02 宿題と五行山の蜃気楼
相変わらず、ゲームを起動したままの古いテレビ画面の中で、孫悟空は縦横無尽に暴れ回っていた。
ゲームの音に混じって、時折、遠くの畑からトラクターのエンジン音が間抜けたリズムで響いてくる。ここは遮るもののない田舎だ。容赦ない西日が、色褪せた畳をじりじりと灼いていた。
「よし、ゲージ溜まった! 行けっ!」
茜の親指がコントローラーを激しく弾く。
派手な電子エフェクトが画面いっぱいに広がり、雑魚妖怪たちを巻き込んでデジタルな地面が豪快に陥没した。茜はその様子に満足げに口元を吊り上げる。
一方、仁は柱時計の針をチラチラと盗み見ては、心の中でせわしなく計算を繰り返していた。サッカーの後半戦。いま画面を切り替えれば、ちょうど一番熱い時間帯のはずだ。
「あのさ、茜ちゃん。……夏休みの宿題はいいの? きちんとやってないと、おじさんが優斗に怒られるからね。あいつ、身内には昔から口うるさいんだから」
優斗、つまり茜の父親であり、仁の兄だ。田舎の寺で気ままに暮らす仁とは違い、都会でせっせと働く兄の顔を思い浮かべ、仁は小さく肩をすくめた。
「パパなら大丈夫だよ、私が適当に言っとくから」
茜は画面を睨みつけたまま、あからさまに話題を逸らしにかかる。
「そんな事よりさ。キンコジと同じく、五百年も山に封印するお釈迦様。こっちもなんか変だよね」
「……お釈迦様が?」
仁はやれやれといった風に息を吐き、あぐらをかき直した。
「ああ、緊箍児と同じ理屈だね」
「そうそう。大暴れしてさ、天帝に頼まれたからって、山で押し潰して封印でしょ? やり方がちょっと強引っていうか」
仁は手持ち無沙汰に菓子皿へ手を伸ばし、丸い煎餅を一枚取ると、パリリと小気味よい音を立てて齧った。醤油の香ばしい匂いが一瞬、部屋の熱気に混ざる。
「おじさん、私にも一枚。白いサラダのやつね」
画面を見つめたまま、茜が左手を催促するようにひらひらと動かした。
「はいはい。でも、寝転がったまま食べないでね。畳に粉が落ちるから」
「んー」
嫌そうにのっそりと身を起こした茜は、仁から受け取った煎餅の袋をカサカサと小気味よく開け、端から小さく齧り始めた。
仁は、カリカリと煎餅を咀嚼する姪の横顔を見ながら、その疑問に対する「住職としての答え」を頭の中で組み立てていた。
「物語ではね、お釈迦様の指が金・木・水・火・土の五行の意味を持つ『五行山』に変じて悟空を押し潰したとされている。さらに、山頂に『唵嘛呢叭咪吽』と書かれた六字真言の符が貼られたことで、悟空は完全に身動きが取れなくなったんだ」
「でもさ、いくら不老不死でも、五百年もお腹減るじゃん?」
茜がサラダ味の煎餅を、まるで悟空の不満を代弁するかのように仁に見せつけながら言う。
「そうだね。だから悟空は、その土地の神様から、銅の丸薬を食べさせられ、鉄の汁を飲まされて生き延びたんだよ」
「うわ、最悪。土地の神様も、もうちょっと優しいお野菜とかあげればいいのに。……あ、ピーマンとゴーヤ以外でね」
「はは、まだ苦いのは苦手かい」
茜の子供らしい好き嫌いに苦笑しつつ、仁は真面目なトーンに声を戻した。
「さっきの六字真言だけどね。最初の『オン』は仏の心身の清らかさの表現。次の『マニ』は宝珠の意味で、慈悲や他者への思いやりを象徴している。そして『パドメ』は蓮の花。濁った世にあっても決して汚されない知恵のことだ。最後の『フーム』は呪文の完成を宣言する言葉で、これらが一つになった純粋な境地を表す。つまり、観世音菩薩のとても尊い真言なんだよ」
「ふーん……」
茜は煎餅を齧りながら、不満そうに眉をひそめた。
「やっぱり変だよ。山で押し潰して札で封印なんて、お釈迦様のやったことは、慈悲も知恵も無い力技にしか見えないもん」
再び画面の中でゲームのゲージが溜まったらしい。
茜の激しいボタン操作に応じるように、派手なエフェクトが広がり、ボス妖怪が無慈悲に叩き潰されていく。
「これもさ、緊箍児と同じ話なんじゃない? 本当は、悟空は誰にも封印なんてされていなかった。五行山も、あの呪いの札も、全部悟空の善性、つまり心が作り出した蜃気楼だったんだよ」
仁は深く頷いた。
「……唯識的に考えるなら、まさにその通りだろうね。すべては唯、識、心の現れ。悟空は他人から閉じ込められていたわけじゃない。自分自身の暴走する心を静め、制御するために、五百年という途方もない時間を必要としたんだ。三蔵法師という『導き手』が来て、自らその心を解放する準備が整うまでね」
「じゃあ、あの呪文は自分に課した合格ラインってことね。まだ途中だったけど、三蔵が来て『一緒に行けば達成できそう』って思ったから山から出た。でも、まだ暴れん坊の性質が残ってたから、旅に出た後もキンコジの幻影が必要だったんだ」
茜はそこまで一気にまくし立てると、最後の一口の煎餅を口に放り込んだ。
ちょうどその時、テレビのスピーカーから悲鳴のような効果音が鳴り響いた。
ボスの体力ゲージが赤に差し掛かったところで、茜の悟空は最後の猛烈なラッシュを喰らい、画面の端へと派手に倒れ伏した。
画面に大きく【GAME OVER】の文字が浮かび上がる。
「あーあ、欲張りすぎた。……あ、セーブしとこ」
茜の動きが止まった隙を、仁は見逃さなかった。にやりと笑みを浮かべ、姪の顔を覗き込む。
「悟空は五百年で自分をコントロールしたみたいだけど……茜ちゃんも、夏休みの課題の途中だよね?」
ピク、と茜の肩が跳ねた。
ゲームのセーブ完了の電子音が鳴る中、茜は盛大に、分かりやすすぎるほどに目を逸らした。
「……数学なんて、将来使わないじゃん」
「いやいや、意外と使うよー。特に計算ができないと、茜ちゃんの大好きな『お金儲け』にダイレクトに響くからね」
「うっ……」
お金儲け、というワードを出されては反論できない。
茜はぐうの音も出ないといった苦々しい表情になり、ノロノロとゲームの電源を切った。静まり返った部屋に、再びミンミン蝉の声がうるさく流れ込んでくる。
茜は重い腰を上げると、畳を足で擦りながら、奥の部屋に勉強道具を取りに消えていった。
「よしよし」
誰もいなくなった特等席。仁はすかさず扇風機の前に陣取り、リモコンを片手にウキウキとチャンネルをサッカー中継へと切り替えた。
「さーて、試合はどっちが押してるかな……」
しかし、画面に映し出されたのは緑のピッチではなかった。
そこには、やりきった表情で汗を拭う選手と、マイクを向けるアナウンサーの姿があった。既に、勝利者インタビューが始まっていたのだ。
「……あ」
時計を見る。アディショナルタイムすら、とっくに過ぎていた。
遠くで、南部鉄器の風鈴がまたチリンと冷ややかに鳴った。
この世の無常さと、自分の見通しの甘さに、仁はガッカリと畳の上に肩を落とした。




