第006話:毒沼の代償
街の北門を抜け、荒涼とした岩山を登ること2時間。
かつて銀を産出していたという廃鉱山の谷底に、異様な光景が広がっていた。
周囲の木々は枯れ果て、黒ずんだ骨のように立ち尽くしている。
谷底に溜まった水源は、淀んだ蛍光の緑色に濁り、ブツブツと泡を立てて刺激臭のある蒸気を吹き上げていた。
ジュウ、と音を立てて岩肌が溶けている。
「ひどい悪臭だな」
俺は鼻を覆い、腰の直剣を抜いた。
水面が激しく波打ち、巨大な水飛沫と共に、怪物が姿を現した。
アシッドハイドラ。
体長8メートルを超える、ぬめるような緑の鱗に覆われた大蛇。
その胴体から、三つの巨大な蛇頭が生え出ている。
三対の黄色い瞳が、侵入者である俺を捉え、ギチギチと牙を鳴らした。
シューッ!
中央の頭が口を大きく開き、粘り気のある黄緑色の酸液を大量に吐き出してきた。
周囲の空気を焼き焦がすほどの腐食毒。飛沫を浴びるだけでも、生身の人間なら皮膚がただれ落ちる。
俺は一歩も引かなかった。
「凍れ」
左手を前に突き出し、「無縁」の力で異なる属性を繋ぎ合わせる。
氷の力に、集束を重ねた。
カチリ、と空気が凍りつく音が響いた。
迫り来る大量の酸液が、着弾の直前に空中で一瞬にして結晶化した。
緑色の巨大な氷塊へと変貌し、バラバラと音を立てて足元に落ち、砕け散る。
猛毒の酸も、凍らせて固めてしまえばただの石ころと同じだ。
ハイドラが怯むように身をよじり、左右の頭を同時に振りかぶって噛みついてきた。
太い丸太のような顎が、左右から俺を挟み潰そうと迫る。
俺は直剣を逆手に構え、右腕の外套を振り払った。
「五月蝿い」
カシャリ、と乾いた金属音が響く。
右腕の手首が前方に伸展し、五本の指がワイヤーと共に扇状に射出された。
鋼線が空を裂き、右の頭部の首筋に鋭く巻き付く。
巻き取る腕に、刺突と連撃を付与する。
ギチギチと音を立てて鋼線が肉に食い込み、蛇頭の骨を内側から破砕した。
同時に、左手の直剣を左の頭部の眉間へ突き刺す。
貫通の一撃が頭蓋を貫き、脳髄を焼き潰した。
ドサリ、ドサリと、左右の頭部が同時に地面へ叩きつけられた。
残る中央の頭が、痛恨の咆哮を上げる。
失われた二つの首の断面から、肉が泡立ち、急速に再生しようとしていた。
傷口を塞ぎ、新たな頭が生え出るまでのわずかな隙。
「再生させるかよ」
俺は地面を蹴り、中央の頭の懐へと飛び込んだ。
直剣に、火と斬撃の力を接続する。
再生する間も与えない、高熱を纏った刃の一閃。
ズバァン!
猛烈な火花と共に、中央の頭部が根元から両断された。
断面は即座に炭化し、再生の力を完全に封じられた巨体が、ビクビクと痙攣した後に水音を立てて毒沼へと沈んでいった。
静寂が、廃鉱山に戻ってきた。
「ふん。大口を叩いていた割には、脆いものだな」
ワイヤーを巻き取ろうとした瞬間、ギィ、と手首の機構が嫌な音を立てて引っかかった。
金属の節がわずかに軋み、指先の戻りが一拍遅れる。
「ちっ」
酸の蒸気を吸い続けた継ぎ目に、何かがこびりついているのか。
舌打ちひとつで済ませ、詳しく検分する暇も惜しんで、俺は炭化した中央の頭部から討伐証明となる巨大な毒牙をナイフで引き抜いた。
掌ほどの大きさがある、黒光りする毒牙。
念のため、麻袋に頭部そのものを丸ごと詰め込み、肩に担いだ。
ギルドを出てから、まだ3時間も経っていない。
*
夕暮れのアッシュフォードギルド。
フロアでは、昼間と同じ冒険者たちが、まだだらだらと酒を飲んでいた。
「あの小僧、今頃ハイドラの胃袋の中だろうぜ」
「だから言ったんだ、余所者が調子に乗るからだってな」
下卑た笑い声が響くフロアの扉が、ギィと音を立てて開いた。
入ってきた人影に、入口近くの男たちが息を呑んだ。
血と泥の匂いを微かに漂わせた黒ずくめの青年。
肩には、異様な大きさに膨れ上がった麻袋を担いでいる。
フロアのざわめきが、急速に静まり返っていった。
俺は誰にも目を向けず、カウンターへと一直線に歩いた。
怯えた顔でこちらを見つめるダレルの目の前に、麻袋を無造作に落とす。
ズズゥン、と重い湿った音が響いた。
「討伐の検収だ。アシッドハイドラの中央頭部。それと毒牙だ」
麻袋の口を広げ、炭化した巨大な蛇頭を晒す。
まだ熱を帯びた断面から、白煙が立ち上っていた。
「ひっ!」
ダレルが短い悲鳴を上げて椅子から転げ落ちそうになった。
隣にいた冒険者たちが駆け寄り、袋の中身を覗き込んで、顔面を蒼白にした。
「う、嘘だろ、ハイドラの頭!?」
「炭化してる、傷口が再生してねえぞ!」
「たった一人で、3時間で戻ってきたのか!?」
昼間に忠告気取りで絡んできた銀プレートの男が、ジョッキを取り落として泡を床にぶちまけた。
震える指先で俺を指差し、言葉を失っている。
俺は台板を指先で叩いた。
「金貨50枚。早くしろ」
「は、はいぃっ! ただちに、ただちにお支払いします!」
ダレルは狂ったように金庫を開け、革袋に金貨を詰め込んで差し出してきた。
手渡しされる革袋を奪うように受け取り、懐へ押し込む。
「ご苦労」
踵を返し、出口へと歩き出す。
先ほどまで嘲笑していた冒険者たちが、蜘蛛の子を散らすように左右へ割れ、頭を下げて道を開けた。
誰も視線を合わせられない。ただ恐怖と戦慄だけが、背中に張り付いている。
ギルドの重い扉を押し開け、冷え始めた夜の街へ出る。
街灯の灯る薄暗い通りを見据えながら、俺は懐の革袋を軽く叩いた。
「次は、あの場所だな」
言葉ほど、軽くはなかった。
シスター・マーサが殺され、ノラが奪われた、あの孤児院。
冷たい夜風を吸い込みながら、俺は路地裏の闇へと足を踏み入れた。




