第031話:ふたつの家
ヴァンス侯爵の失脚から二日が過ぎていた。
王立魔導院の不正と子供の囲い込みの実態は、王都へ送られた告発状によって公になり、エスタン王国の政界に激震を走らせていた。
ロシュフォールを包んでいた緊張の糸は完全に解け、街には穏やかな日常が戻っていた。
フォンテーヌ伯爵邸の応接室。
大きな窓から注ぐ柔らかな陽光が、磨き抜かれた円卓を明るく照らし出していた。
上座には、執務服姿のアンリ伯爵が腰掛けている。
その隣には、淡い菫色のドレスを纏ったノラが控え、向かい側には俺とヴェラが並んで座っていた。
「戦後処理の目処がついた。王室からも正式に通達があり、我がフォンテーヌ領への嫌疑は完全に晴れたよ。これも全て、君たち二人のおかげだ」
アンリ伯爵が穏やかな笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
名門貴族の当主が、一介の冒険者に過ぎない俺たちに惜しみない敬意を示している。
「礼には及ばない。俺はただ、自分の用件を片付けただけだ」
俺は淡々と答え、卓上の温かい紅茶に口をつけた。
それから、視線をノラへと向けた。
ノラは行儀よく背筋を伸ばし、わずかに緊張した面持ちで俺を見つめ返してくる。
事件は片付いた。
王政派閥の脅威は去り、この街に危険はもうない。
だからこそ、避けては通れない問いがあった。
「ノラ」
「なに、お兄ちゃん」
「これからのことだ。俺は近いうちに、アルビオン王国へ戻る」
俺の言葉に、室内の空気がわずかに静まった。
隣のヴェラが姿勢を正し、アンリ伯爵の表情が引き締まる。
「お前を連れ戻すために、俺は6年間生きてきた。だが、お前には今の暮らしがある。だから、お前自身に決めてほしい。俺と一緒にアルビオンへ帰るか、それともこの街に残るか」
直球の選択だった。
ノラの小さな肩が、ぴくりと跳ねた。
6年間、片時も忘れずに求め合っていた兄妹だ。
本来なら、迷わず手を取り合って連れ立って帰るのが自然なのかもしれない。
だが、ノラが過ごした6年間は、決して空白ではなかった。
この屋敷で愛され、学び、築き上げてきた時間は、紛れもない本物だったはずだ。
ノラは両手を膝の上でぎゅっと握りしめ、視線を落とした。
薄い唇を真一文字に結び、長い沈黙が部屋を包み込む。
やがて、ノラは顔を上げた。
小さく息を吸い、迷いを振り切ったように、はっきりとした声で告げた。
「私、ずっと考えてたの。お兄ちゃんと再会できたら、一緒にどこへでも行こうって」
ノラは静かに、自分の言葉を紡ぎ始めた。
「でもね。あの日、行き場のない私を拾ってくれたのはお父様だった。泣いてばかりの私を抱きしめて、本当の娘のように名前を呼んでくれた。美味しいご飯をくれて、本を読ませてくれて、光の魔法を教えてくれた」
ノラは横に座るアンリ伯爵へと視線を向けた。
アンリは黙ったまま、温かい眼差しで娘の横顔を見守っている。
「私が危ない目に遭った時、お父様は家名も命も捨てる覚悟で、私の盾になってくれた。街の皆も、不器用な私を令嬢として温かく迎えてくれた。その恩を全部放り出して、はいさようならって出ていくのは、絶対に違うと思うの」
12歳の少女の口から出たとは思えない、筋の通った言葉だった。
「お父様を一人にはできない。私は、フォンテーヌの娘として、この街で立派な術士になって、領民の皆を守りたいの」
きっぱりと言い切った後、ノラは不安そうに俺を見つめた。
声が微かに震え、小さな声で言葉を継ぐ。
「身勝手かな。お兄ちゃんが命がけで助けに来てくれたのに、一緒に帰らないなんて」
「馬鹿を言え」
俺は息を吐き、口元をわずかに緩めた。
「立派な返答だ。他人の善意を踏み躙って自分の都合を押し通すような奴なら、それこそぶん殴って叩き直すところだったぞ」
「お兄ちゃん」
「お前がこの街で大切にされてきたことは、見れば分かる。アンリ伯爵が本物の保護者だってこともな。自分の意思でその場所に立つと決めたなら、俺が文句をつける筋合いはない」
心からの本音だった。
道具として囲い込もうとする亡者たちから救い出し、自分の意志で生きる道を選ばせること。
それこそが、俺が果たしたかった本当の奪還だったのだから。
だが、ノラは首を振って立ち上がった。
円卓を回り、俺の元へと駆け寄ってくる。
そして、俺の膝に両手を置き、真っ直ぐに顔を覗き込んできた。
「勘違いしないでね、お兄ちゃん。私はこの街に残るけど、お兄ちゃんの妹をやめるわけじゃないよ」
「当たり前だろ」
「血が繋がってなくたって、6年離れていたって、お兄ちゃんは世界でたった一人の私のお兄ちゃんだもん。だから、これはお別れじゃないよ。また絶対に会いに来てね。私も、一人前の術士になったら、アルビオンまで会いに行くから!」
力強い宣言だった。
飛び切りの笑顔を向けてくる妹の頭に、俺は生身の左手をぽんと置いた。
「言われなくても、顔くらいは見に来てやるよ」
そのやり取りを見ていたアンリ伯爵が、ハンカチで目元を押さえながら、重々しく立ち上がった。
「ノラ、お前は、本当に誇らしい私の娘だ」
アンリ伯爵はノラの肩を優しく抱いた後、俺の前へと歩み寄ってきた。
その厳格な顔が、父親としての深い慈愛に満ちている。
「グレイ君。君の胸の内、その器の大きさに、心から感謝する。娘を奪い返すこともできたはずの君が、ノラの意志を何よりも尊重してくれた」
「買い被りすぎだ。俺はただ、あいつの邪魔をしたくないだけだ」
「いや、容易にできることではないよ」
アンリ伯爵は首を横に振ると、俺の機械の右腕に視線を落とし、それから俺の顔を正面から見据えた。
「君にとっても、この家は家族の家だ。いつでも帰ってきなさい。君のための部屋は、これから先もずっとこの屋敷に用意しておく。ロシュフォールは、君の第二の故郷だ」
第二の故郷。
人を信じることをやめ、街から街へと渡り歩いてきた流れの冒険者に、帰る場所を用意する。
名門貴族の当主が、平民の、それも異国の元孤児に対してかける言葉ではなかった。
だが、その声には一片の嘘も計算もなかった。
シスター・マーサがかつて見せてくれた、あの無償の温もりと同じ光が宿っていた。
胸の奥底で、頑なに閉ざされていた氷の扉が、音を立てて溶けていくようだった。
「部屋代は払えんぞ」
俺が不器用にそう呟くと、部屋の中に一斉に笑い声が広がった。
ノラが噴き出し、アンリ伯爵が豪快に肩を揺らす。
窓際で見守っていたヴェラも、くすくすと楽しそうに笑っていた。
俺は椅子から立ち上がり、アンリ伯爵に向き直った。
そして、生まれて初めて、貴族に対する儀礼ではなく、一人の人間としての深い敬意を込めて頭を下げた。
「アンリ様。妹を、ノラを、よろしくお願いします」
「ああ。我が命と家名にかけて、大切に育て上げよう」
二人の男の手が、固く握り合わされた。
生身の温かい掌が、俺の冷たい右腕の装甲をしっかりと包み込む。
かつてアッシュフォードの荒れ果てた庭で失われた、温かな家族の輪。
それが今、国境を越えたこのロシュフォールの地で、新しいかたちとなって結び直された。
ふたつの家。
過去を共に生きた孤児院の記憶と、未来を紡いでいくフォンテーヌの家。
そのどちらもが、ノラと俺を繋ぐ確かな絆となっていた。
「約束だよ、お兄ちゃん!」
ノラが俺の腕に抱きついて、悪戯っぽく笑った。
開け放たれた窓から吹き込む風が、初夏の爽やかな陽光を部屋いっぱいに運んでくる。




