第032話:灰色の旅路
ロシュフォールの街に、初夏の爽やかな朝が訪れていた。
東の地平線から昇る陽光が、白亜の外城門を柔らかく照らし出している。
水路の水面は金色の輝きを跳ね返し、街路樹の若葉が朝露を纏って風に揺れていた。
街道へと続く門前広場。
旅荷物を背負い、黒い外套を羽織った俺の隣に、軽やかな旅装束のヴェラが並んで立っていた。
手にした頑丈な白木の杖、仕立て直した青いローブ。
その胸元には、ハーロウ魔法学園から早馬で届いたばかりの、金色の特級認定章が誇らしげに留められていた。
王政派閥による子供の囲い込みの告発、ならびにアルビオン王国特命監査官との連携による事件の全面解決。
学園最下位と蔑まれていた男爵令嬢がもたらした功績は、学園の歴史を塗り替えるほどの快挙だった。
卒業実地任務の評価は最高位の特級。
弱小貴族だったソーン男爵家の名声も、この一件で一気に押し上げられたという。
「準備はいいか、優等生」
俺が声をかけると、ヴェラは悪戯っぽく笑ってみせた。
「ええ、完璧です。学園に戻って正式な卒業式に出席したら、私の学生生活も完全に終わりですね」
城門のアーチから、二つの足音が近づいてきた。
見送りに現れたアンリ伯爵と、その隣に並ぶノラだった。
ノラは動きやすい淡い水色のワンピースを着て、胸元にはフォンテーヌ家の家紋である白薔薇のブローチをつけていた。
12歳の少女らしい可憐さと、領主の娘としての落ち着きが、その立ち姿に自然と溶け込んでいる。
「本当に行ってしまうのだね、グレイ君」
アンリ伯爵が名残惜しそうに眉を下げた。
「領主館の客室はずっと空けてあると言ったのだがな。このまま我が家の客将として迎えても構わなかったのだぞ」
「性に合わねえよ。貴族様の豪勢な飯を食い続けると、身体が鈍って仕方がない」
俺が肩をすくめてみせると、アンリ伯爵は豪快に笑った。
「ふはは、違いない。だが、君がノラを助け、このロシュフォールを救ってくれた事実は永遠に消えん。いつでも顔を見せにきなさい」
アンリ伯爵が差し出してきた重みのある革袋を、俺は片手で軽く押し戻した。
「報酬は依頼料としてすでに受け取っている。余計な手切れ金はいらん」
「手切れ金などではない、父としての気持ちだ」
「なら、そいつはノラの学費にでも上乗せしてやってくれ。優秀な術士に育てるんだろ」
俺の言葉に、アンリ伯爵は一瞬呆気にとられた後、満足そうに頷いて革袋を懐へ戻した。
「分かった。娘のために、有効に使わせてもらおう」
入れ代わりに、ノラが一歩前へ進み出てきた。
弾むような足取りで、俺の顔をじっと見上げてくる。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「昨日は、ありがとう。お父様の家で、お兄ちゃんと一緒にご飯を食べられて、本当に嬉しかった」
昨夜、アンリ伯爵が催してくれたささやかな夕餐。
豪勢な料理を前にしながら、ノラはずっと俺の隣に座り、他愛のない昔話を笑いながら語り合っていた。
「私、もっと強くなるよ。光の魔法も、領地の政もたくさん学んで、いつかお兄ちゃんが困った時に、助けてあげられるくらい立派になるから」
「俺が困るような真似は金輪際ごめんだがな」
ぶっきらぼうに返しながらも、俺は生身の左手を伸ばし、ノラの頭を軽く撫でた。
さらりとした栗色の髪が、手のひらをくすぐる。
「しっかり勉強しろよ。アンリ様に迷惑をかけるな」
「うん! 任せて!」
ノラは満面の笑みで頷いた。
その瞳には、かつて孤児院で怯えていた面影はもうどこにもなかった。
愛され、認められ、自分の足で前を向いて歩む、一人の誇り高い少女の姿だった。
ノラがふと視線を横へ移し、ヴェラを見つめた。
「ヴェラさんは、これからどうするんですか? 学園を卒業したら、王都の宮廷魔導士になるんですか?」
問いかけられたヴェラは、杖の柄に指を添え、澄んだ青空を仰ぎ見た。
「いいえ。宮廷からの推薦枠もいくつか届いているそうですが、全て辞退するつもりです。私は、狭い鳥籠の中で誰かの顔色を窺いながら生きるのに、疲れましたから」
ヴェラは誇らしげに微笑み、俺の横顔をちらりと盗み見た。
「学園を出たら、私も自由に世界を巡る冒険者になろうと思っています。水魔法使いとして、自分の足で大地を歩いて、まだ見ぬ景色をこの目で確かめたいんです。もちろん、腕の立つ専属護衛を雇うつもりですよ?」
「おい」
俺は眉をひそめた。
「俺を当てにするな。言っておくが、Aランク冒険者の専属契約なんて、お前んちの男爵領が傾くくらい高くつくぞ」
「ふふ、構いませんよ。いくらでも請求してください。一生かけて、分割で支払っていきますから」
「一生の借金持ちになる気かよ。割に合わねえ」
俺が舌打ち混じりに呟くと、ヴェラは楽しそうに吹き出した。
その様子をじっと眺めていたノラが、悪戯っぽく口元を緩めた。
そして、両手を口の前に当てて、よく通る声で言った。
「ふふっ、お兄ちゃんをよろしくね、ヴェラ義姉さん!」
「なっ!?」
ヴェラの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
杖を取り落としそうになりながら、両手をぶんぶんと振って取り乱す。
「お、お義姉さんだなんて、ノラ様ったら何を仰っているのですか!? わ、私とグレイさんは、そんな、まだそういう関係では!」
「まだ、ってことは、これからはそうなるんだね?」
「ち、違います! そういう意味ではなくてですね!」
慌てふためくヴェラに、ノラはくすくすと笑い声をあげた。
アンリ伯爵も口髭を震わせながら、豪快に肩を揺すっている。
「ははは、これは頼もしいな。グレイ君、我が娘に義姉ができる日を楽しみに待っているぞ」
「アンリ様までからかわないでください!」
朝の城門前に、陽気な笑い声が響き渡る。
俺は溜息をつき、頭を掻いた。
「おい、行くぞ。これ以上付き合ってたら日が暮れる」
「あ、待ってくださいグレイさん! ちゃんと弁明させてください!」
真っ赤な顔のまま駆け寄ってくるヴェラを連れ、俺は城門の外へと歩き出した。
石畳を通り抜け、緑広がる平原の街道へと足を踏み入れる。
「お兄ちゃん!」
背後から、ひときわ大きく澄んだ声が響いた。
振り返ると、城壁の前で、ノラが両手を大きく振っていた。
隣のアンリ伯爵も、温かい眼差しで右手を掲げている。
「またね、グレイお兄ちゃん! 絶対に、また会おうね!」
風に乗って届いたその声に、俺は立ち止まった。
そして、生身の左腕を、青空へ向けて一度だけ高く突き上げた。
声は出さなかった。
だが、ノラにはそれで十分伝わったはずだった。
街道を二人で歩き始める。
足元に広がる草原を、爽やかな風が吹き抜けていく。
6年前。
判定の場でハズレスキルと嘲笑われ、右腕を失い、シスターを奪われたあの日。
世界の全てを憎み、他人の善意を拒絶し、侮辱の言葉だった「灰色」を自ら名乗った。
復讐と奪還のためだけに、手段を選ばず、手を汚して生き延びてきた。
だが、その旅路の果てに、俺は故郷の腐敗を断罪し、最愛の妹を取り戻した。
妹は自分の足で立派に立ち上がり、新しい家族の元で未来を歩み始めた。
そして俺自身にも、いつでも帰れる新しい故郷と、隣を歩く相棒ができた。
灰色。
その名はもはや、過去の絶望を塗り込めるための呪いではない。
誰にも媚びず、誰にも縛られず、己の意思で生きていくための誇りだった。
「どこへ行きますか、グレイさん」
隣を歩くヴェラが、晴れやかな笑顔で尋ねてきた。
「まずはハーロウだろ。お前の卒業式に間に合わせてやる」
「ふふ、それは頼もしいです。それで、式が終わったら?」
「どこでもいいさ。美味い飯と、腕の鳴る依頼がある場所なら、どこへでもな」
俺が不敵に笑うと、ヴェラは深く頷いた。
「はい、お供します!」
二つの影が、朝陽に照らされた街道を真っ直ぐに伸びていく。
見上げた空には、一片の曇りもなく、ただ眩しいほどの青が広がっていた。




