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薔薇園の住人

がばりと起き上がって、椅子から転げ落ちた。見慣れた天井の電球を見て、胸をなでおろす。どうやら、机で教科書を読んでいるうちに、眠ってしまったようだ。慣れないことをするものじゃない。


風を当たり続けたせいか、半袖の腕が鳥肌になっていることに気づいた。開け放たれたべランダの窓。カーテンの隙間から、とっぷり日の暮れた街が見え隠れする。


立ち上がって、床のダイレクトメールを踏んだ。ベッドには、英会話の広告や、請求書が無造作に置かれている。ああ、そうだった。夕方、家に戻って、ポストから取り出したばかりの郵便物をベッドに叩き捨てたのだった。


溜息まじりに、問題の封筒をつまみ上げた。ちくりと針を刺されたような痛みを感じて、手を離す。中に入っていた花弁はなびらがシーツに転げ落ちた。いつもとは違う赤い花弁。そして、自分の指先には真っ赤な血が滲んでいた。いつ切ったのだろう。夢の中の白い花が頭を過った。



☆☆☆



インターホンのチャイムで、はっと我に返る。壁の時計は、深夜三時を過ぎていた。酔った住人が部屋を間違えているのだろうか。


鳴りやまないチャイムに苛立ちを感じはじめ、息を殺して玄関に立つ。片目を閉じてのぞき穴に顔を近づけた。



『妻がこちらにお邪魔しておりませんでしょうか』



黒の外套がいとうに身を包んだ山高帽の男。昼間、有栖川邸の前の坂で会ったあの老紳士ではないか。彼は、僕が扉を挟んで向こう側にいることを知っているのか、のぞき穴に笑いかけてきた。



老紳士。香り。薔薇園。大学のカフェテリア。



そうだ、あのとき、僕が香水だと思った匂いは、花の香り。夢でくらくらするほど嗅いだ薔薇の匂いだ。思い出したぞ。男を見たのは、大学のカフェテリア。店内の壁には、外庭の花壇に薔薇を譲渡した人物の写真が掛けられている。彼だ、間違いない。すれ違っているはずがないじゃないか。だって、彼は。



僕が生まれるより随分前に亡くなっているのだから。



さっと、のぞき穴から顔を離すと、チャイムが鳴り止んだ。


(胸騒ぎ)


無性にベランダの窓が気になった。さっき、鍵を締めただろうか。


(得体の知れないモノに対して、湧き上がってくる恐怖心)


振り返るのが怖い。情けないくらい足が小刻みに震えた。


ええいままよ。


くるりと室内に向き直って、息が止まりそうになる。


キッチンとユニットバスの廊下の先から、黒い山高帽の男が、こちらを見つめていた。


――目が。目がおかしい。


開ききった瞳孔は人間のものとは思えない。


『私の妻をどこへやった』



☆☆☆



「玲聞さん、彼の目を見てはいけませんよ」


まるで、イリュージョン。どこからともなく彼は現れ、僕に背を向けるようにして山高帽の男の前に立ちふさがった。春樹さんだ。


「お忘れになりましたか、ジェントルマン。この世に留まりすぎるのも考えものですね」


『お前……』


「花は不幸かもしれません。あなたのような人から逃れられないのでは、せっかくの美しさも朽ちてしまう。最後に見た彼女の顔を覚えていらっしゃいますか。これは、あなたの罪です 」


『なっ…、ちがう。違う、違う違う違う違う違う。妻が、あんなに可愛がってやった一番のコレクションが、この私を裏切るようなことをするはずがない。あの娘は、私なしに生きられるはずがないのだから……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』



ぷつりと糸が切れたように、男は、背中を丸くして、口元の皺をいっそう深くした。鶏ガラのような手をステッキに添えて、どうにか体重を支える姿は、年老いた男そのものだ。

老爺ろうやが小さなため息を吐いた瞬間、彼は、その老いた肉体を溢れんばかりの薔薇の花弁に変えた。朝日が昇るまでの間、彼の赤い魂は、踊り狂うようにこの空間を埋め尽くしていた。



☆☆☆



僕は目を丸くしたまま朝焼けに浮かぶ彼に尋ねた。


「春樹さん、いったい、あなたは何者ですか」


「玲聞さんのスーパーマンです、と言いたいところですが、残念ながら今日は、シャロンの遣いです」


「シャロンちゃん?」


「ほら、絆創膏。失くしちゃ駄目じゃないですか」


そっと自分の手のひらを見ると、指先の血は、すっかり乾いて固まっていた。


まさか。まさかな。


春樹さんは、僕が今までに見たことがないほど、目じりを下げて、嬉しそうにしている。


「彼女、よっぽど、玲聞さんの豆大福が気に入ったようですね」



☆☆☆



これは、後から聞いた話だが、その昔、この街には、有名な薔薇園があったそうだ。主人は、熱心なコレクターで、世界でも珍しいさまざまな品種を見つけては買い付けていたらしい。そんな彼が、最後に望んだのが、薔薇のように美しい娘だった。男は、彼女を強引に妻に迎えるが、年若い娘の心まで縛ることはできず、若妻は、この薔薇園で出会った庭師と恋に落ちたのだ。そして、悲劇が起きた。


お気づきの通り、山高帽の男は、薔薇園の創設者である。


当時、遺体が発見されなかったことから、事件は明るみにならなった。



やがて、薔薇園は、世代を超え、持ち主を変えながら、ある企業グループの元にたどり着いた。企業主は、薔薇園を鑑賞用施設として運営しはじめたが、バブル崩壊で経営が傾き、結果、大学の建設候補地に自ら手を上げる運びとなる。



☆☆☆



僕の奇妙な体験からほどなく。学内の花壇で人骨が発見された。その遺体は、薔薇園の初代マスター、山高帽の男だった。

これは、あくまで僕の推論だが、彼は、妻の殺害を試みて、逆に殺されたのだろうと思う。

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