第009話:遠い空の呼気
柔らかな午後の光が、高いアーチ窓から絨毯の上にこぼれ落ちていた。
隣国エスタン王国、フォンテーヌ伯爵邸の図書室。
磨き上げられたマホガニーの机の上に、分厚い革表紙の書物が数冊、整然と並んでいる。
私は羽ペンの先をインク壺に浸し、羊皮紙の上に文字を書き連ねていた。
古代語の文法と、基礎的な魔力循環の法則。
貴族の学舎で教えられる高等教育の内容を、頭の中に刻み込むように指を動かす。
「ノラ、少し根を詰めすぎではないかい」
穏やかな声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、銀髪を後ろで束ねた初老の紳士、アンリ・フォンテーヌ伯爵が温かな笑みを浮かべて立っていた。
「お父様」
私は羽ペンを置き、椅子から立ち上がって軽くスカートの裾をつまんだ。
6年間の暮らしの中で自然と身についた、貴族令嬢としての礼法。
「疲れてなどいません。この章を今日中に読み終えたいのです」
「熱心なのは素晴らしいが、休憩も稽古のうちだよ。ほら、厨房で焼き立てのアップルパイが焼き上がったそうだ。テラスでお茶にしよう」
お父様は私の頭を優しく撫でてくれた。
その大きな掌の温もりに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
6年前、盗賊に攫われ、暗闇の馬車の中で震えていた私を救い出してくれた恩人。
身寄りのない孤児だった私を引き取り、フォンテーヌ家の令嬢同然に手厚く育ててくれた育ての親。
どれほど感謝してもしきれない。
テラスの白い円卓には、甘いシナモンの香りを漂わせたパイと、湯気を立てる紅茶が用意されていた。
庭園には色とりどりの薔薇が咲き誇り、噴水の水音が心地よく響いている。
夢のような、温かくて満ち足りた世界。
だが、この美しい庭を眺めるたび、私の胸の奥には、いつも別の景色が重なって浮かび上がってくる。
石と泥ばかりの荒れ地。
雨が降るたびに雨漏りした、ボロボロの木造の孤児院。
庭の片隅で、シスター・マーサが大切に育てていたささやかな花壇。
そして、いつも泥だらけになって帰ってきた、赤褐色の髪をした少年。
ロアンお兄ちゃん。
あの日、孤児院が炎に包まれた夜の光景は、今でも昨日のことのように鮮明だった。
シスター・マーサが血を流して倒れ、私は見知らぬ大男たちに乱暴に担ぎ上げられた。
教会の判定のあと、右腕を肘から先失って、白い包帯を赤黒く染めていたお兄ちゃん。
怪我の熱でふらふらになりながら、それでも地面を這い、必死に私へ手を伸ばしてくれた。
「ノラを、返せ!」
泥だらけの唇から絞り出された、かすれた叫び声。
だが、盗賊の無慈悲な長靴がお兄ちゃんの胸を踏み躙り、お兄ちゃんはそのまま冷たい泥の中に動かなくなった。
生きているのか、それとも死んでしまったのか。
あのあとの消息は、どれほど手を尽くして探しても分からなかった。
でも、私は諦めていない。
お兄ちゃんは絶対に生きている。あの強い瞳が、消えてしまうはずがない。
いつか、もう一度お兄ちゃんに会えたとき。
今度は守られるだけの足手まといになりたくない。
お兄ちゃんの力になれる自分でありたいから、私は勉強も魔法の稽古も、一日たりとも怠らなかった。
「伯爵閣下、こちらにいらっしゃいましたか」
テラスの入口から、仕立ての良い上着を着た恰幅のいい男性が姿を現した。
隣国との交易を取り仕切っている、懇意の商人だ。
「やあ、ルブラン。ちょうどいい、君も茶を一杯どうだ」
「ありがとうございます、閣下。ですが、少々耳寄りな報せを持ってまいりましてな」
ルブランという商人は、胸元のポケットから一枚の書簡を取り出しながら、お父様の隣の席に腰を下ろした。
「国境の向こう、アルビオン王国の情勢です。どうやら北東の辺境、アッシュフォードで一波乱あったようでして」
アッシュフォード。
その単語が耳に飛び込んできた瞬間、私の心臓がトクンと大きく跳ねた。
カップを持つ指先が、わずかに震える。
アッシュフォード。
私とお兄ちゃんが育ち、全てを奪われた、あの故郷の街。
「アッシュフォードか。コルヴィン伯爵が治める街だな。あそこは昔から悪政で名高い。重税を課し、民を苦しめていると聞くが」
「ええ、そのコルヴィン伯爵の膝元でさる大立ち回りがあったのです。なんでも、ハーロウの支部から流れてきたという若い単独のAランク冒険者が現れましてね」
商人は声を潜め、面白そうに身を乗り出した。
「その冒険者が、街で何年も放置されていた凶悪な魔物アシッドハイドラをたった3時間で仕留め、さらにその足で、領主の放蕩息子であるオズワルド様率いる私兵隊を完膚なきまでに叩きのめしたそうです」
「なに、私兵隊を一人で?」
「それだけではありません。領主家が長年にわたって横領していた公金の裏帳簿を奪い去り、白日の下に晒すと宣言したとか。今やアッシュフォードは大騒ぎ、コルヴィン伯爵家は泡を食って城に閉じこもっている始末です」
「ほう。若い単独のAランク冒険者か。痛快な話だが、一体何者なんだろうね」
「登録名は確か、グレイと名乗っているそうです。黒ずくめの旅装で、誰とも群れず、底の知れない力を持つとか」
グレイ。
商人の口から告げられたその名前に、私は小さく息を呑んだ。
知らない名前だった。
私の知っているお兄ちゃんの名は、ロアン。
赤褐色の髪をした、熱血でお人好しのお兄ちゃん。
グレイという名の冒険者は、きっと別人なのだろう。
年恰好が近いだけで、世の中には優れた冒険者などいくらでもいる。
頭では、そう分かっていた。
けれど。
アッシュフォードの街で。
かつて教会でお兄ちゃんを指差して嘲笑っていた、あの傲慢なオズワルドを一蹴したという事実。
胸の奥で、激しい熱が脈打ち始めた。
指先が熱くなり、喉の奥がきゅっと締まる。
故郷の名前と、お兄ちゃんを嘲笑ったオズワルドが叩きのめされたという、たったそれだけの事実。
それだけなのに、胸のざわめきが収まらない。
まるで、遠く離れた空の向こうから、冷たく研ぎ澄まされた刃のような誰かの息遣いが、風に乗って届いてきたかのように。
「ノラ? どうかしたかい、顔色が優れないようだが」
お父様が心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「い、いえ。なんでもありません」
私は慌てて首を横に振り、紅茶のカップを口元へ運んだ。
震える唇を隠すように、温かいお茶を一口含む。
「痛快なお話だと思いまして。悪い領主様が懲らしめられたのなら、街の人たちも少しは救われるのではないでしょうか」
「ふふ、確かにそうだね。力を持つ者が正しく振る舞うのは、見ていて気持ちのいいものだ」
お父様は優しく微笑み、商人と再び交易の話題へと戻っていった。
私はテラスの欄干へ歩み寄り、西の空を見上げた。
青く澄み渡る空の遥か先。
国境の山並みを越えた向こう側に、あの呪わしい故郷がある。
グレイ。
灰色を意味する名前の、謎の冒険者。
もしも。
もしも、それがお兄ちゃんなのだとしたら。
確かめる術は、今の私にはない。
商人が拾ってきた又聞きの噂話ひとつを頼りに、隣国まで人をやってほしいとは、お父様にもさすがに頼めない。名前も、顔も、まだ何一つ確かなものはないのだから。
私は胸の前で、小さな両手をぎゅっと組み合わせた。
お兄ちゃん。
私はここにいるよ。
誰にも負けないくらい、強く、立派になってみせるから。
だから、どうか生きていて。
いつか必ず、また笑い合えるその日まで。
午後の風が吹き抜け、私の髪を優しく揺らして西の空へと去っていった。




