第029話:派閥の首魁
夜明け前の冷たい風が、ロシュフォールの外城門を吹き抜けていた。
東の空が白み始める中、城壁の外側には、異様な静寂を保った大軍が布陣していた。
白銀と紫の甲冑を纏う王政派閥の正規私兵部隊に、濃紺の法衣を纏った数十名の宮廷魔導士。
その数は百を優に超え、街道を埋め尽くす槍の穂先が冷たく瞬いている。
軍勢の先頭。
白毛の軍馬に跨がり、傲慢な視線を城壁へ向ける銀髪の男がいた。
豪奢な金鎖を首に提げ、手にした宝飾の杖を誇示するように構えている。
レジナルド・ヴァンス侯爵。
宮廷魔導卿にして王立魔導院の総裁、王政派閥の首魁だった。
城壁の上には、重厚な甲冑を纏ったアンリ・フォンテーヌ伯爵が立っていた。
左右に兵を配し、眼下の軍勢を厳しい表情で見下ろしている。
「早朝から物々しい軍勢を引き連れ、何の真似だ、ヴァンス卿」
アンリの低く通る声が平原へと響いた。
馬上のヴァンスは薄笑いを浮かべ、手綱を引いた。
「白々しい問いだな、フォンテーヌ伯。貴公は昨夜、我が特使であるドミニク卿の部隊を襲撃し、全滅させたそうではないか。国家の使節に牙を剥くとは明白な叛逆よ」
「昨夜、我が愛娘の寝室へ夜盗の如く忍び込んだ輩を排除したにすぎん! 盗賊の真似事をしておきながら、どの口で法を語るか!」
アンリの怒声に、ヴァンスは嘲笑を返した。
「法を決めるのは力を持つ者だ。フォンテーヌ伯、猶予は与えん。城門を開け放ち、あの小娘を引き渡せ。大人しく差し出せば一門の命までは取らん」
「断る! 我が娘を、貴様のような亡者の道具に渡すものか! フォンテーヌの名にかけて、この門は一歩たりとも通さん!」
アンリが剣を抜き放ち、城壁の防衛兵が一斉に弓を引き絞った。
だが、ヴァンスは愉悦の笑みを深めただけだった。
「田舎貴族の分際で、宮廷の意向に逆らった報いを受けよ」
ヴァンスが馬から降り立ち、宝飾の杖をゆっくりと掲げた。
杖頭に嵌め込まれた青白い球体が、夜明け前の薄闇の中で神秘的で狂暴な蒼光を放つ。
国に数人しか持つことを許されない宮廷魔導の至宝。
誰の手にあろうと、それひとつで氷という派生属性を発動できる、希少な完成品のオーブだった。
「平れ伏すがいい。これが、貴様ら凡庸な者どもが決して辿り着けぬ、真の魔導の頂だ」
ヴァンスが杖を地面へと突き立てた。
ゴォッ、と耳をつんざく冷気の咆哮が大地を震わせる。
瞬間、門前の広大な石畳が、目にも留まらぬ速度で真っ白に凍りついていった。
絶対零度の冷気が大気中の水分を一瞬で氷結させ、鋭利な結晶となって吹き荒れる。
城壁の足元から外壁まで、瞬く間に分厚い氷の層が覆い尽くしていく。
「なっ!?」
「足が凍りついて動かん!」
警備兵たちが悲鳴を上げた。
足首から膝までを白氷に囚われ、武器を取り落として倒れ込む。
杖を一振りしただけで、フォンテーヌ軍の前衛が完全に無力化されていた。
「化け物め、これが完成品オーブの威力というのか!」
アンリが歯を食いしばり、凍りつく城壁の上で剣を握り直す。
ヴァンスは冷気の煙る氷原を悠然と歩き出した。
「弓を射る手すら凍りついたか。凡百の貴族が何千人集まろうと、我が氷の神域を破る術はない。さて、城門を砕いて小娘を引きずり出すとするか」
「おい」
氷原の奥から、乾いた低い声が響いた。
ヴァンスが足を止めた。
冷気霧を裂いて、黒い外套を棚引かせた青年が進み出てくる。
足元の氷を踏み砕くその背後には、杖を構えたヴェラが従っていた。
「誰だ、貴様は。我が凍結の領域に、生身で踏み入る愚か者がまだいたか」
ヴァンスが薄汚れた冒険者の鉄プレートを見下ろし、侮蔑を露わにする。
「名乗るほどの者でもないがな」
グレイは冷たい視線をヴァンスに向けた。
「6年前に、てめえらの手下に家族を奪われた、ただの孤児だ」
「孤児だと?」
ヴァンスは鼻で笑った。
「くだらん。路傍の虫けらに恨まれる筋合いなどない。我が野望の礎となったことを光栄に思って死ね」
ヴァンスが杖を薙いだ。
空中に氷結の粒子が集束し、鋭利な氷槍が五本、グレイの心臓を狙って一斉に射出された。
音速に近い速度で迫る絶対零度の刺突。
だが、グレイは一歩も引かなかった。
右手の袖口から銀色の機械の腕を突き出し、肘の装甲が開く。
火と水。
無縁。
決して相容れぬ二つの属性が、魂の力によって強引に衝突させられた。
ドォォォンッ!
凄まじい轟音と共に、右腕から超高圧の過熱蒸気が噴射された。
白く吹き荒れる熱気の暴風。
飛来した五本の氷槍は、届く遥か手前で超高熱に耐えきれず融解し、湯気となって霧散した。
「何だと!?」
ヴァンスの表情が凍りついた。
背後の宮廷魔導士たちからも動揺が広がる。
「馬鹿な、我が氷槍を熱気で相殺しただと!? 完成品オーブも持たぬ冒険者が、なぜその場で複合現象を引き起こせる!?」
「金で買った完成品しか知らねえ貴族様には、一生かかっても理解できねえよ」
グレイは冷笑を返した。
「てめえが宮廷でふんぞり返っている間、俺は繋がらねえ回路を無理やり繋ぎ合わせて、泥水を啜りながら生き延びてきたんでな」
「調子に乗るなよ、下賤の虫けらが!」
激昂したヴァンスが杖を掲げた。
青黒い光と共に大気が激しく唸る。
「宮廷魔導の真髄を見せてやる! 氷壁の棺!」
地面が轟音と共に隆起した。
高さ10メートルを超える巨大な氷の防壁が四方からせり上がり、グレイたちを囲い込んでいく。
鋼鉄より硬い氷壁が、冷気で逃げ場を完全に塞いだ。
だが、ヴェラが毅然と杖を掲げた。
「グレイさん、足場を作ります!」
地面へ突き立てた杖から水流が渦を巻き、足元の凍結を一瞬で溶かして流し去る。
「城壁の上を見てください!」
ヴェラの叫びに呼応し、頭上から澄んだ声が響き渡った。
「光よ、散りて道を拓きなさい!」
城壁のノラが両手を広げ、その広大な魂力の器いっぱいに魔力を込めていた。
直後、視界を焼き尽くす光の奔流が降り注いだ。
光魔法の拡散放射。
規格外の魂力の器が放つ圧倒的な魔力の質量が、光の嵐となって氷壁を包み込む。
バチバチと魔力摩擦が鳴り響く。
無数の光の粒子が氷の結界に突き刺さり、循環を乱していく。
分厚い氷壁の表面に、巨大な亀裂が一気に走り抜けた。
「なんだ、あの小娘の魔力量は! まだ12歳の子供のはずだぞ!」
ヴァンスが取り乱した隙を、グレイは見逃さなかった。
「上出来だ、ノラ!」
グレイは地面を蹴り、弾丸のように跳躍した。
右腕の装甲が開き、親指を除く四本の指先から鋼鉄ワイヤーが射出される。
人差し指と中指に、風と火。
薬指と小指に、土と水。
独立した魔力経路。
二つの派生属性ペアを同時に直結する。
右腕の内部で歯車が悲鳴を上げ、全身の魔力が吸い取られる激痛が走った。
消費魔力の跳ね上がりに、奥歯を強く噛み締める。
風と火の直結、紫電。
土と水の直結、泥解。
薬指と小指のワイヤーが亀裂だらけの氷壁へ突き刺さった。
泥解の魔力が浸透した瞬間、鋼鉄より硬いはずの氷壁が、泥土のように崩れ落ちていく。
防壁が消滅した。
無防備になったヴァンスの瞳に、滑空してくるグレイの姿が映る。
「ひっ!?」
人差し指と中指のワイヤーに超高圧の紫電が迸り、白煙を裂いて一閃した。
バキィンッ!
甲高い破裂音が響いた。
ヴァンスの宝飾の杖が両断され、至宝である氷のオーブが粉々に砕け散る。
「ぐ、ああああああっ!」
電撃の余波がヴァンスを直撃した。
豪奢な法衣が焦げて裂け、金鎖が弾け飛び、侯爵が地面へ無様に転がり落ちる。
ドサリと鈍い音が響き、泥まみれのヴァンスが倒れ伏した。
背後の私兵や魔導士たちは言葉を失い、武器を取り落として立ち尽くしていた。
グレイは低く着地した。
右腕から熱い紫煙が立ち昇り、無理な負荷に真鍮の歯車が小さく軋む。
「我が至宝が! 馬鹿な、あり得ん!」
泥まみれのヴァンスが破片を掻き集めようと震える手を伸ばす。
グレイはその手元へ歩み寄り、冷たく見下ろした。
「他人の力を買い漁って威張り散らすだけの奴が、自分の手で掴んだ力に勝てるわけねえだろ」
その時だった。
街道の彼方から、地鳴りのような馬蹄の音が轟いてきた。
朝陽を背に、エスタン王室の白獅子の紋章を掲げた数百騎の騎士団が駆け込んでくる。
「全員、武器を捨てよ! エスタン国王陛下の勅命である!」
先頭の騎士団長が羊皮紙を高く掲げた。
「レジナルド・ヴァンス侯爵! アルビオン王国特命監査官からの告発書、ならびに学園からの緊急報告により、貴殿の私兵動員、子供の不法拉致、および国家反逆の容疑が確定した! 直ちに武装を解除し、裁きを受けよ!」
「な、王室騎士団だと!? なぜ、奴らがこんなところに!」
ヴァンスの顔から血の気が引いた。
ダグラス伯爵の証言と裏帳簿、そしてヴェラが飛ばした告発状が、王室を動かしたのだ。
私兵や宮廷魔導士たちは一斉に武器を捨てて降伏した。
騎士たちがヴァンスを取り囲み、冷酷に鉄の手枷を嵌め込んでいく。
「離せ! 私は宮廷魔導卿だぞ! 王政派閥の長たるこの私に、このような不敬が許されると思うな!」
喚き散らすヴァンスは引きずられて連行されていった。
騎士団長が続けて告げる。
「街に潜伏していた特使ドミニクの身柄も、別動隊がすでに確保している。黒鴉の壊滅を知り、宿舎に立てこもって抵抗したそうだが、無傷で拘束したとのことだ」
王国を牛耳ろうとしていた王政派閥が、完全に崩壊した瞬間だった。
朝の澄んだ光が、外城門を黄金色に染め上げていく。
開かれた城門からアンリ伯爵と兵士たちが駆け寄ってきた。
そして、その背後から。
「お兄ちゃん!」
ドレスの裾を持ち上げ、満面の笑みで駆け寄ってくるノラの姿があった。
グレイは右腕の外套を直し、わずかに目元を緩めて、その温かい光の中へと歩み出した。




