第020話:預けた腕
アッシュフォードを発って三日。
街道を進むにつれて乾いた土の匂いは薄れ、代わりに鼻をつくような泥炭と腐葉土の湿った匂いが漂い始めていた。
低く垂れ込めた鉛色の雲の下、見渡す限りの枯れ草と泥沼が広がっている。
アルビオン王国とエスタン王国の間に横たわる国境緩衝地帯。
どちらの国の法も届かず、税吏も兵士も寄り付かない灰色地帯に、その町は張り付くように存在していた。
グレイマーシュ。
湿地帯の泥の上に、粗末な石組みと腐りかけの木材で建てられた長屋が密集している。
通りを行き交うのは、顔を布で隠した密輸商人や、薄汚れた革鎧を着た脱走兵、それにどこのギルドにも属さない流れの荒くれ者ばかりだった。
「ここが、グレイマーシュですか。ずいぶん物騒な場所ですね」
隣を歩くヴェラが、旅用外套の裾を泥に取られないよう持ち上げながら、小声で呟いた。
背負った荷嚢を抱え直す指先が、わずかに強張っている。
「余計なものを見るな。財布を掏られたくなければ、懐に手を突っ込んでおけ」
俺は視線を正面に向けたまま、淡々と返した。
「ずいぶん詳しいんですね。前に来たことがあるんですか?」
「昔の話だ」
それ以上は答えず、俺は足早にぬかるんだ通りを進んだ。
6年前。
右腕を失い、シスターを殺され、ノラを奪われた俺が、泥水を啜りながら這うようにして流れ着いたのが、この掃き溜めのような町だった。
薄汚い路地裏で小さく丸まっていた俺を、誰も助けはしなかった。
それどころか、血の滲んだ包帯と生気のない顔を見て、辛気臭い灰色野郎が転がっていると嘲笑い、残飯を投げつけてきた。
判定の場に続く、二度目の嘲笑。
ロアンという無力な名を捨て、投げつけられた侮辱の言葉をそのまま己の名に刻みつけて立ち上がった、灰色の原点。
拾い上げるような感傷は欠片もない。
だが、この町に漂う泥と錆の匂いだけは、骨の髄にこびりついていた。
目抜き通りを外れ、湿地帯の淀みに面した路地を奥へと進む。
やがて、すすけた赤煉瓦造りの平屋の前に辿り着いた。
煙突からは重油の混じった黒い煙が立ち上り、中からはリズミカルに鉄を叩く金槌の鈍い音が響いている。
軋む木の扉を、俺はノックもせずに押し開けた。
作業場の中は、油と熱気、それに削り取られた鉄粉の匂いが充満していた。
壁一面には、無骨な万力や旋盤、用途の知れない歯車やバネが所狭しと並べられている。
炉の前に立つ屈強な男が、金槌を振り下ろす手を止め、すすにまみれた顔をこちらに向けた。
無精髭を生やした顎に、額から頬へ走る古い刀傷。
筋骨隆々の太い腕に、油染みのついた分厚い革前掛けを巻いた初老の男だ。
ガーレット。
元アルビオン正規軍の兵装技師であり、前線で手足を失った兵士たちの補修具を作っていた野戦工作兵の生き残りだ。
男は油の浮いた雑巾で手を拭いながら、俺の顔を一瞥し、低く鼻を鳴らした。
「なんだ、生きてやがったか、クソガキ」
「誰がクソガキだ、爺さん。相変わらず油臭い工房だな」
俺が外套を翻して近づくと、ガーレットは作業台に腰を預け、冷めた目で俺の右腕を見下ろした。
「減らず口を叩きに来たんじゃねえだろ。腕を出しな」
「話が早くて助かる」
俺は外套から右腕を抜き、巻いていた布を解いて作業台の上に置いた。
黒く鈍い光を放つ鋼鉄の義手。
ガーレットは無骨な指先で手首の関節を掴み、軽く前後に揺すった。
カチ、と重く引っかかる感触とともに、鈍い金属の軋み音が鳴る。
「ハイドラあたりの強酸でも浴びたか。内部の歯車が熱で焼き付き、ワイヤーの巻き取りドラムが噛み合って固着してやがる」
一目見ただけで、男は故障の正体を言い当てた。
「直せるか」
「俺を誰だと思ってやがる。だが、全分解して歯車を一から削り直す必要がある。金貨3枚だ。ツケは効かねえぞ」
「耳を揃えて払ってやる。さっさと始めろ」
俺が銀貨を混ぜた革袋を作業台に置くと、ガーレットは手際よく工具箱から、細身の工具をいくつか取り出した。
ボルトが緩められ、甲冑のような外殻装甲が次々と外されていく。
中から現れたのは、幾重にも複雑に噛み合わされた真鍮の歯車と、細い鋼鉄のワイヤー、そして小さなゼンマイの群れだった。
横で見つめていたヴェラが、息を呑んで驚いたように口を開いた。
「すごい。こんなに複雑な機械、学園の魔導工学の展示でも見たことがありません。あなたがこれを作ったんですか?」
ガーレットは作業の手を止めずに、短く笑い声を漏らした。
「俺が作ったんじゃねえよ、お嬢ちゃん。大半は、そこのガキが独学で組み上げた出来損ないのガラクタだ」
「えっ、グレイさんが?」
ぽかんと口を開けたヴェラを尻目に、職人は平然と手を動かし続ける。
「6年前にな。腕を失くして泥まみれになったガキが、俺の工房の裏口からクズ鉄を盗もうとして捕まったのさ」
ガーレットはドライバーの先で、歯車の奥にこびりついた酸の残滓を削り落としながら、淡々と言葉を続けた。
「普通なら憲兵に突き出すところだが、その片腕のガキは、目を血走らせて鉄の削り方を教えろと喚き散らしやがった。だから掃除と雑用をやらせる代わりに、端材と最低限の工具を貸してやっただけだ。手取り足取り教えたことなんざ一度もねえよ」
「余計な昔話を喋るなと言ったはずだ」
俺がそっぽを向いて遮ると、ガーレットは皮肉げに口端を歪めた。
「事実だろうが。お前が夜な夜な油まみれになって、血豆を潰しながら独力で組み上げた腕だ。だからこそ、設計が荒削りで無駄に頑丈なんだよ」
新しい真鍮の歯車が削り出され、小気味よい音を立ててシャフトに組み込まれていく。
ガーレットの手際は、長年戦場で負傷兵の装具を叩き直してきた職人の確かな腕前を感じさせた。
油差しから透明な潤滑油が注がれ、固着していたドラムが滑らかに回転を取り戻していく。
作業を続けながら、ガーレットがふと顔を上げた。
「ところで、お前ら。これからエスタンへ入る気か?」
「ああ。国境を越えてフォンテーヌ領へ向かう」
「やめとけとは言わねえが、向こうの空気は今、かなりきな臭いぞ」
ガーレットの声のトーンが、わずかに低くなった。
「エスタンの王都でな、宮廷の権力者どもが、才覚のある子供を片っ端から囲い込んでるらしい」
「才覚のある子供だと?」
「そうだ。同年代離れした魂力の器を持つガキや、珍しい適性のある子供を、王立魔導院の推薦だの育成支援だのという名目で、王都へ強制的に引っ張り込んでる。体裁は国家のための英才教育だが、実態は次代の権力闘争に備えた私兵の囲い込みだ」
ガーレットはレンチを回しながら、苦々しげに唾を吐いた。
「招聘を断った地方貴族の家が、不審な事故や濡れ衣で潰されたって話も、商人伝いに流れてきてる。裏で糸を引いてるのは、宮廷魔導卿のヴァンス侯爵率いる王政派閥の連中だ」
王政派閥。
ヴァンス侯爵。
アッシュフォードの地下牢で、ダグラスが震えながら吐き出した言葉が、そのまま目の前の職人の口から補強された。
ヴェラが青ざめた顔で口元に手を当てた。
「国家の正規機関である王立魔導院が、そんな横暴なことを」
「権力ってのは、腐り始めると歯止めが利かねえからな。エスタンの国内じゃ、めぼしい才能を持つ子供のいる貴族家は、戦々恐々としてるらしいぜ」
ガーレットはそう言って、最後の一本のボルトを硬く締め上げた。
ノラ。
もし本当に、あいつが6年前にフォンテーヌ伯爵家へ保護されていたのなら。
今、そのフォンテーヌ家を取り巻く状況は、急速に危険な領域へと引きずり込まれつつあるということだ。
胸の奥で、冷たい炎が静かに燃え上がった。
「終わったぞ」
ガーレットが装甲板を嵌め込み、作業台を軽く叩いた。
俺は右腕を引き寄せ、手首を軽く回してみた。
引っかかりは完全に消え、滑らかな金属の噛み合いが心地よい感触となって肘へ伝わってくる。
軽く魂力を通し、手首の内側の腱に意識を集中させた。
カチリ。
小気味よい駆動音とともに、手首がわずかに前方へとせり出した。
五本の鋼鉄の指が関節ごとに展開し、手のひらの隙間から、髪の毛ほどの極細ワイヤーがしなやかに伸びて指先へと絡みつく。
拳を握り込むと、一瞬の狂いもなくワイヤーが内部へと巻き取られ、元の無骨な手首へと収まった。
「上出来だ」
「当たり前だ、誰が直したと思ってやがる」
ガーレットは作業台の革袋を掴み、懐へ放り込んだ。
「助かった、ガーレット」
「礼なんぞいらねえよ。国境を越えたら、つまらねえところで野垂れ死ぬな。次に壊したら、倍の金を分捕るからな」
「安心しろ。死ぬ気なんぞ毛頭ない」
俺は外套を羽織り、右腕を再び闇の中へと隠した。
工房の扉を開けると、湿地帯の冷たい風が吹き込んできた。
空は相変わらず灰色の雲に覆われているが、東の空の端が、わずかに白く光を帯びていた。
「行きましょう、グレイさん」
ヴェラが隣に立ち、しっかりと自分の木の杖を握り直した。
その表情には、工房に入る前のような迷いや怯えは消えていた。
「ああ。国境を越えるぞ」
俺たちは泥炭のぬかるみを踏みしめ、国境街道へと向けて歩き出した。
取り戻した右腕の感触が、冷たく、だが確かに熱を帯びていた。




