第004話:峠の障害物
安宿の主人に鍵を返し、わずかな荷物を背負って扉を出た。
振り返りはしなかった。行き先はもう決まっている。
ハーロウの街を出て、北へと続く街道を二日ほど歩くと、空気の匂いが変わった。
緑の多い平原は次第に痩せ細り、赤茶けた岩肌が剥き出しになった山並みが視界を塞ぎ始める。
アッシュフォードへ抜ける唯一の関門、クレイグ峠だ。
峠の麓にある小さな宿場町は、異様な熱気と苛立ちに包まれていた。
街道沿いに粗末な馬車が何台も列をなし、立ち往生している。
御者たちは車輪の泥を落とす気力もなく地面に座り込み、商人たちは荷台の天幕を気にして落ち着きなく往復していた。
通りの中ほどにある、丸太組みのギルド出張所。
その粗末な板壁の前に、鉄の胸当てを着けた冒険者たちが十数人、たむろして煙草を吹かしていた。
「おいおい、まだ片付かねえのかよ」
「無理言うな。相手はクラッグリザードだぞ。しかも五匹の群れだ。あんな岩の塊みたいな外殻、並の剣じゃ刃こぼれして終わりだ」
「学園の連中が応援に来るまで待つしかねえってよ。それか、アッシュフォード側から討伐隊が出るかだ」
冒険者たちのぼやきが、砂埃混じりの風に乗って耳に届く。
俺は荷袋の位置を直し、連中の間をすり抜けて掲示板の前へ歩み寄った。
板壁には、風雨に晒されて端が丸まった羊皮紙が数枚、釘で打ち付けられていた。
その中央に、赤インクで大書された一枚がある。
『クレイグ峠封鎖。クラッグリザード群れの掃討。報酬・金貨25枚』
俺はためらうことなく手を伸ばし、その依頼票を釘ごと引き抜いた。
「おい、小僧」
背後から、がさつな野太い声が飛んできた。
振り返ると、両手剣を背負った大柄な男が、眉をひそめてこちらを見下ろしていた。
首元に揺れているのは、銅のプレート。Dランクか、よくてCランクの上といったところだ。
「その依頼票が読めねえのか? クラッグリザードだぞ。体長3メートルを超える岩喰い蜥蜴だ。お前みたいな細身のガキが、一人で首を突っ込んでいい相手じゃねえ」
「読めるから剥がした」
俺は紙片を折りたたみ、懐へねじ込んだ。
「邪魔だ。急いでいる」
「待てよ、親切で言ってやってるんだ。あいつらの甲殻は鉄より硬い。お前の腰のその安物の直剣じゃ、傷一つ付かずにへし折られるのがオチだ。命を捨てる気か」
周囲の冒険者たちからも、嘲笑混じりの視線が突き刺さる。
小綺麗な身なりでもなく、高価なオーブの光も纏っていない。片腕を外套に隠した16歳の若造が一人。彼らの目には、身の程知らずの自殺志願者にしか見えないのだろう。
どこへ行っても、同じだ。
人は肩書きと見た目でしか測らない。
「親切の押し売りは結構だ」
俺は男の胸当てを冷たく見据えた。
「足止めを食らって暇なら、そこで震えて待ってろ。せいぜい一時間もすれば道は開く」
「な、なんだと?」
男が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げかけたが、俺は相手にせず踵を返した。
背中に浴びせられる罵声を無視して、埃っぽい坂道を登り始める。
山道に入ると、風が一気に冷たくなった。
切り立った崖に挟まれた街道は、瓦礫と崩れた岩で荒れ果てている。
進むにつれて、鼻を突く獣の脂臭さと、乾いた土の匂いが濃くなってきた。
数百メートルほど進んだ岩壁の曲がり角。
横転して破壊された荷馬車の残骸が、道を完全に塞いでいた。
その周囲に、赤黒い巨体がうごめいている。
クラッグリザード。
全身を岩石のような角質層で覆われた、四足歩行の蜥蜴型魔物だ。
背中には無数の突起が並び、太い尾が地面を叩くたびに、硬い石が粉々に砕け散る。
全部で五匹。
荷馬車から散乱した干し肉や穀物の樽を、貪り食っていた。
「なるほど。いい硬さをしてやがる」
俺は小さく息を吐き、腰の直剣を静かに引き抜いた。
足音に気づいた先頭の一匹が、ぎょろりとした黄色い瞳をこちらに向けた。
喉の奥から地響きのような唸り声を上げ、巨体を揺らして突進してくる。
3メートルを超える岩の塊が、砂煙を巻き上げて迫る。
逃げ場のない狭い峠道。
並の剣士なら、圧殺される恐怖で足が動かなくなるところだ。
俺は一歩だけ前に出た。
直剣に魔力を通し、素早い踏み込みから「斬撃」を一閃する。
キィィン、と甲高い金属音が谷間に響き渡った。
刃はリザードの眉間を捉えたが、火花を散らして弾かれた。
骨に届くどころか、外殻の表面に白い筋をつけただけだ。
手首に伝わる鈍い痺れ。普通の剣撃が通じないというのは、どうやら本当だったらしい。
「硬いだけで、図体ばかりデカいな」
俺は跳躍し、振り下ろされた巨大な前脚を紙一重でかわした。
岩の爪が地面を抉り、石飛沫が舞う。
一匹を皮切りに、残る四匹も食事をやめ、一斉に獲物へと殺到してきた。
狭い街道で五匹の重量級に囲まれる。通常の戦法では、即座に押し潰されて肉塊になる盤面だ。
だが、俺には教科書通りの戦い方など必要ない。
「崩れろ」
俺は着地と同時に、左手を岩肌の地面に押し当てた。
土属性の魔力を、地面へ叩き込む力に変える。
洗練された型などない、力任せの一撃だ。
ドォン、と足元から重い地鳴りが爆ぜた。
リザードたちの足元の地面が、内側から鋭く隆起した。
岩盤が破裂するように跳ね上がり、突進の勢いに乗っていた五匹の巨体が、一斉にバランスを失って宙に浮く。
硬質な装甲を持つ魔物ほど、足場を奪われたときの隙は致命的だ。
無防備に晒された、装甲の薄い腹部と首の継ぎ目。
俺は右腕の外套を払い、腕を突き出した。
カシャリ、と冷たい金属音が鳴る。
手首の機構が外れ、五本の指がワイヤーと共に扇状に展開した。
鋼線が空を裂き、横転した先頭の二匹の首へと、鞭のように巻き付く。
「逃がすかよ」
引き絞る腕に、加速と斬撃を付与する。
鋼線が猛烈な速度で収縮し、摩擦熱で火花を散らしながら、分厚い肉と骨をやすやすと断ち割った。
ドサリ、と重い音を立てて二つの巨大な頭部が転がり落ちる。
噴き出した赤黒い血が、岩肌を染めた。
残る三匹が恐怖に瞳を揺らし、後退しようとする。
群れの頭とおぼしき、一際大きな個体が咆哮を上げ、尾を振り回して暴れ始めた。
岩壁を砕くほどの破壊力を持った一撃が、唸りを上げて迫る。
俺は身を沈めて尾の下を滑り込み、ボスの喉元へと肉薄した。
直剣の切っ先を、喉仏の装甲の継ぎ目へピタリと合わせる。
貫通の一撃に、威力増幅の力を重ね合わせた。
「終わりだ」
腕を突き出す。
刃は抵抗もなく喉を突き抜け、頭蓋の奥深くへと吸い込まれた。
ボスの巨体がビクビクと痙攣し、やがてドスンと地響きを立てて崩れ落ちた。
残された二匹は、主の死を見て完全に戦意を喪失していた。
甲高い悲鳴を上げ、街道の崖下を目指して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
追う必要はない。依頼は街道の安全確保だ。
静寂が、峠道に戻ってきた。
谷間を吹き抜ける風が、立ち込める血の匂いを薄めていく。
「ふう。手入れの手間が増えたな」
俺は腕のワイヤーを巻き取り、指先を元の位置へ収めた。
直剣の刃についた脂を布で拭い、鞘に納める。
討伐証明として、倒した三匹の眉間から硬質な突起角をナイフで削り取り、麻袋へと放り込んだ。
荷物をまとめ、街道の坂道を下り始める。
宿場町が見える場所まで戻ると、街道の先で何人かの冒険者が、遠巻きにこちらを覗き込んでいるのが見えた。
先ほど絡んできた大剣の男も、その中にいた。
彼らは信じられないものを見る目で、俺の足元と、背後の血に染まった峠を見比べている。
「おい、まさか、本当に片付けたのか?」
「たった一人で? 5分も経ってないぞ」
男たちの顔から血の気が引いていた。
俺が近づくと、大剣の男は慌てて道を空け、背中を壁に押し付けて身を縮めた。
先ほどの尊大な態度はどこにもない。ただ、規格外の猛獣を見るような怯えだけがそこにあった。
俺は立ち止まることもなく、ギルド出張所の窓口へ歩み寄った。
麻袋から三本の角を取り出し、埃っぽい台板の上に並べる。
「クレイグ峠のクラッグリザード、三匹討伐、残りは敗走した。馬車を通せるぞ」
窓口にいた初老の職員が、角と俺の顔を交互に見つめ、顎を落としそうになっていた。
「こ、これは確かにクラッグリザードの角。あ、あなた、お一人で?」
「早くしろ。報酬をくれ」
「は、はい! ただちに!」
震える手で差し出された金貨25枚を、俺は無造作に懐へ収めた。
振り返り、硬直している冒険者や商人たちを一瞥する。
「道は開いた。通るなら今のうちだぞ」
それだけ言い残し、俺は再び峠へ向けて歩き出した。
背後で商人たちが歓声を上げ、馬車を動かす慌ただしい喧騒が始まったが、振り返る気は欠片もなかった。
峠の頂上に立つと、北の視界が一気に開けた。
どこまでも広がる荒涼とした大地。
その遥か先、薄暗い雲の切れ間の下に、灰色の輪郭を持った街がかすんで見えた。
アッシュフォード。
かつて全てを奪われ、右腕を失い、泥を舐めさせられた故郷。
俺の心臓の奥で、冷たい熱が静かに脈動を始めていた。




