第024話:噴水広場の少女
「明日の朝まで時間が空いたな。宿を押さえる前に、少し街の空気を探るぞ」
「はい。何か気になることでも?」
「関所の連中がピリついていた理由だ。それに、6年前の盗賊の件もな」
俺たちは中央の大噴水広場へと向かった。
広場の中央には、巨大な白大理石の噴水が据えられ、幾重にも重なる水盤から涼やかな水飛沫が立ち上っている。
広場を囲むようにテラス席を備えた軽食屋や茶屋が並び、多くの市民や旅人で賑わっていた。
俺たちは噴水から少し離れたテラスの端、周囲の視線が届きにくい席に腰を下ろした。
ヴェラが頼んだ冷製スープと焼きたてのパンが運ばれてくる。俺は手元の硬いパンをちぎりながら、周囲のざわめきに意識を集中させた。
雑多な会話の波の中から、目的の単語を拾い上げる。
「おい、フォンテーヌ閣下も大変だな。また王都から特使が来ているらしいぜ」
「王立魔導院の連中だろ。あのヴァンス侯爵の息がかかった使者共だ。ここ数日、領主館に入り浸っているって話だぞ」
「才女と評判のお嬢様を、王都の学舎へ連れて行く気なんだろう。断ればフォンテーヌ家の立場が危うくなるって噂だ」
隣の席に座る商人風の男二人が、声を潜めて話していた。
ヴァンス侯爵。
グレイマーシュのガーレットが口にしていた、王政派閥の首魁の名だ。
やはり、この街にその影が落ちている。
「才女のお嬢様、か。アンリ伯爵の養女だっていうノラ様のことだろう。あのお方は本当に素晴らしい才能をお持ちだ」
「ああ。10歳の教会判定で、魂力の器が規格外の大きさだと分かったそうじゃないか。将来は複数の属性を操る大魔導士になるって、街の誰もが信じている」
「6年前に盗賊から助け出された孤児だってのに、今じゃすっかり本物の令嬢様だ。心優しくて、広場の孤児たちにも手を差し伸べてくださる。あの天使のようなお嬢様を、権力争いの道具にされてたまるもんか」
商人たちの言葉が、耳の奥で激しく反響した。
魂力の器の大きさ。
10歳の教会判定。
6年前に盗賊から助け出された養女。
そして、ノラという名前。
喉が渇き、呼吸がわずかに浅くなった。
右手の義手の指先が、外套の下でぎちりと小さな軋み音を立てる。
生きていたのか。
あの日、燃え盛る孤児院の庭で、俺の手をすり抜けて連れ去られたあいつが。
隣国の伯爵に救われ、令嬢として、神童として、この美しい街で息をしていたのか。
「グレイさん? あの、パン、冷めてしまいますよ」
ヴェラが不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「いや、なんでもない。ただの噂話だ」
努めて平坦な声で返し、冷めたパンを口に運んだ。
味がまるでしなかった。
その時、広場の石畳に車輪の乾いた音が響いた。
ざわめいていた広場の空気が、ふっと静まる。
人々の視線が集まる先には、青と銀で塗装された豪奢な馬車があった。
車輪の留め具には、フォンテーヌ伯爵家の紋章である双輪の薔薇が彫り込まれている。
馬車が噴水の脇で静かに停車した。
従者が素早く駆け寄り、踏み台を置いて扉を開ける。
護衛の騎士二人が周囲を用心深く見回す中、馬車の中から一人の少女が姿を現した。
淡い青の絹のドレス。
陽光を浴びて艶やかに波打つ栗色の髪は、上品な銀の髪飾りで束ねられている。
馬車のステップを降りる仕草、背筋をすっと伸ばした佇まいは、非の打ち所がない貴族の令嬢そのものに見えた。
年齢は12歳前後。
幼さを残しながらも、すっきりと整った涼しげな目元と、意志の強さを感じさせる口元。
少女は付き添いの従者に優しく微笑みかけると、噴水の縁へと歩み寄った。
水盤の脇に咲き誇る白薔薇の生垣の前で立ち止まる。
そして、手袋を外した右手の指先で、そっと薔薇の花弁に触れた。
まるで、壊れやすい宝物を確かめるような、慈しむ手つき。
その仕草を見た瞬間、俺の頭の中で過去の記憶が閃光のように弾け飛んだ。
アッシュフォードの薄暗い孤児院。
シスター・マーサが裏庭に作った、粗末な木枠の花壇。
雨上がりのぬかるみの中で、泥だらけの手を伸ばし、咲いたばかりの野花を嬉しそうに撫でていた小さな少女。
「お兄ちゃん、見て。綺麗なお花が咲いたよ」
幼いあの声が、耳の奥で鮮明に蘇る。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。
立ち上がりかけた足が、微かに震える。
ノラ。
そう呼びかけようとして、言葉が喉の奥で詰まった。
目の前にいるのは、誰が見ても非の打ち所がない上流貴族の令嬢だ。
着ているドレスも、身につけた装飾品も、周囲に侍る精鋭の護衛たちも、俺のような薄汚れた冒険者が住む世界とは何光年も隔たっている。
あいつなのか。
本当に、あのノラなのか。
あの日、泥水の中で泣き叫び、盗賊の腕の中で震えていたあの幼い少女が、こんな眩しい場所で令嬢として笑っているというのか。
人違いではないのか。
名前が同じで、境遇が似ているだけの、別の貴族の娘ではないのか。
6年という時間は、一人の人間をこれほどまでに塗り替えてしまうものなのか。
確信が持てない。
駆け寄ってその腕を掴む勇気が、どうしても湧いてこなかった。
もし人違いだったら。
もし本物だったとして、薄汚れた灰色の復讐者となった俺の姿を見て、あいつは何を思うのか。
右腕の義手を、左手で強く握りしめた。
金属の冷たい感触だけが、激情に呑まれかけた理性を辛うじて繋ぎ止める。
その時だった。
薔薇に触れていた少女が、ふと顔を上げた。
誰かの強い視線を感じ取ったのか、眉をかすかに寄せて、テラス席の並ぶこちら側へと視線を巡らせる。
「ノラ様、いかがなさいましたか?」
護衛の騎士が怪訝そうに声をかけた。
俺は咄嗟に身を引き、テラスの太い石柱の死角へと体を滑り込ませた。
気配を完全に遮断し、息を殺す。
少女の視線が、俺のいた席のあたりを彷徨った。
だが、深く被った黒いフードと柱の影が、俺の姿を完全に覆い隠していた。
「いえ。誰かに呼ばれたような気がしたのですが、気のせいだったようです」
風に乗って届いたその声は、驚くほど澄んでいて、柔らかかった。
だが、その声の輪郭のどこかに、聞き覚えのある響きが確かに残っていた。
「参りましょう。ヴァンス侯爵の使者の方々が、館でお待ちです」
「ええ、そうですね」
少女は微かに陰りを帯びた表情を浮かべ、再び馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まり、蹄の音が遠ざかっていく。
白塗りの馬車が広場の角を曲がり、見えなくなるまで、俺は柱の陰から動くことができなかった。
「グレイさん? 急に立ち上がって、どうしたんですか?」
テラスの席で、ヴェラが心配そうに俺の顔を見上げていた。
「なんでもない。羽虫が飛んできただけだ」
低く答え、再び席に腰を下ろした。
指先が微かに熱を帯びていた。
ノラ。
確証はない。だが、胸の奥で燻り続けていた炎が、激しく燃え盛るのを感じていた。
生きていた。
そして、その穏やかな暮らしに、王政派閥の毒牙が迫っている。
慌てて動く必要はない。
明日の朝になれば、あの伯爵邸の扉を正式に開けることができる。
そこで顔を合わせれば、全ての真実が分かるはずだ。
「宿を探すぞ、ヴェラ。明日は忙しくなる」
「えっ、もう行くんですか? まだスープが残っているのに。もう、待ってくださいよ!」
慌ててスプーンを口に運ぶヴェラを背に、俺は立ち上がった。
頭上からは、噴水の涼やかな水音と、華やかな薔薇の香りが絶え間なく降り注いでいた。




