第007話:踏みにじられた場所
夜のアッシュフォードは、死んだように静まり返っていた。
人通りの途絶えた大通りを離れ、俺は街の東端、貧民街のさらに外れへと足を向けた。
街灯の油も尽き、月明かりだけが泥だらけの小道を青白く照らしている。
崩れかけた土壁、異臭を放つゴミ溜め。
足が勝手に、6年前に毎日のように走っていた道順を辿っていく。
あの頃は、いつも腹を空かせていた。
だが、どんなに泥にまみれて帰っても、温かい野菜スープの匂いと、シスター・マーサの穏やかな声があった。
小さなノラが、短い足でパタパタと土の庭を駆けてきて、泥だらけの俺の腰にしがみついてきた。
その記憶の場所に、俺は辿り着いた。
「なんなんだ、これは」
思わず、低く乾いた声が喉から漏れた。
目の前に広がる光景に、足が止まった。
孤児院の木造の平屋は、影も形もなく取り壊されていた。
敷地の周囲には先のとがった黒い木の柵が乱雑に巡らされ、中央には無骨な石造りの倉庫が居座っている。
倉庫の扉の上には、見覚えのある紋章、コルヴィン伯爵家の黒いカラスの旗が掲げられていた。
かつてノラと駆け回った小さな土の庭は、車輪の跡で深く抉られ、泥水が淀んでいる。
そこへ酒樽や木箱、差し押さえられた民家の家具が無造作に山積みにされ、雨ざらしのまま放置されていた。
シスター・マーサが手入れしていた小さな花壇の跡地には、折れた鉄パイプと馬糞が散らばっている。
全てが踏みにじられ、汚されていた。
胸の奥で、冷たい熱がどす黒い塊となってせり上がってくる。
右手の関節が、ギリリと音を立てて軋んだ。
爪先が自然と石を踏み砕く。
「おい、そこの薄汚ねえガキ。何ジロジロ見てやがる」
倉庫の影から、松明を持った男たちが三人、だらしない足取りで現れた。
粗末な鉄の胸当てに、黒と灰色の羽織。
コルヴィン伯爵家の私兵の制服だ。
先頭に立つ髭面の男は、腰に錆びたサーベルを下げ、残る二人は革鎧に棍棒を握りしめている。
全身から安酒と煙草の蒸れた匂いを漂わせていた。
「ここは伯爵様の資材置き場だ。野良犬が立ち止まっていい場所じゃねえぞ」
髭面の男が松明を掲げ、俺の外套の下に隠した右腕と、腰の直剣を品定めするように見下ろした。
「夜歩きの冒険者風情か。おい、通行証はあるのかよ。若様のお達しでな、夜間にこの界隈をうろつく不審者は、全員取り調べることになってんだ」
「通行証などない」
俺は視線を逸らさず、冷たく言い放った。
「ここは孤児院があった場所だ。建物はどうした」
男たちが一瞬顔を見合わせ、それから下品な笑い声を上げた。
「孤児院だあ? いつの話をしてやがる! あんなボロ屋、6年前に盗賊が火をつけて全滅しただろ!」
「買い手がねえ土地だったからよ、伯爵様が買い取って倉庫にしてやったのさ。ありがたく思えってんだよ」
髭面が唾を吐き捨て、サーベルの柄に手をかけた。
「おい、余所者の小僧。理由はどうあれ、私有地への不法侵入だ。手持ちの金を全部置いていくなら、見逃してやってもいいぜ」
「金を全部置いていけ、か」
俺はため息をひとつ吐き、ゆっくりと顎を上げた。
「どけ。足元が汚れる」
「ああん!? ガキが生意気な口を利いてんじゃねえぞ!」
棍棒を持ったチンピラの一人が顔を真っ赤にし、頭上から力任せに殴りかかってきた。
大雑把で、隙だらけの素人同然の一撃。
俺は抜刀すらしなかった。
半歩だけ前に踏み込み、振り下ろされる棍棒の軌道を紙一重でかわす。
すれ違いざま、右手で男の右手首を掴んだ。
カシャリ、と金属の指が噛み合う。
万力じみた握力で、そのまま握り込む。
ゴキリ、と鈍い骨折音が夜の静寂に響いた。
「ぎゃあああっ!?」
悲鳴を上げる男の腹部へ、左の掌底を鋭く叩き込む。
掌底の一撃が鳩尾に深くめり込み、男は白目を剥いて泥水の中へ崩れ落ちた。
「な、なんだと!?」
もう一人の棍棒持ちが慌てて後退しようとしたが、遅い。
俺は踏み込み、地面の泥を蹴り上げながら懐へ潜り込んだ。
左足の払い。体勢を崩して宙に浮いた男の顎を、肘で正確に撃ち抜く。
ドスンと重い音がして、二人目も泥の中に沈んだ。
10秒もかかっていない。
残された髭面の私兵頭が、松明を落としそうになりながら後ずさった。
「ば、化け物! き、貴様、何者だ!」
震える手でサーベルを引き抜き、切っ先を突き出してきた。
刃先が小刻みに揺れている。
「何者でもない。ただの通りすがりだ」
俺が一歩進むと、男は悲鳴を上げてサーベルを振り下ろしてきた。
恐怖に任せただけの、目をつぶった斬撃。
俺は右腕の甲で、刃の側面を軽く払った。
キィン、と硬質な金属音が夜気に響き、サーベルの切っ先が明後日の方向へと跳ね上がる。
そのまま、ガラ空きになった喉元へ鋼の指を伸ばした。
ガシ、と冷たい指先が男の喉仏を締め上げる。
そのまま足を引いて全体重を乗せ、背後の石壁へと叩きつけた。
ドォン、と鈍い音が壁を震わせる。
「が、はっ!」
男の口から泡混じりの唾液が垂れた。
足が地面から浮き、爪先が虚しく宙を掻く。
「質問に答えろ」
俺は氷のように冷え切った声で告げた。
指にわずかに力を込めると、喉の骨がきしむ音がした。
「この倉庫の中身は何だ。なぜ孤児院の跡地に建っている」
「ひ、言います、言いますから! 息が、首を緩めてくれ!」
指の力をわずかに緩めると、男は咳き込みながら必死に口を開いた。
「ここは、伯爵様の裏帳簿と、密輸物資の隠し倉庫だ! 正規の帳簿に載せられない物資や金を、一時的に保管してる!」
「孤児院の土地をなぜ使った」
「あ、跡地なら誰も近づかねえし、国からの視察も来ねえ! それに、孤児院は書類上まだ存続してることになってるんだ!」
「書類上?」
俺の眉がぴくりと動いた。
男は喉を鳴らし、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
伯爵家を売る後ろめたさと、万力じみた指の感触を天秤にかけている。
俺は指先にわずかに力を込め直した。
「お、おうよ! 国から孤児院の維持補助金が、今でも毎年アッシュフォードに支払われてる! それを孤児院が運営されてる体にして、伯爵様が丸ごと懐に入れてるんだ! その証拠の書類も、倉庫の奥の机に!」
胃の底から、どす黒い怒りが込み上げてきた。
シスター・マーサが死に、ノラが攫われ、孤児院が壊滅したというのに。
コルヴィン伯爵家は、その死すら金に変えていたのだ。
血塗られた過去の上に倉庫を建て、今この瞬間も、死者の名前を使って金を吸い上げ続けている。
「人間のやることじゃないな」
「お、俺は言われた通りに見張ってただけだ! 見逃してくれ!」
「鍵はどこだ」
「腰の、腰の革袋に入ってる!」
男の腰から真鍮の鍵束をもぎ取り、俺は腕を振って男を地面に叩き落とした。
男は泥水をすすりながら激しく泣きじゃくっている。
俺は石造りの倉庫の頑丈な南京錠に鍵を差し込み、扉を押し開けた。
中には、不気味なほどの静寂と埃の匂いが立ち込めていた。
部屋の隅には高級な酒樽や毛皮、宝石箱が積み上げられ、中央の執務机の上には書類が散乱している。
机の引き出しを端から引き抜き、二重底になっている隠しスペースを見つけ出した。
そこから、黒革の表紙で綴じられた一冊の帳簿を引きずり出す。
ページをめくると、アッシュフォード孤児院への補助金の受領記録と、それがそのままコルヴィン家の裏口座へと流れている詳細な金額が、几帳面に記載されていた。
さらに、街の商人たちから法外な税を巻き上げている裏の徴税記録まで挟まれている。
完全な、動かぬ不正の証拠だ。
「これだけあれば、領主の首を飛ばすには十分だな」
帳簿を懐の奥深くへしまい込み、倉庫の外へ出た。
地面に倒れていた髭面の男が、這いつくばりながら血走った目で俺を睨みつけていた。
その顔には、恐怖と憎しみが入り混じっている。
「き、貴様、タダで済むと思うなよ! 今夜はオズワルド様が、若様が直々に私兵を率いて広場を巡回してるんだ! 倉庫を荒らしたと知れたら、貴様なんぞ八つ裂きにされて城門に晒されるぞ!」
「オズワルド、か」
懐かしい名前を聞いた。
6年前、教会の判定の場で、「孤児院育ちが無縁って、似合いすぎるだろ」と笑い転げていた、あの傲慢な貴族の息子。
今では私兵隊長を気取り、親の権力を笠に着て街で暴れ回っているらしい。
「ちょうどいい」
俺は短く呟いた。
「探す手間が省けた」
恐怖に顔を引きつらせる私兵頭をその場に残し、俺は夜の小道へと歩き出した。
胸の奥で渦巻いていた熱が、驚くほど静かで冷徹な殺意へと変わっていく。
広場へ向かう足取りは、羽のように軽かった。




