普通でいいじゃん。
「美月、俺さ、会社、辞めようと思ってる」
味噌汁を口に運ぼうとしていた彼女、山下美月の手が止まった。
「……え?」
テーブルの上には、スーパーで買った出来合いの唐揚げ。
サラダ。
味噌汁。
平日の、いつもの夕飯だった。
テレビでは芸人が騒いでいる。
でも部屋の空気だけが急に静かになった。
「辞めるって……仕事?」
「うん」
「転職?」
「いや、まだ決めてない」
彼女が眉をひそめる。
「決めてないって何?」
「だから、一回辞めて考えたいっていうか……」
言いながら、自分でもふわっとしてると思った。
でも、もう戻れない気がしていた。
彼女は箸を置く。
「ちょっと待って」
その声は、思ったより冷静だった。
「急すぎない?」
「前から考えてた」
「聞いてないけど」
「……言ってなかったから」
「いや、それ一番ダメじゃない?」
正論だった。
何も言い返せない。
でも今ここで引いたら、一生このままな気がした。
「別にさ、仕事嫌なわけじゃないんだよ」
「じゃあ何?」
「このまま終わりたくないっていうか……」
美月は小さく息を吐く。
「それ、最近よく言うよね」
「だって本当にそう思うし」
「でも湊、普通にちゃんとしてるじゃん」
その言葉に、妙にイラついた。
“普通”。
たぶん彼女は励ましてる。
でも俺には、“諦めろ”って言われてるみたいだった。
「普通って何だよ」
「え?」
「仕事して、結婚して、子供できて、それで終わり?」
「……終わりって何?」
「いや、だから」
うまく言葉にならない。
自分でも何に焦ってるのか分からない。
ただ、このまま人生が固定されていく感じが怖かった。
彼女は少し強い口調で言った。
「みんなそうやって生きてるじゃん」
「でも俺は嫌なんだよ」
「何が?」
「だから……!」
言葉が詰まる。
沈黙。
美月は呆れたみたいに笑った。
「湊ってさ」
「……何」
「何者かになりたいってずっと言ってるけど、具体的に何したいの?」
胸の奥がざわつく。
「それを探したいんだって」
「もう三十だよ?」
その瞬間、頭が熱くなった。
「三十だから何だよ」
「いや、現実見ようよって話」
「現実見てるから苦しいんだろ」
気づけば声が大きくなっていた。
彼女も少し苛立った顔になる。
「じゃあ聞くけど、仕事辞めてどうするの?」
「色々やる」
「だから何を?」
「……YouTubeとか」
言った瞬間、自分でも薄っぺらいと思った。
彼女もそれを感じたんだろう。
「YouTube?」
少し笑いそうな顔。
それが無性に腹立たしかった。
「何だよその反応」
「いや、ごめん。でも湊、前もやってたじゃん」
「……」
「三ヶ月くらいで辞めてなかった?」
やめろ。
その言葉が頭に浮かぶ。
でも彼女は止まらない。
「カメラもそうだったし、小説もそうだったし」
「……」
「結局いつも、“向いてなかった”で終わるじゃん」
心臓を掴まれたみたいだった。
自分が一番分かってる。
分かってるから苦しいんだ。
「でも今度は時間あるし」
「時間の問題じゃないでしょ」
彼女のその一言で、空気が変わった。
図星だった。
時間がないから続かなかった。
ずっとそう思ってた。
でも違うって、自分でも薄々気づいていた。
俺はたぶん、『才能が無い自分』を見るのが怖くて逃げてただけだ。
彼女が静かに言う。
「湊って、“頑張って失敗する”前に辞めるよね」
その瞬間、何かが切れた。
「……じゃあ何?普通に働けって?」
「誰もそんな言い方してない」
「してるだろ」
「してないって!」
彼女も声を荒げる。
「私はただ、今の生活捨てるほどの理由があるのか聞いてるだけじゃん!」
部屋が静かになる。
テレビの音だけが遠かった。
美月は少し俯いて、小さく言った。
「……私、湊と普通に結婚するんだと思ってた」
その言葉が、一番刺さった。
普通。
その未来は、たぶん幸せなんだと思う。
でも。
その未来を想像するたびに、息が詰まる自分もいた。
俺は黙ったまま立ち上がる。
「どこ行くの」
「……ちょっとコンビニ」
財布だけ持って部屋を出た。
夜風が冷たい。
マンションの階段を降りながら、自分でも最低だと思った。
美月は何も間違ってない。
むしろ正しい。
正しすぎる。
だから苦しい。
コンビニに入る。
白い光。
雑誌コーナー。
酒売り場。
深夜テンションの大学生。
いつもの景色。
レジ横に、宝くじのポスターが貼ってあった。
一等五億円。
少し前までなら、鼻で笑っていたと思う。
「どうせ当たらねぇよ」って。
でも今は違う。
もし、あれが当たってなかったら。
俺はこんな風に、“人生を変えたい”なんて本気で考えることもなかったんだろうか。
結局俺は、金があるから夢を見てるだけなんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎる。
缶コーヒーを買って外に出る。
深夜の空気は静かだった。
しばらくして帰宅すると、部屋の電気は消えていた。
寝室を覗く。
彼女はもう寝ていた。
さっきまで喧嘩していたのに、静かな寝息を立てている。
その姿を見ていると、自分だけが勝手に焦っている気がした。
リビングに戻る。
ソファに座る。
暗い部屋。
スマホを開く。
銀行アプリ。
表示された預金残高。
桁がおかしかった。
何回見ても現実感がない。
人生を変えられる金。
普通なら、最高に幸せな気分なはずなんだ。
なのに俺は。
その数字を見つめながら、静かに思っていた。
――これで変われなかったら、俺はもう本当に「普通」なんだろうな。




