第001話:噛み合わない手札
どれだけ金貨を積まれようと、死ねば一文の得にもならない。
それは路地裏の乞食でも知っている理屈だ。
だが、金持ちの通う学園とやらは、そこまで頭の回る人間を育ててくれないらしい。
涸れ谷の出口から、揃いの銀刺繍を施したマントを泥だらけにして、少年たちが転がるように這い出してくる。
ハーロウ魔法学園の選抜討伐隊だ。
前衛の剣士が後衛の肩を突き飛ばす。我先にと、安全圏へ逃げ散っていくところだった。
誰も後ろを振り返る余裕はない。
青ざめた顔を引きつらせている。喉の奥から、泡を吹くようなかすれ声が漏れていた。
落とした盾が足元で甲高い音を立てたが、拾い直す気配すらなかった。
「金のかかった鎧だけは立派だな」
俺はその無様な背中を冷ややかに見送り、腰の直剣の柄に手をかけた。
谷底の空気が淀んでいる。湿った生臭さと、焦げた脂の匂い。
ハーロウ近郊に居座り続ける蛇竜、リンドヴルムの縄張りだ。
崩れた岩壁の窪みに、一人の少女がへたり込んでいた。
土埃で汚れた学園の制服。胸元には男爵家の小さな家紋が縫い付けられている。
手にした短い木の杖は、中ほどから裂けていた。足がもつれ、立ち上がれずにいる。
前衛に見捨てられた後衛の水魔法使いだ。取り残された彼女の十歩先で、灰色の巨体がぎちぎちと鱗を擦り合わせていた。
翼を持たない大蛇のような体躯だ。太い前肢で砂利を踏みしだき、首をもたげる。
全身を覆う鱗甲殻が、鈍い光を帯びていた。
リンドヴルムのマルチシールドだ。
逃げ出した連中が繰り出した初撃の魔術や刃を浴び、その性質をすでに学習し終えている。
少し離れた岩棚の陰には、青い上着をまとった少年が立ち尽くしていた。
領主エインズワース子爵家の跡取り、ウィルだ。
依頼主の代理だ。最初からこの危険な討伐を見届けるために、現場へ入っていたらしい。
腰の護身剣に手をかけたまま、動けずにいる。見捨てて逃げない分だけ、学園の連中よりはいくらか根性がある。
巨獣の前肢が砂利を踏みしだき、少女へ向けて顎を開いた。
少女の喉がひくりと鳴り、折れた杖を握る爪が白く浮き上がる。
「おい、そこ退いてろ。邪魔だ」
頭上の岩棚から声を投げる。俺は音もなく、砂利の上へ滑り降りた。
着地の衝撃を膝で殺す。少女の正面に立った。
振り向いた少女が、かすれた声を絞り出した。
「な、に、あなた、冒険者。だめ、逃げて。あいつには、何も通じない。二度目はもう効かない」
「知ってるよ。だから高値がついてんだろ」
俺は鞘から直剣を抜き放った。幅広で、手入れの行き届いた一振り。
刃渡りは80センチほど。装飾のない、ただの鉄の棒に近い実用品だ。
リンドヴルムの黄色い眼球が、こちらを捉える。
新手の獲物を値踏みしている。どの部位から叩き潰すか、測っている動きだ。
一度受けた攻撃の軌道、間合い、速度を即座に記憶し、二度目の手を無効化してくる。
だが、裏を返せば初見の手なら通る。
俺は地を蹴った。
真っ向からの踏み込み。
教科書通りに腰を落とす。右半身から、直剣を振り抜いた。鋭い斬撃。
甲高い金属音が谷間に響く。巨獣の前肢の鱗甲殻に、火花が散った。
刃が鱗を断ち割る。黒ずんだ体液が滲んだ。
手応えはある。
だがリンドヴルムは怯みもせず、即座に重心を沈めた。
すぐに繰り出されるはずの追撃。
教科書通りの連撃の軌道を、すでに読んでいる。
俺は二撃目の刃を振るった。魔物が前肢の鱗をわずかに傾け、刃の腹を受け流す。
ガキン、と鈍い衝撃が柄を通して手首に返った。
「噂に違わず、いい性格をしてやがる」
「嘘、やっぱり通じない」
背後で少女が息を呑む。
手応えが消えた、その瞬間。分厚い尾が横合いから、風を孕んで薙ぎ払われてくる。
岩を粉砕する速度だ。
俺は剣を引き戻さず、左足の爪先で地面の角礫を蹴りつけた。
頭の中で、繋がらないはずの回路を強引にねじ切るように噛み合わせる。
斬撃の動作に、装甲を貫く貫通付与。さらに間合いを狂わせる加速。
本来、異なる系統のオーブ同士は干渉し合い、魔力を暴走させて霧散する。
だが俺の内側にある無縁という穴は、その理屈を最初から無視する。
流れるはずのない魔力が右腕を通って刀身へと雪崩れ込み、灰色の鉄刃が白銀の光を帯びた。
横薙ぎの軌道から、踏み込みの角度を鋭角に変える。
尾が頭上を薙ぎ払った、その刹那。加速された切っ先が、流されたはずの前肢の根本へ突き刺さる。
装甲の合わせ目の深部を貫いた。
肉を断ち切る重い感触とともに、リンドヴルムが耳障りな絶叫をあげた。
斬撃が通じないなら、突き刺さる瞬間に、貫通の一撃へ変えてしまえばいい。
急激な変化に対応しきれない。リンドヴルムの額の鱗が激しく波打ち、鈍い光が濁っていく。
「斬ったのに、刺さってる」
背後の少女が呆然と呟く。
魔物が痛みに狂う。口から酸の飛沫を撒き散らしながら、後退した。
距離を取って、体勢を立て直す気だ。
「律儀に付き合ってやる義理もないが、依頼料の分は働くとするか」
不用意に間合いを詰めれば、今の一撃すらも適応の餌になる。
俺は剣を引くと同時に、空いた左手を突き出した。
水と風。本来、単一の魂力枠では同時に引き出せない二つの属性。
引き裂かれた回路が結びつく。掌の前で、微小な氷の結晶が鳴動した。
氷の派生属性に、射出と貫通を上乗せする。
鋭利な破裂音が、大気を裂いた。
指先から、数条の氷針が放たれる。白い尾を引いて、一直線に飛んだ。
魔物が前肢で防ごうとする。だが氷針は爪の隙間をすり抜け、黄色い右目を正確に撃ち抜いた。
谷を震わせる絶叫が轟く。
「複合、属性なの。水と風を、同時に」
少女の声が、かすれて震えていた。
学園で水魔法を専攻しているらしい彼女だ。だからこそ、その異常さが骨身にしみるのだろう。
二つの属性オーブを同時に運用する魂力コスト。そんなもの、人間に支払えるはずがない。
厄介な反動が、俺の体内でも熱を持ち始める。
脈拍が跳ね上がった。肺の底が、焼けるように熱い。
「安くはない代償だ」
無縁の代償。魔力の消費が通常の倍率で跳ね上がっている。
長引かせる手札はない。
右目を潰された巨獣が、狂乱のままに突進してきた。地を割るほどの勢いだ。
質量そのものをぶつけてくる、なりふり構わない突進。
俺は正面から迎え撃つ位置へ踏み出した。
剣を左手に持ち替え、右の拳を握り込む。
握り込んだ瞬間、指の関節から硬い音が鳴った。
打撃の芯に、威力増幅と暴走の負荷を強引に押し込んだ。
耳をつんざくような轟音が谷底に響く。
魔物の分厚い頭頂部と、俺の打ち込んだ拳が衝突した。
装甲に亀裂が走る。足元の砂利が、放射状に吹き飛んだ。
だが、頭骨は砕けない。
衝突の瞬間、鱗の内側の筋繊維が硬化する。衝撃を力任せに、押し戻してきた。
腕に強烈な痺れが走る。喉の奥に、血の味が広がった。
もう打撃の硬さまで学習し始めている。
俺は息を詰めた。リンドヴルムの顎が、大きく裂ける。
牙の並んだ口の中が、頭上から迫った。
距離は零。避ける間合いはない。
「逃げて」
少女の叫び声が響いた。
逃げる気などない。
「だったら、こっちも遠慮はいらない」
俺は直剣を手放した。
落ちていく刃は追わない。右の掌を、迫り来る魔物の口の奥へ突き出した。
亀裂の入った顎の付け根。
風と火。二つの相反する熱量が、無縁の暗がりの中で火花を散らして融合する。
雷の属性。それを自らの肉体に直に被せる付与。
手首の内側で、乾いた金属の噛み合い音が鳴った。
人体の構造を無視して、右の手首から先が鋭く伸びる。
骨と関節の限界を超えていた。突き出た五本の指先が、細い金属ワイヤーの節を露出しながら扇状に開く。
魔物の眼球が、異形の手を捉えて痙攣する。ありえない間合いから、喉笛に喰い込んできた手だ。
展開した指先が、柔らかい喉の肉を鷲掴みにした。
「終わりだ」
紫電の奔流が、零距離から魔物の体内へと解き放たれた。
閃光が大気を焦がした。
巨体の内側から、骨格が白く浮き上がる。口と耳の穴から、黒煙が噴き出した。
脳を焼き切られた巨獣が、断末魔の声すら上げられない。全身の力を失っていく。
地響きを立てて、灰色の巨体が砂利の上に崩れ落ちた。
焦げた肉と紫電の残り香が、冷たい風に流されていく。
静寂が戻った。
俺は右腕に力を込め、喉笛に食い込ませていた指先を引き抜いた。
シュルシュルと細い金属音が鳴り、伸びていた手首が元の位置へと収まる。
展開していたワイヤーの指関節が、元の形に折り畳まれる。黒革の手袋が、腕の輪郭を覆い直した。
肩を回して骨を鳴らす。足元に落ちていた直剣を、拾い上げた。
刃についた脂を革鎧の裾で手早く拭い、鞘へと収めた。
背後では、少女が両手を地面についたまま固まっていた。
折れた木の杖を取り落とし、白くなった唇を小刻みに震わせている。
倒れ伏した魔物の死骸と、俺の右腕のあたりを交互に見つめている。声にならない息を、漏らすばかりだ。
「立てるか。怪我人の肩を貸す趣味はないが、放置して別の魔物に食われても寝覚めが悪い」
「あ、なた、今の、手。それに、魔法の、属性が」
「質問に答える義務はない。依頼書にあったのは魔物の首だけだ」
俺が冷たく切り捨てると、岩棚の陰から、硬い足音が近づいてきた。
「無事か、ソーン嬢」
駆け寄ってきたのは、青い上着をまとった少年だった。ウィル・エインズワースだ。
腰の護身剣に手を添えたまま、肩で息をしている。
ウィルは、転がっているリンドヴルムの死骸と生き残った少女を見た。浅く息を吐く。
だが、その視線が俺の姿を捉えた瞬間、眉根が険しく寄った。
「君が、単独でこの個体を仕留めたのか。学園の討伐隊が総崩れになった相手を」
「見りゃ分かるだろ。角を落として持って帰るから、金貨袋の紐を緩めとけ」
「待ってくれ。今、遠くから見ていたが、君の使った技の繋がり、属性の同時運用、そんなことができるはずがない」
ウィルは眉間を指先で押さえた。言葉を失ったように、喉を詰まらせている。
俺はその顔を無表情に見据え、鼻を鳴らした。
「能書きは屋敷に戻ってからにしろ、エインズワースの坊ちゃん。この死骸の解体を手伝わないなら、血の匂いで次の群れが寄ってくるぞ」
俺は腰の解体ナイフを抜き、魔物の角の根元へ無造作に刃を突き立てた。




