第021話:霧枯れの谷
本日は2話更新します。
よろしくお願いします。
グレイマーシュの薄暗い長屋街を抜けると、道は一気に険しさを増した。
両脇から迫り来るのは、刃物のように切り立った灰色の岩壁だ。
アルビオン王国とエスタン王国の間に横たわる自然の国境峡谷、霧枯れの谷。
頭上を覆う重たい雲から光は届かず、谷底には乳白色の濃い霧が淀みのように立ち込めていた。
足元は粘つく泥炭の湿地で、一歩踏み出すごとに泥が靴底に吸い付き、じわりと重い音を立てる。
「すごい霧ですね。数歩先も見えなくなりそうです」
「ここは両国の緩衝地帯だ。関所の警備兵も、巡回には滅多に入らない。足を滑らせて泥沼に落ちるなよ」
「分かってますよ。これでも野外実習の単位は落としていませんから」
軽口を叩き合いながらも、俺は外套の下で右腕の指先をかすかに動かしていた。
昨夜、ガーレットに修理してもらったばかりの手首の機構。
滑らかに噛み合う歯車の感触が、肘の神経を通して心地よく伝わってくる。
万全の仕上がりだ。
だが、道具の真価は実戦で試してこそ分かる。
谷の深みへと進むにつれ、湿った風に乗って微かな異臭が鼻腔をかすめた。
腐敗した肉の臭いと、獣特有の脂臭さ。
俺は立ち止まり、無言で左手を横へ出してヴェラを制した。
「グレイさん?」
「静かにしろ。客のお出ましだ」
低く囁き、腰の直剣の柄に指をかけた。
周囲の濃霧の奥から、ぴちゃり、と泥水を踏む微かな音が響いた。
一つではない。二つ、三つ、いや、それ以上だ。
泥炭の隙間を滑るように、音もなく距離を詰めてくる気配があった。
だが、濃霧が視界を遮り、敵の姿も正確な位置もまるで見通せない。
白く濁った空間が、ただ周囲を取り囲むばかりだった。
「泥の中に潜んでますね。視覚を頼りにするのは無理です」
ヴェラが冷静に呟き、杖を両手で構え直した。
その顔に怯えの色はなかった。ハーロウで取り残されていた頃の弱々しい少女の面影は、すでに消え去っている。
「私の波紋で位置を浮かせます。グレイさんは仕留める準備を」
「やれるのか」
「任せてください」
ヴェラが杖の石突を、足元のぬかるんだ泥水へと突き立てた。
杖の先端から青白い魔力が走り、泥の表面に細かな同心円の波紋が一気に広がっていく。
水魔法による反響定位。
水気を多く含んだ泥炭の性質を利用し、地中を伝わる微細な振動から敵の位置を逆探知する、学園仕込みの索敵技術だった。
波紋が何かにぶつかり、乱れた飛沫を上げる。
「左前方から二、右後方から三です! 泥の中を泳ぐように包囲してきています!」
ヴェラの鋭い声と同時に、足元の泥炭が激しく盛り上がった。
灰白色の硬質な毛並みと、泥まみれの獰猛な顎。
霧枯れの谷に巣食う肉食の魔物、ミストハウンドだ。
額から一本の黒い角を生やした五匹の獣が、死角から一斉に牙を剥いて跳びかかってきた。
ぬかるみの上を滑るように駆けるその速度は、通常の冒険者なら反応すらできずに喉笛を食い破られる速さだった。
だが、ヴェラの手はすでに次の動作へ移っていた。
「水よ、泥を解いて奔れ!」
杖を一閃させると、足元から高圧の水流が放射状に噴き出した。
泥炭が瞬時に水に溶けて液化し、地面が一瞬にして底なしの泥水へと崩れ去る。
跳躍の足場を奪われたミストハウンドたちの動きが、空中で一瞬だけ不格好に乱れた。
「今です!」
「上出来だ」
俺は右腕を突き出した。
外套の袖口から、鈍い黒光りを放つ鋼鉄の義手が露わになる。
カチリ。
手首の内側の腱を引くと、精密な歯車が小気味よい駆動音を立てた。
手首の関節が鋭く前方へとせり出し、五本の指が扇状にカシャリと展開する。
次の瞬間、手のひらの隙間に仕込まれた射出口から、銀色の軌跡が放たれた。
極細鋼鉄ワイヤーの展開。
髪の毛ほどに細く研ぎ澄まされた複数のワイヤーが、霧を切り裂きながら空中で網のように四方へ広がった。
アシッドハイドラの酸によって焼き付き、ずっと封じられていた俺の切り札が、完璧な滑らかさで息を吹き返した瞬間だった。
空中で体勢を崩した五匹のミストハウンド。
その胴体、首、四肢へ、不可視のワイヤーが蜘蛛の糸のようにしなやかに絡みつく。
俺は義手の拳を、一気に引き絞った。
シュルリ、とワイヤーが巻き取りドラムへと高速で巻き戻る。
ただそれだけの動作で、空中に交差する無数の細い斬線が走った。
肉を断ち、骨を断ち、硬質な甲殻を両断する、甲高い擦過音。
悲鳴を上げる間すらなかった。
五匹の魔物は空中で均等な肉片へと切り裂かれ、黒い血の雨となって泥水の中へと叩き落とされた。
チャキン、と冷たい金属音が響き、ワイヤーの先端が手首の内側へと完全に収納される。
静寂が谷底に戻った。
漂う濃霧の中に、ばらばらになった魔物の残骸だけが転がっている。
「すごい」
杖を下ろしたヴェラが、息を呑んで俺の右腕を見つめていた。
「手首からワイヤーを射出して、空中で絡め取って引き裂くなんて。そんな戦い方、どの教本にも載っていません」
「教本通りに戦って生き残れるなら、誰も苦労はしない」
俺は素っ気なく返し、一番大柄だった個体の頭部へと歩み寄った。
腰の短剣を引き抜き、額に生えた黒い角を根元から切り落とす。
布で血を拭い、角を懐へ放り込んだ。
「行くぞ。血の匂いに釣られて、次の群れが集まってくる前に谷を抜ける」
「はい!」
ヴェラは頼もしげに頷き、俺の背を追って歩き出した。




