだね、人間の業の深さを描いた、重い話さ」
つられて仁も苦笑し、最後の指を立てた。
「そして、滅法国。あそこは不思議な国でね。今までずっと異形の妖怪と戦ってきたのに、なぜか最後は人間自身とやり合うことになる。人間が持つ、根深い猜疑心や傲慢さとの戦いだ」
「ふーん……。ゲームで急に、妖怪じゃなくて人間の将軍とか、カラクリ巨人の超兵器みたいなボスが出てきたのって、そういう意味だったんだ」
茜は合点がいったというように小さく膝を叩いた。
「ほらね、やっぱり私の言った通りじゃん。全部は三蔵一行の内側で起きた戦いでさ。妖怪なんて本当はいなくて、みんな現地の人が作り出した恐れや苦しみがもとになってたり、三蔵や悟空自身の心が生み出してた幻なんだよ」
「うん、唯識の教えから見ても、本当に素晴らしい見方だと思うよ」
仁が優しく頷くと、茜はどこか誇らしげに胸を張った。
気づけば、大皿の上からはすっかり生姜焼きの姿が消えていた。お腹がいっぱいになり、手持ち無沙汰になった茜は、箸の先で皿に残ったタレの油をせっせとつついて、小さく広げたりくっつけたりして遊び始めた。
「茜ちゃん、お行儀が悪いよ」
「はーい……」
「まったく、おじさんもパパと同じこと言うんだから」と、茜は聞こえるようにケチをつけながら、しぶしぶ箸を置いた。都会の父親に叱られる時のいつもの仕草だったが、その表情にはどこか安心したような、甘えた色が混じっている。
「ごちそうさまでした。おじさん、お皿下げるね」
「ありがとう」
茜が立ち上がり、台所の流しへと向かう。
網戸の向こうからは、いつの間にか昼間の蝉時雨が完全に消え去り、代わりに涼しげなコオロギの声が、リンリンと庭の草むらから湧き上がるように響いていた。
遠くの街の灯りも届かない、暗く、深い山寺の夜。
都会の喧騒から離れたこの場所で、少女の心は、物語の幻影を追いかけながら少しずつ大人への階段を上っているようだった。
仁は冷たくなったお茶を一口 すすり、今度こそ静かになったテレビを見つめながら、穏やかな夜の帳に身を委ねた。




