第008話:灰色の制裁
貧民街を抜け、アッシュフォードの中央広場へと足を踏み入れた。
昼間は露店が並ぶ広大な石畳の空間が、夜の冷気と沈黙に包まれている。
だが、その静寂は不自然なものだった。
広場の四隅に焚かれた松明が、パチパチと火の粉を散らしながら、石畳を赤黒く照らし出している。
建物の陰から、金属鎧の擦れ合う音が響いた。
松明の明かりの中に、甲冑を着込んだ私兵たちが十数人、槍や抜身の剣を構えて姿を現した。
整然とした包囲網。
路地裏から出てきた俺を逃がさないよう、瞬く間に退路が塞がれていく。
その中央。
金糸の刺繍が施された豪奢な黒い外套を羽織った青年が、取り巻きを引き連れて悠然と歩み出てきた。
オズワルド・コルヴィン。
6年前に教会で出会ったときより背は伸びていたが、その顔立ちは記憶のままだ。
薄い唇、釣り上がった眉、他人を見下すことに慣れきった傲慢な瞳。
腰には学園から支給されたという、銀細工の美しい宝剣が下がっている。
指先にはめられた指輪からは、火魔法のオーブが放つ淡い赤色の魔力が揺らめいていた。
「倉庫の見張りを叩きのめしたネズミがいると聞いて来てみれば。なんだ、薄汚い余所者のガキじゃないか」
オズワルドは顎をしゃくり、唾を吐き捨てるように笑った。
その視線には、かつて教会で孤児を見下したときと同じ、絶対的な優越感だけが宿っている。
目の前に立つ青年が、かつて自分が「無縁」と嘲笑したあのロアンだとは、夢にも思っていないらしい。
「貧民街のチンピラ風情が、伯爵家のシマで好き勝手に暴れてくれたようだな。盗んだ帳簿を大人しく渡せば、片腕を切り落とすだけで勘弁してやってもいいぞ」
「片腕、か」
俺は外套の下の右腕を動かさず、静かに息を吐いた。
かつて失った腕。その元凶となった街で、同じ言葉を投げかけられる皮肉。
「ずいぶんと安っぽい脅しだな。その立派な外套と綺麗な宝剣は、孤児院の補助金を横領して買ったのか」
オズワルドの笑みが、ピキリと凍りついた。
周囲の私兵たちが、息を呑んで顔を見合わせる。
「貴様、誰に向かって口を利いているか分かっているのか?」
オズワルドの額に青筋が浮かび上がった。
プライドを撫で斬りにされた貴族の、醜い怒りが顔を赤く染めていく。
「たかが平民のクズが、伯爵家の跡取りである俺を侮辱するか! 正規のオーブも持てない野良犬が調子に乗るな! やれ! 手足を切り刻んで引きずり回せ!」
オズワルドの怒鳴り声と同時に、周囲の私兵たちが一斉に地面を蹴った。
槍を突き出し、長剣を振りかざして殺到してくる。
訓練された集団による、隙のない包囲突撃。
だが、俺から見れば、ただの鈍重な的の群れにすぎない。
「邪魔だ」
俺は右腕の外套を払い、いつものように手首の機構へ意識を向けた。
だが、返ってきたのは鈍い軋み一つだけだった。
指先が半端に開いたまま、ワイヤーが飛び出す気配がない。
「ちっ、使えねえのか」
舌打ちと同時に、腰の直剣を抜き放つ。
斬撃に連撃を重ね、突き出された槍を薙ぎ払い、一人目の脛を斬り伏せる。
一撃で決められないぶん、踏み込みの数が増える。
二人目の剣を弾き、崩しをかけて体勢を崩したところへ、打撃に威力増幅を乗せた拳を叩き込んだ。
鎧ごと吹き飛んだ男が、後続に折り重なる。
残る数人が怯みながらも槍衾を組み直そうとする。
「くそったれが」
厄介なのは数だけだ。息が上がるほどでもないが、いつもより手間がかかる。
俺は最後の一人の膝を蹴り砕き、崩れ落ちる体を踏み台にして懐へ飛び込んだ。
鳩尾に叩き込んだ一撃で、男の意識が刈り取られる。
わずか十数秒。
呻き声を上げる暇もなく、私兵全員が白目を剥いて転がり、動かなくなった。
「な!?」
オズワルドが絶句し、喉をひきつらせた。
数秒前まで優位を確信していた傲慢な顔が、一瞬で蒼白に染まる。
「な、なんだ、今の技は!? オーブの光もなしに、何をした!?」
「お前たちの誇る正規の力とやらは、この程度か」
俺は転がる私兵の体を踏み越え、ゆっくりと歩みを進めた。
足音が、静まり返った広場に響く。
「ふ、ふざけるな! 俺はアッシュフォード魔法学園を優秀な成績で修めたエリートだぞ! 貴様のような名もなきゴミに負けるはずがない!」
逆上したオズワルドが、指先の指輪を突き出してきた。
紅い魔力が渦を巻き、巨大な火球が形成される。
「消し飛べ! 灰も残さず燃え尽きろ!」
轟音と共に、人の背丈ほどもある火球が放たれた。
熱波が石畳を焦がし、視界一面を赤く染め上げる。
学園仕込みの、教科書通りの高威力火魔法。
だが、単一属性の力など、恐るるに足らない。
「消えろ」
俺は左手を前にかざした。
水属性に、拡散の力を乗せる。
パシュウッ!
掌の前に、薄い水の膜が円形に展開した。
迫り来る巨大な火球が、水幕に触れた瞬間、激しい水蒸気を噴き上げて一瞬で掻き消えた。
爆発すら起きない。ただ生温い霧が、広場に漂うだけだった。
「ひ、火魔法が、掻き消された!?」
オズワルドの喉が、ひゅっと鳴った。
魔法の定石を完全に覆された動揺。
半狂乱になった男は、腰の銀細工の宝剣を狂ったように引き抜いた。
「死ねぇっ!」
叫びながら、切っ先を突き出して突進してくる。
肩に力が入り、足元の定まらない、素人同然の刺突。
俺は半歩だけ身をかわした。
切っ先が鼻先をかすめた瞬間、右手を伸ばす。
ガシィン!
鋼の指先が、オズワルドの剣身を真横から万力のように挟み止めた。
火花が飛び散り、甲高い金属音が響く。
「なっ、離せ、離せえっ!」
オズワルドが両手で柄を握り、必死に引き抜こうとする。
だが、指はミリ単位すら動かない。
本物の魔物の爪や牙を受け止めてきた鋼が、安物の貴族の力などに負けるはずがなかった。
「学園仕込みの剣術とやらも、見かけ倒しだな」
「な!?」
「終わりだ」
俺は指に、わずかに力を込めた。
バキンッ!
凄まじい破壊音が夜気に弾けた。
銀細工の美しい刀身が、中央から真っ二つに砕け散る。
へし折れた刃先が回転しながら石畳に突き刺さり、甲高い余韻を残した。
折れた柄を握りしめたまま、オズワルドはガタガタと震え始めた。
全身の血の気が引き、唇が紫色に変色している。
俺は折れた刃を一瞥し、右手をオズワルドの喉元へと伸ばした。
鋼のような指先が、白い喉に軽く触れる。
万力の握力をわずかでも込めれば、それだけで頸骨が軋む。それだけで十分だった。
「ひ、ひぃぃっ!」
喉元に食い込む、万力のような圧迫感。
それが死の感触だと理解した瞬間、オズワルドの膝が完全に砕けた。
ドサリ、と石畳の上に崩れ落ちる。
股間からじわりと温かい染みが広がり、石畳を濡らしていった。
失禁の臭いが、夜の冷気に混ざり合う。
「た、助けてくれ! 殺さないでくれ! 金ならいくらでもやる! 父上に頼んで、伯爵家の財産を全部くれてやるから!」
かつて教会の壇上で、孤児を見下して嘲笑っていた傲慢な貴族の跡取り。
その成れの果てが、泥と自分の汚水にまみれて、涙と鼻水を垂らしながら命乞いをしている。
無様すぎて、怒りすら湧かなかった。
ただ、冷え切った軽蔑だけが胸に残る。
「命乞いか。ずいぶんと耳障りな声だな」
俺はオズワルドの胸元に手を伸ばし、私兵隊長の印章である銀のメダルと、懐の鍵束を乱暴に引きちぎった。
オズワルドは怯えて頭を抱え、身を縮める。
俺はそのメダルを懐へ放り込み、足先でオズワルドの肩を蹴り飛ばした。
「がはっ!」
男は泥水の中を転がり、無様に這いつくばった。
「貴様をここで殺すのは簡単だ。だが、それではただの死体が増えるだけで面白くない」
俺は冷酷に告げた。
「あの倉庫にあった裏帳簿は、俺が預かった。お前たちがこれまで犯してきた悪行の全てを、白日の下に晒してやる」
「あ、あ、あ」
オズワルドが絶望に顔を歪め、声にならない呻きを漏らす。
帳簿が奪われたという意味を、ようやく理解したらしい。
「二度と俺の前にその汚い顔を見せるな。次は首を落とすぞ」
「ひぃっ、ひぃぃぃっ!」
オズワルドは立ち上がる気力もなく、四つん這いになって泥水を跳ね上げながら、夜の闇へと必死に這い逃げていった。
取り巻きの私兵たちも、気絶した仲間を引きずりながら、蜘蛛の子を散らすように散っていく。
広場に、再び静寂が戻ってきた。
俺は懐の帳簿と銀の印章に指を触れた。
手応えは重い。
オズワルドへの個人的な意趣返しは終わった。
だが、この街を腐らせている根源、コルヴィン伯爵家そのものの断罪は、まだこれからだ。
夜空を見上げると、厚い雲の切れ間から、冷たい銀の月が覗いていた。
俺の復讐の歯車が、音を立てて噛み合い始めていた。




