第022話:国境の彼方
霧枯れの谷を抜けると、視界を塞いでいた濃霧が嘘のように晴れ渡った。
目の前に現れたのは、巨大な石造りの要塞だった。
二つの切り立った山肌を跨ぐようにして築かれた、頑強な城壁と巨大な鉄格子の大門。
アルビオン王国とエスタン王国の国境を隔てる大関所、双鷲の関だ。
要塞の頂には、両国の国章が彫り込まれた旗が掲げられている。
だが、関所を通過しようとする商人や旅人の列は遅々として進んでいなかった。
門の前には重装の鎧を纏ったエスタン側の警備兵が立ち並び、通行人の荷物を乱暴にひっくり返しては、高圧的な態度で尋問を繰り返している。
「次だ! おい、そこの爺さん、荷車の中身を全部出せ! 隠し荷に武器や禁制品がないか改める!」
「な、滅相もございません、ただの干し魚でして」
「口答えするな! 怪しい奴は全員拘束しろと、王都の魔導院からも通達が出ているんだ!」
遠目に見ても、尋常ではないピリピリとした空気が漂っていた。
ガーレットが警告していた通りだ。
王政派閥の不穏な影響が、すでに国境の検問現場にまで露骨に及んでいる。
「ずいぶん厳しい検問ですね」
列の後ろに並びながら、ヴェラが眉をひそめた。
「若い旅人や身寄りのない子供を探しているようだな。才覚のある人間を片っ端から囲い込むための網だ」
俺が低く囁くと、ヴェラは胸元を押さえ、それから意を決したように前を向いた。
「大丈夫です。ここは私に任せてください」
やがて、俺たちの番が回ってきた。
槍を手にした衛兵隊長が、黒い外套の俺と、革鎧を着たヴェラの姿を一瞥し、あからさまに険しい顔つきになった。
「止まれ。若い男女の二人連れか。旅芸人にも商人にも見えんな。どこから来て、何のためにエスタンへ入る」
威圧的な声音だった。
衛兵隊長の手が、腰の剣の柄へと伸びる。
「年頃からして、兵役逃れの不法入国者か? 怪しいな。身元が証明できるまで、そこの詰所で取り調べを受けてもらうぞ」
言いがかりに近い詰問だった。
俺が一歩前に出ようとした瞬間、ヴェラがすっと俺の前に立ちふさがった。
「無礼ですよ、衛兵殿」
きっぱりとした、よく通る声だった。
ヴェラは外套の懐から、きっちりと封蝋の施された羊皮紙の書面を取り出し、隊長の目の前へと突きつけた。
「私はアルビオン王国ハーロウ魔法学園より派遣された特命調査員、ヴェラ・ソーンです。王都特命監査官閣下の親署のもと、貴国のフォンテーヌ伯爵閣下へ公式の証拠書状をお届けする任務を帯びています」
隊長の視線が、書面に押された金色の印章へと吸い寄せられた。
アルビオン王都の最高監査機関の印章と、学園長の連名署名。
地方の関所の衛兵ごときが口を挟める代物ではなかった。
「お、王都監査官の特命!? し、しかし、後ろの男は」
「私の専属護衛を務める、公任のAランク冒険者です」
ヴェラは間髪を入れずに言い放ち、俺に視線を向けた。
俺は無言のまま懐から鉄のAランクプレートを取り出し、隊長に見せつけた。
さらに、先ほど切り落としたばかりの、まだ生々しい血の滴るミストハウンドの黒い角を、検問台の上にコトリと置いた。
「霧枯れの谷で、街道を塞いでいた害獣の群れを掃除しておいた。これで通行人の安全も確保されたはずだ」
隊長の顔から、さっと血の気が引いた。
最高峰の公文書。
単独で谷の魔物の群れを一掃するAランク冒険者の実力。
自分たちが逆らっていい相手ではないことを、男は瞬時に悟ったようだった。
「ひ、非礼をお詫びいたします! アルビオン王国の調査員殿、並びに護衛の冒険者殿!」
隊長は慌てて槍を立て直し、直立不動の姿勢で敬礼した。
周囲の衛兵たちも、一斉に居住まいを正して頭を下げる。
「お通りください! エスタン王国へようこそ!」
衛兵たちの合図とともに、重い鉄格子の門が軋んだ音を立てて引き上げられた。
俺とヴェラは、衛兵たちの敬礼に見送られながら、堂々と関所のトンネルをくぐり抜けた。
「案外、役人相手の交渉が板についてるな」
横を歩くヴェラに、俺は小声で言った。
「言ったでしょう、役に立つって。最下位貴族の家で育ったんですから、高圧的な役人のあしらい方くらい心得てますよ」
ヴェラは誇らしげに胸を張り、くすりと笑ってみせた。
ただ守られるだけの少女ではなく、旅を前へ進める確かな相棒の顔だった。
トンネルを抜けた瞬間、目の前の視界が一気に開けた。
吹き抜ける風が、暖かな土とブドウの甘い香りを運んでくる。
見渡す限りに広がるなだらかな緑の丘陵。
白く美しい石畳の街道が地平線の彼方へと延び、斜面には手入れの行き届いた広大なブドウ畑が連なっていた。
重税と腐敗で荒れ果てていた故郷アッシュフォードとは、まるで別世界のような、豊かで洗練された大国の光景だった。
だが、この美しい景観の裏で、王政派閥という巨大な権力が牙を研ぎ、ノラの日常を脅かそうとしている。
ヴェラが鞄から羊皮紙の地図を取り出し、街道の先を指差した。
「この街道を真っ直ぐ東へ進めば、フォンテーヌ伯爵領の主都です。薔薇と噴水の街、と呼ばれているそうですよ」
「そうか」
俺は新しく馴染んだ右腕の義手を、力強く握り締めた。
止まっていた時計の針は、もう完全に動き出している。
待っていろ、ノラ。今度こそ、誰にもお前を奪わせはしない。
「行くぞ、ヴェラ」
「はい!」
俺たちは陽光を浴びる石畳を踏みしめ、エスタン王国の地へと力強く歩き出した。




