第003話:割に合わない善意
冒険者ギルドの重い木扉を押すと、酒と煙草、それに乾いた鉄の匂いが漂ってきた。
昼下がりのハーロウ支部。薄暗いフロアには、依頼の品定めをする冒険者たちがたむろしている。
俺は誰とも視線を合わせず、受付カウンターへ歩み寄った。
肩に担いでいた麻袋を、無造作に受付の台板の上に落とす。
ドスン、と鈍く重い音が響いた。
「討伐依頼の検収だ。リンドヴルムの角。折れも欠けもない」
麻袋の口を開け、黒灰色のねじくれた角を晒す。
受付の若い女性職員が、書類から顔を上げ、そのまま固まった。
「え、あ、リンドヴルム? あの、開放依頼の?」
職員の喉が引きつるように鳴る。
隣の席にいたベテランの職員も手を止め、まじまじと角を見つめていた。
周囲のざわめきが、潮が引くように止まっていく。
遠巻きに酒を飲んでいた男たちが、信じられないものを見る顔でこちらを凝視していた。
「おい、冗談だろ。あいつ一人で持ち帰ったのか」
「エリート学園の討伐隊が総崩れになったやつだぞ」
「誰だあいつ。見たことない顔だが」
小声の囁き合いが背中に刺さる。
誇示する趣味はない。俺は首から下げていた鉄のプレートを外し、台板に滑らせた。
「報酬の受け取りを頼む。宿代を払わなきゃならん」
職員がおずおずとプレートを手に取り、そこに刻まれた文字を確認した。
「グ、グレイ様。Aランク、単独」
カウンターの向こうで、職員が息を呑む。
フロアの空気がさらに一段、凍りついたように静まり返った。
「Aランク? あの若さで?」
「嘘だろ、まだ16かそこらだぞ」
誰かが呷っていた酒を噴き出す音がした。
勝手にざわつく連中を無視し、俺は指先でトントンと台板を叩いた。
「早くしてくれ。血の匂いを落としたい」
「は、はい。すぐに手配いたします。エインズワース子爵家からの特別報奨も含め、金貨40枚になります」
ずしりと重い革袋が差し出される。
俺は中身を数えもせず、懐にねじ込んだ。
「ご苦労」
踵を返した瞬間、背後から小走りの足音が近づいてきた。
「待って、グレイさん」
きっぱりとした、だがどこか焦りの混じった声。
振り向くと、汚れを落とした学園の制服を着た少女、ヴェラ・ソーンが立っていた。
額に包帯を巻き、腕を吊っている。
後衛の水魔法使い。前衛に見捨てられ、あの谷底でへたり込んでいた男爵令嬢だ。
荒くれ者がたむろするギルドの空気に気後れすることもなく、彼女はまっすぐに俺を見上げていた。
「あのときは、本当にありがとうございました。お礼を言いたくて、ずっと探していたんです」
深々と頭を下げる。
周囲の冒険者たちが、また奇異の目を向けてくるのが分かった。
「礼ならいらん。エインズワースの跡取りに言え。俺は依頼料のためにあの魔物を仕留めただけだ。あんたを拾ったのはただの偶然だ」
「それでも、命を救われたのは事実です。私、ソーン男爵家のヴェラと申します。何か私にできるお礼をさせてください」
俺はため息をついた。
「金貨の足しにもならない礼など、何の価値もない。関わるな」
「あ、待ってください」
呼び止める声を無視し、俺はギルドを後にした。
恩の押し売りも、感謝の安売りも、路地裏では何の役にも立たない。そんなものは、あの夜に捨ててきた。
だが、この令嬢は想像以上に執念深い性格をしていた。
翌朝。
安宿の薄暗い食堂で、硬い黒パンを麦汁で流し込んでいると、目の前の椅子が引かれた。
「おはようございます、グレイさん」
平然とした顔でヴェラが座っていた。
手には、分厚い革表紙の書物を抱えている。
「何の真似だ」
「これ、ハーロウ魔法学園の書庫から借りてきた近隣の魔物生態録です。男爵家の推薦状がないと入れない特別閲覧室のものなの」
机の上にコトリと本を置く。
「リンドヴルムの討伐報告書を読ませてもらいました。あなたの戦い方、とても独特で。この本には、まだギルドにも出回っていない希少種の生息域が載っています。冒険者の方なら、役立つと思って」
「いらん。自分で調べたものしか信用しない」
「でも」
「タダより高いものはないんだよ。善意で貸しを作ろうとする奴が、一番信用ならん」
俺は残りのパンを口に放り込み、席を立った。
その足で、俺は残った依頼をひとつ片付けに向かった。
荒れ地に出没するホーンラビットの間引き。何年も掲示板に貼られたままの、割の合わない安値の依頼だ。
跳びかかってきた一匹に、素手のまま斬撃を放つ。
6年前、同じ動作で自分の右腕を斬り落とした魔物と同じ種だ。今は加減も忘れるくらい、造作もない。
絶命した個体の耳を証拠に切り取り、麻袋に放り込む。血の匂いに、残りの群れが散っていった。
その次の日も同じだった。
路地裏の鍛冶屋で直剣の刃研ぎを待っていると、息を切らせたヴェラが現れた。
「グレイさん。学園の提携している薬草園から、上級の回復薬を分けてもらってきました。傷の治りが通常の3倍は早いものです。私、男爵家のツケで買えるので」
「断る。傷の痛みくらい自分で管理できる」
「どうしてそこまで頑ななんですか。私はただ、命の恩人に恩返しがしたいだけなのに」
「恩返し、ね」
誰かの好意が、まっすぐ自分に繋がった試しがない。
繋がるはずのないものを無理やり繋いで生き延びてきた身には、人の厚意の方がよほど扱いに困る。
俺は研ぎ上がった直剣を受け取り、鞘に収めながら鼻を鳴らした。
「あんたのその熱意は、恩返しじゃない。借りを作ったまま平気でいられない、貴族のちっぽけなプライドだ。俺に借りを返して、すっきりした顔で学園に戻りたいだけだろ」
ヴェラが言葉を失い、喉を詰まらせた。
図星だったらしい。唇を噛みしめ、悔しそうに拳を握りしめている。
「図星なら、さっさと学園へ帰って魔法の稽古でもしてろ。男爵令嬢さん」
突き放すように背を向けた。
これで諦めるだろう。
だが、その三日後。
夕暮れのギルドの掲示板の前で、依頼書を選んでいた俺の隣に、またしても彼女が並んだ。
「まだ懲りないのか」
「諦めません。借りを返したいのは事実ですが、それだけじゃありません」
ヴェラは前を向いたまま、静かに口を開いた。
「私、あのとき悔しかったんです。学園の先輩たちは、自分たちの保身のために私を盾にして逃げました。正規のオーブを揃えて、エリートだと威張っていた人たちが、手も足も出ずに逃げ出した」
彼女の視線が、掲示板の依頼書をまっすぐに見つめている。
「なのに、あなたは一人で倒してしまった。学園の教えとはまったく違う、泥臭くて、滅茶苦茶で、でも圧倒的な力で。私、知りたいんです。あなたの強さがどこから来ているのか」
「ただ生き延びるために泥を舐めてきただけだ。学園のお嬢様には関係のない話だな」
「そういえば、ギルドの掲示板に張り出された討伐記録を見たんです。あなたの登録票、出身地がアッシュフォードになっていましたね」
空気が、わずかに冷えた。
「それがどうした」
「アッシュフォードって、ここから北にある街ですよね。あまりいい噂を聞きません。領主のコルヴィン伯爵が横暴で、税をやたらと重くして、街全体が酷く荒れているとか」
夕日がギルドの窓から差し込み、床を赤黒く染めている。
アッシュフォード。コルヴィン伯爵。
6年前に置き去りにしてきた、呪わしい街の名前。
俺の心臓の奥で、冷え切っていた鉛の塊が、微かに重さを増した。
「あのクソッタレな街か」
俺は吐き捨てるように呟いた。
感情を交えず、ただ事実だけを切り捨てるような、平坦で冷酷な声。
ヴェラが息を呑み、息を詰まらせて俺の横顔を見つめた。
何か触れてはいけないものに触れてしまったように、言葉を失っている。
俺は掲示板から依頼書を剥がすのをやめ、懐の金貨袋を指先で弾いた。
「用がないなら消えろ。それ以上首を突っ込むなら、次は魔物の前に置き去りにするぞ」
立ち去る俺の背中に、彼女はもう追ってこなかった。
夕暮れの街へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
アッシュフォード。
シスターを殺され、ノラを奪われ、右腕を失った俺を嘲笑った故郷。
胸の奥に沈んだ鉛の塊は、まだそこにあった。
俺は拳を握り込み、宿への道を歩き出した。




