第028話:連れ去りの夜
月が厚い雲に覆われ、夜風が冷たく吹き抜けていた。
深夜のロシュフォール、貴族街の一角。
フォンテーヌ伯爵邸を取り囲む白亜の石壁に、墨を流したような黒い影が幾重にも寄り添っていた。
王政派閥の特殊部隊、黒鴉。
全身を夜戦用の黒装束で包んだ十数名の男たちが、音もなく外壁の巡回兵の背後へ忍び寄る。
首筋に当てられた短針から痺れ毒が注入され、警備の兵士たちが音も立てずに崩れ落ちていく。
部隊長が懐から黒い角柱を取り出した。
軍用の遮断結界具だ。
地面に突き立てられた角柱から、目に見えない魔力の幕が広がり、屋敷全体を音と光の牢獄へと閉じ込める。
「外へ音は漏れん。目標は2階奥、伯爵令嬢の寝室だ。抵抗する者は皆殺しにしろ。標的の小娘は生け捕りにし、魔力封じの拘束具を嵌めろ」
低い囁きと共に、黒い影たちが一斉に屋敷の壁面を駆け上がった。
ドン、と鈍い破裂音が寝室に響いた。
テラスのガラス扉が衝撃波で吹き飛び、無数の破片が絨毯の上に散らばる。
ベッドから跳ね起きたノラは、薄暗い部屋に踏み込んできた男たちの姿に息を呑んだ。
「だ、誰だ!?」
ナイトドレスの袖を握りしめ、後退る。
だが、すでに部屋の出入り口には別の黒装束が回り込み、退路は完全に塞がれていた。
「騒ぐな、神童殿。大人しく王都へ来ていただく」
部隊長が冷笑を浮かべ、鉄の鎖で繋がれた手枷をじゃらりと鳴らした。
触れた者の魔力循環を強制的に遮断する、対術士用の拘束具だ。
「ヴァンス侯爵閣下がお待ちかねだ。お前のその規格外の器、我が軍の魔導兵器として有効に使ってやる」
「お断りします! 私は、フォンテーヌの娘です!」
ノラは気丈に叫び、右手を前へと突き出した。
掌から淡い光の粒子が溢れ出す。
学舎で必死に磨いてきた光魔法の展開。
だが、部隊長は嘲笑いながら、踏み込みざまに手枷を振り下ろした。
未完成の光の球が、鉄の鎖に打たれてあっけなく四散する。
「小娘の小手調べなど通用せん。捕らえろ!」
二人の術士が左右から飛びかかり、ノラの細い腕を掴もうと手を伸ばした。
その瞬間だった。
バキィン、と凄まじい轟音が頭上から炸裂した。
天井が粉々に砕け散り、瓦礫と共に一条の黒い影が真上から滑り落ちてくる。
落下と同時だった。
右側にいた術士の顔面に、硬質な金属の塊がめり込んだ。
鈍い骨折音が響き、術士の巨体が真横の石壁へと叩きつけられる。
壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、男は白目を剥いて崩れ落ちた。
突如として現れた乱入者に、部隊長が息を詰まらせた。
「な、何者だ!?」
立ち込める埃の奥から、黒い外套を翻した人影が音もなく立ち上がった。
深く被ったフードの下から、氷のように冷たい殺気が部屋中を満たしていく。
ノラの目の前に、その男は立っていた。
かつて荒れ果てた庭で、いつも自分の前に立ちはだかってくれた、あの背中と同じように。
「俺の目の前で、二度もその娘に触れるな」
低く、地を這うような声音だった。
「伏兵か! 構わん、肉片に変えろ!」
部隊長の号令と共に、廊下に控えていた三人の魔導士が進み出た。
掲げられた杖の先から、部屋全体を焼き尽くさんばかりの火炎球が一斉に膨れ上がる。
だが、部屋の扉の外から、きっぱりとした少女の声が響き渡った。
「させません!」
突入してきたのはヴェラだった。
手にした杖を床に突き立て、全身の魔力を解放する。
「水膜の防壁!」
室内に膨大な水流が渦を巻き、グレイとノラの前方に分厚い水のカーテンが立ち上がった。
直後、三発の火炎球が水膜へと着弾する。
ジュゥゥゥッ、と凄まじい蒸発音が轟き、部屋全体が真っ白な熱い水蒸気で満たされた。
視界が完全に奪われ、敵の魔導士たちが混乱して足を止める。
「チッ、水魔法か! 何も見えん!」
「探知を急げ、どこへ消えた!」
白煙の奥から、冷たい金属の稼働音がカチリと響いた。
俺は外套の下から、右腕を前へと突き出していた。
肘から先の装甲がカシャリと開き、手首の関節が前方に5センチほど鋭くせり出す。
親指を除く四本の指先。
関節の隙間から、極細の鋼鉄ワイヤーがシャランと音を立てて射出された。
右手の義手には、指ごとに独立した魔力経路が刻まれている。
人差し指と中指に、風のオーブの力を流し込む。
薬指と小指に、火のオーブの力を注ぎ込む。
本来ならば、二つの属性を同時に引き出すことなど構造的にあり得ない。
だが、俺の魂に刻まれた力は、その絶対に繋がらないはずの境界線を強引に縫い合わせる。
無縁。
指先から放たれた風と火の魔力が、射出された鋼鉄ワイヤーの上で激しく衝突した。
白煙の中で、バチバチと弾ける紫色の火花が生まれる。
風と火の融合。
超高圧の紫電が、四本のワイヤー全体を一条の雷光へと染め上げた。
「な、雷だと!? なぜそんな派生属性が使える!」
部隊長が叫んだ時には、すでに手遅れだった。
俺は右腕を一閃させた。
紫電を纏った極細のワイヤーが、白煙を切り裂いて部屋中を縦横無尽に跳弾する。
電光が宙を走るたび、紫の軌跡が闇を鋭く焼き切っていく。
魔導士たちの掲げていた頑丈な木の杖が、バターのように滑らかに両断された。
部隊長が握りしめていた鉄の手枷が、紫電の熱量に耐えきれず、一瞬で真っ赤に溶け落ちて床へ弾け飛ぶ。
「ぎゃあああっ!」
高圧の電流がワイヤーを通じて敵の神経を直撃した。
武器を失い、全身を麻痺させられた黒装束たちが、次々と床に倒れ伏していく。
わずか数秒。
十数名いた襲撃部隊は、一人残らず床の上で痙攣し、沈黙した。
シューッと音を立てて、ワイヤーが手首の内部へと高速で巻き取られていく。
熱を帯びた金属の継ぎ目から、紫色の火花が小さく散った。
熱い蒸気が窓の隙間から夜空へと逃げていき、部屋の中に静寂が戻る。
割れたガラス窓から、雲の切れた月光が青白く差し込んできた。
その光が、俺の頭上を覆っていた黒いフードを露わにする。
激しい動作の余波で、フードが背後へと滑り落ちていた。
月光の下に晒されたのは、赤褐色の短い髪と、夜の底のように暗く鋭い瞳。
そして、外套の袖から剥き出しになった、無機質な銀色に輝く金属の右腕。
ノラは息を止め、その場に縫い止められたように立ち尽くしていた。
その瞳が、足元に転がる鉄の手枷の残骸、部屋を切り裂いた雷光の焼け跡、そして俺の右腕の間を、忙しなく行き来する。
あの日の光景が、俺の中でも一気に蘇った。
炎に包まれた孤児院。
シスターの悲鳴。
教会の判定のあと、素手で斬撃を使って右腕を失い、赤い包帯を巻いていた自分。
熱に浮かされながら、それでも泥を這い、あいつへ手を伸ばした、あの日。
あの時、喉が張り裂けるほど叫んだ「ノラを、返せ!」という声と、たった今口にした「俺の目の前で、二度もその娘に触れるな」という言葉が、頭の中で重なり合う。
「あ」
ノラの喉から、かすれた呼気が漏れた。
大粒の涙が、その大きな瞳から次々と溢れ出し、白い頬を濡らしていく。
「その、腕が」
震える声。
ノラが一歩、おぼつかない足取りで前へ進み出た。
「嘘、そんな」
唇が、何かを堪えるように小さく震えていた。
「ロアン、お兄ちゃん!?」
泣きじゃくるような叫びが、夜の部屋に響き渡った。
6年間。
名前を捨て、灰色を名乗り、憎悪と復讐だけを糧に生き延びてきた。
他人の温もりを拒絶し、孤独の殻に閉じこもっていたはずの胸の奥が、激しく熱を帯びて崩壊していく。
俺は右腕の機械の手を無言で見つめた後、ゆっくりと息を吐き出した。
強張っていた口元が、わずかに緩む。
「遅くなって悪かったな、ノラ」
その一言を聞いた瞬間、ノラは堰を切ったように駆け出した。
床の瓦礫も、散らばる破片も顧みず、一直線に飛び込んでくる。
俺は残された生身の左腕を伸ばし、突っ込んできた小さな体をしっかりと抱きとめた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
胸元に顔を埋め、ノラが子供のように声を上げて泣きじゃくる。
12歳になり、どれほど気品ある令嬢として振る舞っていようと、俺の腕の中にいるのは、あの日泥まみれで手を伸ばしていた妹そのものだった。
背中に回された細い腕の力。
涙で濡れていく外套の重み。
生きていた。本当に、生きていたのだ。
部屋の入口で、杖を握ったヴェラが目元を拭いながら、静かに立っていた。
だが、その安らぎを切り裂くように、床から耳障りな雑音が響いた。
ザザッ、ガガッ。
倒れた部隊長の懐から転がり出た、通信魔導具の水晶が青黒く明滅していた。
そこから、ドミニク特使の狂気じみた怒号がスピーカー越しに響き渡る。
『部隊長、応答しろ! 何、返答がないだと!? 失敗したのか!』
水晶の向こうから、激しい馬蹄の音と軍勢の雄叫びが混ざり合って聞こえてきた。
『ええい、無能共めが! 構わん、手筈を変更する! 領主館ごとロシュフォールの街を焼き払え! ヴァンス侯爵閣下の本隊が、すでに街の外城門へ到達されたぞ!』
通信が乱暴に途絶えた。
部屋の空気が、再び戦慄の色を帯びる。
外城門の彼方から、夜の静寂を破る地鳴りのような進軍の地響きが、かすかに届き始めていた。
俺はノラの頭を左手でそっと撫で、腕の中から静かに解いた。
「ノラ」
「お兄ちゃん?」
「待たせた借りは、きっちり全部返す。てめえらの都合で街を燃やそうとする連中は、一人残らず叩き潰してやる」
右腕の義手を握り締めると、鋼鉄の歯車が力強く噛み合った。
俺の瞳には、かつてない冷たく鋭い復讐の炎が宿っていた。




