01 盛夏の残響
縁側のすぐ外で、ひときわ高く狂おしい蝉時雨が降っていた。
青々と茂った柿の木の葉が、時折吹き抜ける熱風に煽られて裏返る。そのたびに、軒先に吊るされた古い南部鉄器の風鈴が、チリン、と硬く涼やかな音を響かせた。しかし、畳の上に寝転ぶ少女の耳には、その音も、祖父の代から変わらない古い柱時計の刻む音も届いていないようだった。
中学に入って少し背の伸びた双海茜は、冷房の効きの悪い畳の部屋で、扇風機の首振りを独占しながらテレビ画面を睨みつけている。
画面の中では、最新の3DCGで描かれた孫悟空が、如意棒を猛烈な速度で振り回し、群がる妖怪どもを派手に薙ぎ払っていた。サラウンドスピーカーから流れる重低音とエフェクト音が、静かな山寺の本堂裏に不釣り合いに響き渡る。
「あのさ、茜ちゃん。そろそろサッカーの試合中継が始まる時間なんだけどな……」
部屋の隅で、首の伸びきったTシャツにステテコ姿の双海仁が、申し訳なさそうに手をすり合わせた。手元のタオルには、午前中に畑で引き抜いてきた泥の匂いがかすかに残っている。兼業とはいえ一応はここの住職なのだが、姪の圧倒的な集中力を前に、その声はどこまでも控えめだった。
「録画してるじゃん。今、ボス戦のいいとこなの」
茜は視線すら動かさず、親指を激しく動かしてコントローラーのボタンを連打する。完全に門前払いだった。
「ところでさ」
画面の中で悟空が華麗な空中コンボを決める中、茜がふと口を開いた。手元は複雑な操作を維持したままだ。
「おじさんって、西遊記に詳しい?」
「詳しいよ、なんたってこれでも本職の住職だからね」
仁は待ってましたとばかりに胸を張り、少しだけ威厳をにじませたつもりだった。だが、茜は鼻で笑い、視線を画面に固定したまま、容赦ない一言を投げつける。
「9割農家のくせに」
「うぐっ……それを言われると……」
返す言葉もない。この地域は人口減少が進み、檀家も減る一方だ。先祖代々の寺を維持するため、仁は一年の大半を土にまみれてナスやトマトの栽培に費やしている。
「で、何が知りたいたいの?」
仁は苦笑しながら立ち上がり、台所から冷えた麦茶の入ったピッチャーを持ってきた。ガラスのコップに注ぐと、カランと氷が涼しげな音を立てる。その間も、視線はテレビ画面の端、本来なら緑の芝生の上でボールが転がっているはずのテレビ画面へ、名残惜しそうに泳いでいた。
「悟空の頭にあるワッカ。キンコジだっけ? 三蔵が呪文を唱えると、ギューって締まるやつ」
「ああ、緊箍児だね。あれは観世音菩薩が三蔵法師に授けたものでね。悟空にさも立派な帽子であるかのように見せて、自分から頭にはめさせたんだよ」
仁は麦茶のコップを茜の脇の畳に置き、自分もあぐらをかいた。
「三蔵法師が『緊箍児呪』という呪文を唱えると、頭が割れるような痛みが襲う。力では到底かなわない暴れん坊の孫悟空を、力づくで制御するためのアイテムさ」
「ふーん……」
茜の手がピタリと止まった。コントローラーのポーズボタンが押され、テレビの音が消える。
画面の中では、勇壮な悟空が如意棒を大きく振り抜いた姿勢のまま、ダメージを示す派手な数字の列とともに世界が停止していた。
茜は寝そべっていた体をだるそうに起こし、あぐらをかいて麦茶をちびりと口に含んだ。首筋に張り付いた髪を不快そうに指で払いながら、冷たいガラスコップをじっと見つめる。
「それさ、やっぱり変じゃない?」
「何がだい?」
「だって、仮にも菩薩さまでしょ? 悟りを開けない暴れん坊だからって、苦痛を与えるアイテムで縛って言うことを聞かせるなんて。
なんか……慈悲のカケラも無いじゃん。密教の、ぶん殴ってでも分からせる明王様とかならまだ分かるけどさ」
仁は言葉に詰まり、手にしたコップを眺めた。
これまで何度も読んできた物語であり、仏教の解説書にも当然のように書かれているエピソードだ。しかし、中学生になった姪の、まっすぐで世俗的な疑問を突きつけられてみると、確かに妙な引っかかりを覚える。
「……確かに、言われてみればそうだね」
「でしょ? だから私、思ったんだけど」
茜はコップを畳に置き、少し身を乗り出した。その目は、ゲームのボスを攻略する時のような、鋭い光を帯びている。
「本当はさ、キンコジなんて最初から無かったんじゃないかな」
「無かった?」
「そう。みんなに共通して見える幻影か、蜃気楼みたいなもの。だってさ、旅の終わりに三蔵法師は、悟空にこう言ったんでしょ?
『あの輪はお前がまだ迷いの中にいたからこそ、コントロールするためにあったのだ。今や仏となったお前には、最初からそんなものは存在しない。自分の頭を触ってみなさい』って」
茜は自分の頭に手を当ててみせる。
「それで悟空が恐る恐る頭を触ると、そこには最初から何も無かった。つまりさ、悟空は誰かに縛られてたんじゃなくて、自分の『迷い』とか『暴れたい心』が作り出した幻に、自分で苦しんでただけなんじゃないの?」
仁は目を見開いた。
庭先で、ひと際大きな風鈴の音が響く。
「……それは、面白い解釈だね。いや、十分に可能性はあるよ。実際の西遊記の結末でも、旅を終えて『闘戦勝仏』という仏になった悟空が、三蔵法師に『もう不要だから外してくれ』と頼んだ時には、もう頭の輪は跡形もなく消えていたんだから」
誰もが「仏の奇跡で消えた」と解釈するところを、少年少女の多感な感性は「最初から己の心がみせた幻だった」と考えた。
仁は姪の成長に、驚きと、どこか気恥ずかしいような誇らしさを感じていた。
だが、そんな厳かな余韻は、再び部屋に響き渡ったゲームの効果音によって一瞬で吹き飛ばされた。
ポーズが解除され、画面はリザルト画面へと移行する。コンボ数や獲得スコアの数字が、小気味よい音とともに並んでいく。茜は「これもう見た」と呟きながら、ストーリーのデモムービーを容赦なくボタン連打でスキップし、次のステージへと進めていく。
「ふふん。この調子だと、おじさんより先に私が悟りを開いちゃうかもね」
茜は勝ち誇ったように口元を緩め、再びコントローラーを構えた。
「へえ、それは頼もしいな。じゃあさ、茜ちゃんがこの寺を継いで、次代の住職になってくれないかなあ」
仁が冗談めかして、しかし少しの本音を混ぜて畳に手を突くと、茜はゲーム画面を見つめたまま、心底嫌そうな声を上げた。
「うげえ、絶対にヤダ。だってここ、全然儲からなさそうだもん」
「……あまりな言い草だなあ」
仁はがっくりと肩を落とし、ぬるくなりかけた麦茶を一気に飲み干した。
外の蝉の声は、相変わらず容赦なく照りつける太陽の下で響き続けている。
遠くの居間から、かすかに古い時計の時報の音が聞こえた。
どうやら、お目当てのサッカー中継は、もう前半が終わる頃のようだった。




