第025話:すれ違う影
翌朝、白亜の街ロシュフォールは、柔らかな朝の光に包まれていた。
水路を流れる澄んだせせらぎの音と、涼やかな朝風が吹き抜けていく。
俺とヴェラは、約束の時刻に合わせてフォンテーヌ伯爵邸の正門へと向かった。
ヴェラは紺色の仕立ての良い外套を纏い、ハーロウ魔法学園の青い徽章を胸元に留めている。特命調査員としての正装だ。
一方の俺は、昨日と同じ黒ずくめの旅装のまま、外套のフードを目深に被っていた。
「緊張してきました。一国の伯爵閣下に正式にお会いするなんて、学園の講義でも経験がありません」
並んで歩くヴェラが、胸元の革鞄を両手でぎゅっと抱え直した。
「背筋を伸ばせ。お前はアルビオン王都の特命監査官の代理だ。腰が引けてたら足元を見られるぞ」
「わ、分かってますよ。グレイさんこそ、失礼のないように大人しくしていてくださいね」
「俺はただの雇われ護衛だ。口を開く気はない」
正門の詰所で昨日の木製通行証を提示すると、待機していた執事風の初老の男性が恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました、ソーン調査員。こちらへどうぞ」
案内された敷地内は、外の大通りから見上げる以上に広大だった。
色とりどりの薔薇が咲き誇る見事な庭園を抜け、白大理石の階段を上がって本館の重厚な扉をくぐる。
高い吹き抜けの玄関ホールには豪奢なシャンデリアが輝き、磨き抜かれた床には足音が静かに吸い込まれていく。
壁には歴代当主の肖像画が整然と並び、この家が積み重ねてきた確かな歴史と格式を物語っていた。
アッシュフォードのコルヴィン伯爵邸にあった、借金と見栄が透けて見える安っぽさはどこにもない。
2階の奥、陽光が降り注ぐ広々とした応接室へと通された。
「やあ、遠路はるばるよく来てくれたね。歓迎するよ」
部屋の中央に置かれた革張りのソファから、一人の紳士が穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。
銀髪を後ろで上品に束ねた初老の男性。
仕立ての良い上着を着こなしたその佇まいには、威圧感ではなく、包み込むような温厚な品格が漂っていた。
フォンテーヌ伯爵家当主、アンリ・フォンテーヌ。
「お初にお目にかかります、フォンテーヌ伯爵閣下。アルビオン王国ハーロウ魔法学園、卒業実地任務の特命調査員、ヴェラ・ソーンと申します」
ヴェラが流れるような所作で一礼し、革鞄から封書を取り出した。
「アルビオン王都特命監査官閣下の親書、ならびにアッシュフォード領で摘発された国際的犯罪事案に関する捜査記録を携えてまいりました」
「ああ、連絡は受けているよ。どうぞ掛けてくれたまえ。そちらの護衛の方も」
「いえ、私は護衛の身ですので、壁際にお控えいたします」
俺は深く頭を下げ、部屋の隅の壁際へと静かに下がった。
フードの下から、部屋の中の気配を慎重に探る。
アンリ伯爵はソファに戻り、ヴェラから差し出された羊皮紙の書類に目を通し始めた。
目を通すにつれ、その温和な顔つきが徐々に引き締まっていく。
「なるほど。アッシュフォードのコルヴィン伯爵家が、公金を横領した上で闇ギルドを使い、さらに我が国の王政派閥が絡む人身売買網に手を染めていたと」
「はい。6年前にこちらの領内街道で、貴家が討伐された盗賊団の件ですが」
「覚えているとも。あの時の盗賊共が、国境を越えて人買いの元締めへ子供を引き渡そうとしていたという証言が、アッシュフォード側で得られたわけだね」
アンリ伯爵は重く頷き、書類を卓上に置いた。
「我が領の私兵が偶然行き合って撃滅した事件だったが、まさかそんな巨大な暗雲と繋がっていたとは。正式な情報共有に感謝するよ、ソーン調査員。これで、我が領としても公的に手を打つ理由ができた」
アンリ伯爵の物言いは誠実そのものだ。
保身や利権を第一に考えるアッシュフォードの貴族どもとは、根底から人種が違う。
その時、応接室の重厚な扉が静かにノックされた。
「失礼いたします、お父様。お茶をお持ちいたしました」
澄んだ柔らかな声が室内に響いた。
心臓が跳ね上がった。
昨日の広場で、風に乗って届いたあの声。
扉が開き、銀の角盆を手にした少女が静かに歩み入ってきた。
淡い青の絹のドレスに、後ろで結わえられた艶やかな栗色の髪。
昨日広場で遠目に見かけた少女だった。
年齢は12歳前後。
まだあどけなさを残した小柄な背丈だが、背筋をまっすぐに伸ばし、一歩一歩の足取りには洗練された気品が宿っている。
手元の茶器をわずかも揺らすことなく、優雅な仕草でテーブルへと運んでいく。
「ノラ、すまないね。客人が見えているんだ」
「はい、お父様。お邪魔にならないよう、すぐにお暇いたします」
ノラ。
アンリ伯爵がその名を呼んだ瞬間、視界の輪郭が歪むような錯覚を覚えた。
6年だ。
あの日、燃え盛る孤児院のぬかるみの中で、泥まみれになって泣き叫んでいた小さな妹分。
シスターの血を浴び、恐怖に震えながら俺に手を伸ばしていたあいつが、今、目の前で息をしている。
死んでなどいなかった。
売られて地獄の底へ堕ちたわけでもなかった。
この温かな家で、優しい父親に慈しまれ、誇り高い令嬢として育っていた。
生きていてくれた。
その事実だけで、胸の奥底に溜まっていた重たい塊が、音を立てて崩れ落ちそうになる。
今すぐにでも駆け寄り、その名を呼びたい衝動が全身を駆け巡った。
だが、左手で掴んだ右腕の冷たい金属の感触が、俺を強く押し留めた。
名乗ってどうする。
お前のお兄ちゃんは生きていると、抱きしめてどうなる。
今の俺は、故郷を捨て、腕を失い、復讐のために手を血で染めてきた薄汚れた冒険者だ。
この眩しい世界で幸福に暮らすあいつの前に、灰色の亡霊のような俺が踏み込んでいいはずがない。
俺は深く息を吐き、フードの奥で感情を硬い石のように押し殺した。
「ソーン調査員、こちらが私の娘のノラだ。6年前、その盗賊共から救い出した子でね」
「まあ、ノラ様。お初にお目にかかります。ヴェラ・ソーンと申します」
「ご丁寧にありがとうございます、ソーン様。どうぞ、私どもの領の紅茶をお召し上がりください」
ノラは可憐に微笑み、スカートの裾を軽くつまんで完璧なカーテシーを返した。
ヴェラが感嘆の溜息を漏らし、背筋を正している。
茶を配り終えたノラが、ふと視線を巡らせた。
そして、部屋の隅の壁際に立つ俺の姿で、その足が止まった。
栗色の瞳が、俺の姿をじっと見つめてくる。
黒い外套。
深く被ったフード。
そして、外套の内側に頑なに隠された右腕の輪郭。
ノラの眉が、かすかに寄った。
何かを探るように、小首を傾げる。
「あの、護衛の方」
ノラが一歩、俺の方へ歩み寄ってきた。
「ノラ?」
アンリ伯爵が怪訝そうに声をかけるが、ノラは止まらなかった。
俺の正面、三歩ほど手前で立ち止まり、覗き込むように視線を合わせてくる。
「どこかで、お会いしたことはありませんか?」
澄んだ瞳の奥に、切実な光が宿っていた。
喉が詰まり、息が止まりそうになる。
「昨日の昼下がり、大噴水の広場にいらっしゃいませんでしたか? それに、なんだか、とても懐かしい香りがするような気がして」
指先がわずかに震えた。
懐かしい香り。
アッシュフォードの湿った土と、孤児院の裏庭に咲いていた野花の匂い。
6年経っても、あいつの感覚はあの場所を忘れていなかった。
右手の義手の歯車が、外套の下でぎりりと小さく鳴った。
俺は奥歯を噛み締め、低くかすれた声で、冷徹に言い放った。
「人違いでしょう、お嬢様」
ノラの肩が小さく跳ねた。
「俺のような平民の流れ者が、貴族の令嬢とお会いする機会などありません。気安く近寄られない方がよろしいかと」
突き放すような、冷たい拒絶の言葉。
ノラは傷ついたように唇を噛み、胸元に両手を当てて俯いた。
「失礼いたしました。無礼をお許しください」
小さく消え入りそうな声で頭を下げるノラ。
胸が鋭い刃物で裂かれるように痛んだ。
だが、これでいい。あいつの平穏な日常を乱す権利など、俺にはない。
重苦しい沈黙が広がりかけた、その瞬間だった。




