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叔父と姪 心猿の夏  作者: 双海仁
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04 気泡と消えた石の猿

風呂上がりの火照りを冷ますように、湿った夜風が、台所の勝手口からすうっと入り込んでくる。

洗い立ての髪をタオルの上から揉みながら、茜は冷蔵庫の前に立っていた。冷気と一緒に、炭酸飲料のペットボトルを取り出す。パシッ、とキャップを開ける爽快な音が、静かな夜の台所に響いた。


「茜ちゃん、それって……冷蔵庫の奥にあった、おじさんがお酒を割る用のただの無糖炭酸水じゃないかい? そのままだと味気なくて不味くない?」


居間の座卓から、仁が首を伸ばして声をかける。


「大丈夫。お風呂前にスティックシュガーと、冷蔵庫のポケットにあったレモン果汁入れたから。特製レモンスカッシュ。おじさんも飲む?」


茜はペットボトルを軽く揺らし、グラスに注いだ。炭酸の泡がチチチと弾け、即席の甘酸っぱい香りが漂う。


「んー、僕はいいや。その炭酸水、少し残しておいてくれるなら、ウィスキーでも割ってハイボールにしようかな」


そう言って立ち上がった仁に、茜はグラスを口元に運んだまま、じっとりとした冷ややかな視線を向けた。


「子供の前で堂々とお酒を飲むなんて。悪い大人だ」


「もう、そんなことを言って。お酒をジュースと勘違いして、真似して飲みたいって騒ぐようなお年頃でもないだろう?」


「そうだけどさ」


茜はつまらなそうに視線を外し、グラスに口をつけた。

仁は苦笑しながら戸棚からお気に入りのグラスを取り出し、製氷機から落とした氷をいくつか放り込む。琥珀色のウィスキーを注ぎ、茜が残してくれた炭酸水で満たした。マドラーがガラスの壁に当たり、カランと涼しげな音を立てる。


二人は並んで居間の畳に腰掛けた。網戸の向こうでは、闇に沈んだ庭の木々が風にざわめいている。


「ねえ、あれからお風呂でずっと考えてたんだけどさ」


茜がグラスを両手で包み込み、炭酸水に浮かぶ気泡をじっと見つめながら呟いた。


「悟空って、そもそも何?」


「何って……」


仁はグラスを傾け、炭酸の刺激を喉に感じながら答える。


「東勝神州の傲来国にある花果山の、石から生まれた猿の妖怪でさ。天界でも大暴れした手のつけられない奴だったけど、三蔵法師と天竺への旅を続けるうちに、最後は悟りに至って『闘戦勝仏とうせんしょうぶつ』という立派な仏様になった……」


「そうじゃなくてね」


茜は炭酸水を少しだけ、喉を鳴らして飲んだ。グラスの中で、少しだけ角が丸まった氷がカラリと小さく音を立てて転がる。


「道中に出てくる悪い妖怪たちが、現地の人や三蔵自身が抱く『恐れ』や『葛藤』の現れなんだとしたら。……お供をしてる悟空や悟浄、八戒だって、同じようなものなんじゃないかって思ったの」


「どういうことかな?」


仁は手元のグラスを置き、姪の横顔を見つめた。

茜は空いた方の手で、お気に入りのピンクの猫のチャームが揺れるスマホを取り出すと、慣れた手つきで検索画面を叩き始めた。青白い画面の光が、少女の真剣な瞳を照らし出す。


「歴史上の本物の玄奘三蔵は、隋から唐に代わる混乱期に、国禁を犯してまで密出国した。そこからインドのナーランダ僧院を目指して、十六年をかけて長安に帰ってきた。……でしょ?」


「うん、そうだね。ちなみに、昔の有名な歌にある『ガンダーラ』は、彼にとっては天竺へのただの中継点に過ぎないんだよ」


「おじさん、その歌古い。私生まれてないし」


「余計な情報だったね、ごめん……」


せっかく仕入れた住職らしい豆知識を「古い」の一言で一蹴され、仁は目に見えてしょんぼりと肩を落とした。茜はそんな叔父の様子を気にも留めず、画面をスクロールさせながら続ける。


「三蔵法師は、行く先々の国で王様から支援を受けて、荷運びや護衛の部下を付けてもらうことはあったけど、基本的にはずっと一人で旅をしたんだよね」


「そうだね。ただ、興味深い史実があってね」


仁は気を取り直して、ハイボールのグラスを揺らした。


「唐の国境を超える直前、石槃陀せっぱんだという胡国の男が、三蔵に深く帰依して弟子入りし、同行を申し出ているんだ。だけど、国境の険しさと、密出国の罪の重さに途中で怖気付いてしまって、結局夜中にナイフを握って三蔵の寝込みを襲おうとした挙句、逃げ出してしまった。これが、孫悟空のモデルの一人と言われているんだよ」


仁の言葉を聞いて、茜の頭の中で「石槃陀」という漢字が組み替えられたらしい。


「石の猿と、石パンダ……」


茜の脳内では、中国の山奥で笹をかじる白黒の珍獣の姿でイメージが固定されてしまったようで、それまでの難しい顔から一転、ふふっと楽しそうに肩を揺らした。


「まあ、パンダはともかくとして」


茜は再び表情を引き締め、スマホをパタンと畳に伏せた。


「やっぱり、三蔵法師は一人で旅をしていたんだよ。そう考えるとさ。お供の三人――悟空も、八戒も、悟浄も。そして道中で戦ったあの恐ろしい妖怪たちも、全部、三蔵の心の中にあった『迷い』や『苦しみ』そのものだったんじゃないのかな」


網戸を通り抜けた夜風が、再び軒先の南部鉄器を揺らし、ちりんと硬く、しかしどこか物寂しい余韻を残して闇に消えていった。


「西遊記ってさ……そもそも誰が、どうやって作ったんだろうね」


茜は特製レモンスカッシュのグラスを見つめたまま、ぽつりと言った。炭酸の気泡が、下から上へと絶え間なく昇っては弾けていく。


「唐の時代の三蔵法師が書いた旅行記『大唐西域記』がすべてのベースだね」


仁はグラスを傾け、氷をカラリと鳴らしながら答えた。


「それが何百年もの間、南宋から明の時代にかけて街の講談やお芝居として親しまれ、人々の肉付けを経て、最終的に明代の呉承恩という人物が、仏教や五行説、エンターテインメントの要素を盛り込んで一冊の物語に編纂したとされているんだよ」


茜は脳内にぼんやりと歴史の年表を思い描き、細い指を一本ずつ折りながら数え始めた。


「唐から明までって……。ねえ、ざっと九百年近く経ってない?」


「そうだね。分かりやすく言うなら、日本が遣唐使を派遣していた頃の出来事が、巡り巡って戦国時代に入る直前くらいにようやく今の小説の形になった、という感じかな」


茜はあきれたように、はぁ、と長いため息をついた。


「それだけ経ったんだ。尾ひれが付きすぎるわけだよ。日本でいう『南総里見八犬伝』みたいに、トンデモ設定てんこ盛りになっちゃったのよね」


少しずつ溶け始めたグラスの氷が、静寂の中で小さく音を立てて崩れた。結露した水分が重力に従って滑り落ち、古い木目のテーブルの上に、じっとりと濡れた小さな水の輪を作り出していく。


「でも、その呉さんって作家はさ、ただの面白い冒険活劇を書きたかったわけじゃないと思うのよ。もし本当にただの娯楽アクションものでいいなら、わざわざ『三蔵法師』なんていう、お堅くて地味なお坊さんを主人公に選ばないはずだもん」


「なるほど。確かにその通りかもね。中国には『水滸伝』やその他の伝奇、伝承がたくさんある。わざわざ仏教の、それもお経を取りに行く旅をテーマにする必要性は、エンタメとしては少し弱い」


茜は「でしょう!」とでも言いたげに、満足げに鼻を鳴らして得意げな笑みを浮かべた。


「だからね、西遊記っていうのはさ、玄奘三蔵っていう一人の人間が、自分の内面で戦い、もがきながら『悟り』に至るまでの心のプロセスを、一般の人にも分かりやすく伝えるための壮大な心理描写の物語だったのよ」


「それは本当に面白い解釈だね。よし、じゃあ住職の僕が、茜ちゃんのその素晴らしい仮説に『裏付け』を与えてあげようかな」


仁はハイボールのグラスをテーブルに置き、にやりと笑った。


「悟空の別名はね、作中で『心猿しんえん』と呼ばれるんだ。『意馬心猿いばしんえん』という四字熟語があってね。人間の煩悩や情欲、抑えきれない欲望が、まるで走り回る馬や、騒ぎ立てる猿のように、心を乱して落ち着かせない様子を例えた仏教由来の言葉なんだよ」


茜は小首を傾げ、グラスを包む手に少し力を込めた。


「意馬……。あ、そういえば、三蔵法師が乗っている白馬も、確か正体は龍の子どもよね。あの子も、三蔵の心象風景だったの?」


「そうかもね。五行説に当てはめると、悟空は『金』、八戒は『木』、悟浄は『土』で、白馬(玉龍)は『水』を象徴しているんだ」


「あれ? 『火』がいないよ?」


「火は、三蔵法師自身さ。情熱や命の灯火、そして時にすべてを焼き尽くす執着そのもの。茜ちゃんの説をなぞるなら、三蔵法師という一人の人間が天竺へと至る過程で、道中の妖怪という『己の苦しみや欲望』を一つずつ克服し、最終的に統合されて仏へと至る――まさに内面世界のロードムービーというわけだね」


そこまで熱っぽく語った仁に対し、茜は何やら頭の中でゲームのシーンを思い浮かべたのか、途端に微妙な顔つきになった。


「……でもさ、ゲームだと、八戒だけが『お釈迦様、報酬は食べ物が良いです』とか言って、最後にご馳走に囲まれて終わるエンディングだったんだけど」


それを聞いた仁も、一転して苦笑いを浮かべ、自嘲気味に眉を下げた。


「うん、元の物語でもね。三蔵法師は『旃檀功徳仏せんだんくどくぶつ』、悟空は『闘戦勝仏とうせんしょうぶつ』という、完全に悟りを開いた仏の位を与えられた。白馬は『八部天竜広力菩薩』、悟浄も『金身羅漢』という高位の聖者になったんだ。……なのに、八戒だけは『浄壇使者じょうだんししゃ』という、お寺のお供え物の残飯を管理して食べていいよ、という小間使いの役職に留められているんだよね」


仁は手元に置かれたスナック菓子の袋に手を伸ばした。


「さあ、それはそれとして。茜ちゃん、檀家さんからいただいたこのポテトチップス、食べるかい?」


「太るからいらない」


「つれないなあ。もしこれがすべて三蔵法師一人の内面世界なのだとすれば、最後の最後で『食い意地』という八戒の部分だけは、どうしても捨てきれずに残ってしまったということかもね。さすがの三蔵法師も、完全には悟りきれなかったのかな」


茜はスマホの画面を親指でスクロールさせながら、冷ややかに呟く。


「ウィキペディアによるとさ、本物の玄奘三蔵は、旅から戻った後、皇帝から提示されたお偉い補佐官の座をあっさり蹴って、慈恩寺っていうお寺に引きこもったんだって。そこで持ち帰った大量のお経を翻訳したり、仏像を安置したりして一生を終えたらしいよ。……やっぱり、最後まで俗世を捨てきれない執着があったんじゃない?」


「……そうかもしれないね」


仁は仕方なく、一人でポテチをパリ、パリと食べ始めた。

ジャンクな塩分が、アルコールの回った喉を心地よく焦がしていく。


「お経や仏像というのはね、悟りに至るための『指標』や『地図』に過ぎないんだ。目的地に着いてしまえば、地図そのものには何の価値もない。なのに、彼は一生をかけて経文の翻訳に執着し続けた。人間味があるといえば、実に人間味がある話だけどね」


「ちょっと、お坊さんがお経とか仏像要らないとか、言っちゃっていいの?」


茜は呆れたように半眼になり、叔父を見据えた。


「お葬式とかで、もっとこう、煌びやかな極楽浄土の話をして、みんなを安心させるのが仕事でしょ?」


部屋の電灯の明かりを浴びて、ほろ酔いに差し掛かった仁の頬は少し赤く染まっていた。彼は喉の奥で、低くクスクスと笑った。


「茜ちゃんはさ、信じてないだろう? 極楽浄土とか、死後の救済とか、そういう都合のいいお話を」


「うん、全然。死んだら終わりでしょ」


「だったら、君にそんな『方便ほうべん』は必要ないさ。死んだ後のことじゃなく、今、この生きている日常の中で、目の前の苦しみとどう向き合っていくか。それだけを誠実に考えればいいんだよ」


仁は、納得いってない様子の茜を後目に、琥珀色に輝くハイボールのグラスを少しだけ高く掲げた。天井の平坦な電灯の光がガラスに屈折し、畳の上に複雑な光の模様を描き出す。


「いやあ、それにしても。この一杯が、日中の畑仕事の疲れも、この世のしがらみも、全部忘れさせてくれるんだなあ」


「ほらね、やっぱり修行が足りない悪い大人だ!」


茜がすかさず呆れたようなツッコミを入れ、二人の笑い声が静かな台所に弾けた。

外では、涼しい夜風が草むらをなでる音が続いている。

二人の夜は、満ちていく月のように、静かに、そして豊かに更けていった。


入れてないエピソード

・三蔵は「経・律・論」をマスターした僧侶という称号、「貪・瞋・痴」の三毒を(弟子という形で)内包しているから三蔵、のダブルミーニング。

・妖怪の正体が「神仏の乗り物やペット」。敵など最初から居なかった。

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