第002話:灰色の始まり
昔の俺は、救いようのない大馬鹿者だった。
誰よりも熱血で、自分は特別な英雄になれると本気で信じ込んでいた。
6年前。10歳を迎えたその日までは。
アルビオン王国、アッシュフォード。
街の中央にそびえる教会の礼拝堂に、その年に10歳を迎えた子どもたちが集められていた。
10歳を迎えた者だけが受ける、年に一度の適性判定だ。
教会の石板に手を触れ、己に眠る固有スキルと、最初の適性オーブを告げられる儀式。
豪商の子や、小奇麗な服を着た貴族の子弟たちが、誇らしげに列を作っていた。
その中には、遠方のハーロウから、父親の商談に連れられて立ち寄っていた少年、ウィル・エインズワースの姿もあった。
剣術の適性を告げられたウィルは、偉ぶることもなく、聖職者に一礼して静かに列を外れていた。
育ちの良さが滲み出ている。あいつは昔から、そういう手合いだった。
だが、俺の番が回ってきたとき、礼拝堂の空気がわずかに淀んだ。
孤児院の継ぎ接ぎだらけの服を着た俺が、石板の前に立ったからだ。
石板に触れた掌の下で、鈍い光が明滅する。
読み上げを担当する聖職者が、刻まれた文字に目を落とし、不審そうに眉を寄せた。
「固有スキル、無縁」
静寂が礼拝堂を包む。
誰も聞いたことのない単語だったからだ。
「アクティブスキル、斬撃。以上だ」
剣術の適性もなければ、魔術の才もない。
支給される基礎オーブの適性すら記されていない、ただの空白。
沈黙を破ったのは、甲高い笑い声だった。
アッシュフォードを治めるコルヴィン伯爵家の跡取り、オズワルドだ。
「無縁。孤児院育ちが無縁って、似合いすぎるだろ」
オズワルドが肩を揺らすと、その取り巻きたちがどっと沸いた。
「縁がない奴が無縁だってよ」
「親もいなけりゃ、学園に通う金もないもんな」
「剣術のオーブも買えないくせに、斬撃なんか持ってどうすんだよ」
嘲笑が四方から降り注ぐ。
当時の俺は、ロアンという名だった。
赤褐色の髪を逆立て、奥歯を噛みしめ、拳が白くなるほど強く握りしめていた。
今に見返してやると、本気で思っていた。
「笑っていられるのも今のうちだ」
そんな青臭い台詞を吐き捨てて、教会を飛び出したのを覚えている。
痛々しくて、今思い出すだけでも反吐が出る。
貧民街の外れにあるボロ長屋。それが俺たちの孤児院だった。
身寄りのない子どもを預かる年老いたシスター・マーサと、6歳になる血の繋がらない妹分のノラ。
孤児院の暮らしは、ずっと前から限界だった。
本来なら領主であるコルヴィン伯爵家から補助金が出るはずだった。だが、没落しかけた名門の体面を繕うため、その大半は伯爵の懐へ消えていた。
食卓には、薄い塩スープと硬い黒パンが一つ。
シスター・マーサは俺の頭を撫で、判定の無事を喜んでくれた。
「ロアン、どんな力でもいいのですよ。あなたが無事に育ってくれただけで」
「お兄ちゃん、かっこいい。きっと強い冒険者になれるよ」
ノラが細い腕を伸ばし、俺の服の裾を握りしめて笑った。
胸の奥が熱くなった。俺が稼いで、この二人を絶対に楽にさせてやると誓った。
10歳になれば、冒険者ギルドへの登録ができる。
学園に通う金はない。剣術を身につけるためのオーブも買えない。
だが、俺には斬撃がある。それだけで十分戦えるはずだと、本気で思い込んでいた。
武器を買う金すらないまま、俺はギルドでネズミ退治の依頼を受け、郊外の荒れ地へと向かった。
最初の獲物は、野犬ほどの大きさのホーンラビットだった。
俺は素手を突き出し、体内の魔力をありったけ込めて、斬撃を発動した。
大気が裂ける音がした。
次の瞬間、斬られたのは俺自身の腕だった。
刃を持たない拳から放たれた斬撃が、まっすぐに己の右腕を捉えた。
剣術という受け皿のない力を、骨と皮膚だけで受け止められるはずがない。
鋭い感触とともに、肘から先が、そのまま地面に落ちた。
「ぎゃああああっ」
喉が張り裂けるほどの悲鳴が出た。激痛で視界が真っ白に染まる。
ホーンラビットは返り血を浴びて逃げ去り、俺は荒れ地の泥の上に倒れ伏した。
そこで意識は途切れた。
後から聞いた話では、通りすがりの冒険者が俺を見つけてくれたらしい。
血溜まりの中に転がるガキを哀れに思ったのか、止血をしてギルドまで担ぎ込んでくれたのだという。そこから先は、俺の登録証を見たギルドの人間が、孤児院まで送り届けてくれたらしい。
「馬鹿げた無茶をするからだ」
今ならそう鼻で笑える。だが、本当の地獄はその夜に待っていた。
目を覚ましたとき、俺は高熱にうなされながら板の間に転がっていた。
肘から先に血まみれの包帯を巻かれ、シスター・マーサが枕元に付き添い、ノラが震える手で濡れタオルを絞っていた。
深夜、薄汚れた板戸が蹴破られた。
土足で踏み込んできたのは、抜き身の刃を手にした三人の男だった。
物色する素振りも見せず、抜き身の刃をまっすぐにこちらへ向けている。
「ここで間違いねえ。孤児院ごと、後腐れなく片付けろとのご命令だ」
「証人は一人も残すなよ」
男の一人が、怯えて泣き叫ぶノラに気づき、下卑た笑みを浮かべた。
「おい、待てよ。このガキ、器量がいいぞ。殺すよりどこかの商人に売った方が儲かる」
盗賊の手が、ノラの襟首を掴み上げた。
「やめなさい。その子に手を出さないで」
シスター・マーサがとっさに割って入った。
盗賊の刃が、無造作に振り下ろされた。
鈍い肉の裂ける音。
シスターの身体が、音もなく血溜まりの上に倒れ伏した。
「ああああああっ」
俺は叫び、床を這った。
残った左手で床板を掻きむしり、盗賊の足首へ手を伸ばす。
だが、右腕はない。身体には熱が回り、力が入らない。
伸ばした左手を、盗賊の汚れたブーツが容赦なく踏み砕いた。
「おいおい、片腕のガキが這いつくばってら。邪魔だ、失せろ」
「お兄ちゃん。お兄ちゃん、助けて」
ノラの泣き声が、蹴破られた扉の向こうへと遠ざかっていく。
冷たい夜風が吹き込み、シスターの流した血が冷えて固まっていく匂いだけが残った。
何も守れなかった。
熱血も、誓いも、英雄気取りの覚悟も、すべて泥水の中に散った。
教会もギルドも当てにならなかった。街の兵士でさえ、孤児院の惨劇になど目もくれなかった。
俺は包帯を巻いた右腕を抱え、亡霊のようにスラムの路地裏へと流れ着いた。
冷たい雨が降っていた。
泥水の中に膝をつき、壁に背中を預けてうずくまる。
通りがかったチンピラたちが、薄汚れた俺の頭を踏みつけるようにして笑い飛ばした。
「おい、見ろよ。辛気臭いツラして転がってやがる」
「灰色みたいな顔しやがって。目障りだ、さっさと野垂れ死ね」
嘲笑の声が雨音に混ざる。
教会の礼拝堂で浴びたものと、まったく同じ笑い声だった。
その瞬間、俺の胸の奥でくすぶっていた最後の熱が、音を立てて冷え切った。
悔しさは湧かなかった。涙も出なかった。
ただ、乾いた確信だけが腹の底に沈殿した。
世界は、持たざる者を容赦なく踏み潰す。
正義も情けも存在しない。あるのは力と、それを手にするための金だけだ。
「灰色、か」
雨水をすすりながら、俺は低く呟いた。
「いい名前だ」
ロアンという青臭いガキは、あの夜に死んだ。
泥を舐めて生き延び、奪われた妹を取り戻す。
そして、俺を見捨てて嘲笑った奴ら全員に、きっちり借りを返してやる。
その日から、俺は自分の名を捨てた。
侮辱の言葉をそのまま引き取り、グレイと名乗ることに決めた。
どんな手を使ってでも生き延びる。
片腕だろうと、使い方の分からないハズレスキルだろうと、泥を舐めて這い上がってやる。
俺は冷たい壁に額を押し当て、暗闇の中で静かに牙を研ぎ始めた。




