第005話:腐敗の街と古い記録
クレイグ峠を越えて半日。
荒れ果てた街道の先に、石造りの城壁に囲まれた街が見えてきた。
アッシュフォード。6年前に捨てて以来、二度と戻るつもりのなかった故郷だ。
見慣れたはずの城壁の輪郭に、指先が一瞬強張った。
忘れたと思っていた道順を、足が勝手になぞろうとする。
城門の警備兵は錆びた槍を壁に立てかけ、欠伸をしながら通行人を品定めしていた。
通行税として銀貨を投げ渡すと、俺の顔も見ずに手振りで通された。
規律も緊張感も欠片さえない。
城門をくぐると、記憶にある景色がさらに色褪せて広がっていた。
漆喰の剥がれ落ちた石造りの民家、埃っぽい石畳、行き交う人々の沈んだ目つき。
露店に並ぶ野菜は萎びて泥がつき、裏路地の入口には物乞いや浮浪者がうずくまっている。
「相変わらず、薄汚れた街だな」
思わず小さく吐き捨てた。
領主であるコルヴィン伯爵家の重税と搾取。
由緒ある名門の体面を保つためだけに、街の富が吸い上げられ、民が干からびている。
6年前、孤児院の補助金を横領されていたのも、この構造のほんの一端にすぎない。
俺は外套のフードを目深に被り、大通りを抜けて冒険者ギルドのアッシュフォード支部へ向かった。
古びた3階建ての石造りギルド。
重い木の扉を押して中へ入ると、生温い酒の匂いと、蒸れた獣の体臭が鼻を突いた。
昼間だというのに、薄暗いフロアの丸テーブルでは、粗暴な冒険者たちが安酒を煽って博打に興じている。
活気ではなく、怠惰と諦めだけが積もっている場所。
ハーロウのギルドにあった研ぎ澄まされた空気とは、あまりにもかけ離れていた。
俺は視線を合わせず、受付カウンターへと歩み寄った。
カウンターの奥では、油でテカった髪の中年男性職員が、帳簿を肘置きにしてあくびを噛み殺していた。
名札には「ダレル」と記されている。
「新規の登録か、余所者? うちは今、新人を手取り足取り教えるような暇はねえんだがな」
ダレルは俺の小柄な体躯と、外套の下に隠した右腕を一瞥し、鼻を鳴らした。
俺は無言で、首から下げていた鉄の登録票を台板の上に置いた。
「他所の登録証だ。ここで依頼を受ける。照会を頼む」
ダレルが面倒くさそうにプレートを拾い上げ、そこに刻まれた文字に目を落とした。
その瞬間、男の目が点になった。
「は? Aランク? 単独?」
かすれた声が漏れる。
男は慌てて引き出しから拡大鏡を取り出し、プレートの刻印と偽造防止の魔法印を念入りに覗き込んだ。
「本物、なのか? おいおい、まだ16かそこらのガキだろ」
「早く照会を済ませろ」
「あ、ああ、ちょっと待て」
男の態度から横柄さが消え、ぎこちない手つきで分厚い魔導台帳の束を引っ張り出してきた。
水晶板にプレートを翳し、過去の登録記録や照会記録をめくり始める。
「ええと、グレイ。ふん、確かにAランクの記録だ。信じられんが、偽造じゃねえな」
ダレルは額の脂汗を指で拭いながら、台帳の古いページを何気なくめくった。
その指が、ふと止まる。
「ん? 出身地がアッシュフォードになってるな。あんた、ここの出か? だが、うちの古い記録にグレイなんて名前はねえぞ」
「孤児院育ちだ。苗字も家柄もない」
「孤児、ねえ」
ダレルは納得したように薄笑いを浮かべ、台帳の古い記録欄を指先で叩いた。
「孤児上がりでAランクたあ、大した出世頭だ。そういや昔、6年くらい前だったか。あんたと同じように、教会の判定を受けたその日に冒険者登録したバカな孤児がいたっけな」
空気が、わずかに張り詰めた。
俺は表情を変えず、ただ冷たく男を見つめた。
「どんなバカだ」
「名前は確か、ロアンとか言ったかな。ハズレスキルを引いたくせに、身の程知らずにも初日に荒れ地へ飛び出してよ。素手で魔物に殴りかかって、右腕をもがれて這い戻ってきた間抜けだよ」
ダレルは可笑しそうに肩を揺らし、下卑た笑い声を漏らした。
「怪我の手当てを受けたら、そのまま街から消え失せちまった。今頃どっかの野垂れ死にだろうよ。身の程を弁えない孤児の典型だ。同じ孤児上がりでも、あんたとは雲泥の差だな」
「そうか」
俺は短く答えた。
冷たいものが、静かに胸の奥へ沈んでいく。
目の前の間抜け面が、俺自身の話を酒の肴にしている。
台板の上で、指先が意味もなく直剣の柄を探った。
6年前、教会の判定の場だけでなく、このギルドの窓口でも同じように嘲笑されていたのだ。
この街の人間は、上から下まで、何一つ変わっていない。
「くだらない昔話はいい。手続きが済んだなら、依頼票を見せろ」
「へいへい、悪かったよ。照会は完了だ、好きに選んでくれ」
ダレルが鉄のプレートを返してきた。
俺はそれを受け取り、壁に据え付けられた巨大な掲示板へと歩を進めた。
羊皮紙が雑然と貼られた掲示板。
薬草摘みやゴブリン退治のような下級の依頼ばかりが並ぶ中、隅のほうに、黒ずんで埃を被った一枚の依頼票があった。
羊皮紙の端は破れ、何度も貼り直された痕跡がある。
『緊急討伐:アシッドハイドラ。生息地:北の廃鉱山・水源地帯。報酬・金貨50枚』
「まだ残っていたか」
俺がその依頼票に手をかけた瞬間、背後で酒を飲んでいた冒険者たちの一角がざわついた。
「おい、冗談だろ」
「あいつ、ハイドラの依頼票を剥がしやがったぞ」
テーブル席から、鉄の鎧を着込んだ大柄な男が立ち上がり、ジョッキ片手にこちらへ近づいてきた。
胸元には銀のプレート。Cランクの冒険者だ。
「おい、見かけねえ兄ちゃん。その依頼票の意味、分かって剥がしてんのか?」
「読めるから剥がした」
今日二度目の台詞を、俺は吐き捨てた。
「あのハイドラは、三年も前からあの水源に居座ってんだよ。吐き出す酸は鉄の鎧すら一瞬でドロドロに溶かす。頭を切り落としてもすぐに新しい頭が生えてきやがる化け物だ。領主様の私兵団だって手が出せなくて放置してんだぞ」
男は酒臭い息を吐きながら、嘲るように口の端を歪めた。
「余所者のガキが、ちょっと腕が立つからって調子に乗るな。死体も残らず骨まで溶かされるのがオチだぞ」
周囲の冒険者たちからも、同調するような下品な笑い声が起こる。
「やめとけやめとけ、死に急ぐな」
「綺麗な顔がドロドロの肉塊になっちまうぞ」
俺は男の忠告を完全に無視し、カウンターのダレルの前へ戻った。
依頼票を無造作に放り出す。
「アシッドハイドラの討伐を受注する。受理しろ」
「え、本気か、グレイさん? いくらAランクでも、ハイドラは単独で挑むような魔物じゃ」
「受理しろと言った」
俺の冷え切った視線に射すくめられ、ダレルは小さく悲鳴を上げて首を引っ込めた。
「わ、分かりました。受理印を押します。死んでもギルドは責任を取りませんからね」
朱色のスタンプが押された紙片を懐に入れ、俺は振り返ることなくギルドを出た。
背中に嘲笑と好奇の視線が突き刺さるが、気にする価値もない。




