第019話:次の航路
翌朝、アッシュフォードの東城門には、白く冷たい朝靄が立ち込めていた。
初秋の乾いた風が、城壁の石組みを撫でるように吹き抜けていく。
王都へダグラスとオズワルドを運ぶ重罪人用の護送馬車は、夜明け前に厳重な護衛を伴ってすでに北門から出立したと聞いていた。
広場を埋め尽くしていた怒号も、昨日の手のひら返しの醜悪な熱狂も、すべては昨日の夢のように静まり返っている。
俺は黒い外套の襟を立て、東へと続く街道の入り口に立っていた。
旅支度は簡素そのものだ。
腰の直剣と、わずかな保存食、それにギルドと宿の清算を終えて懐に入れた金貨の袋。
右腕の手首に手を当て、布の上から軽く揉みほぐしてみる。
カチリ、と鈍い金属の引っかかる感触が伝わってきた。
アシッドハイドラの酸を浴びてから、手首の伸展とワイヤーの展開機構は完全に死んだままだ。
無理に動かそうとすれば、精密なギアが噛み合わずに砕けてしまう。
「まあ、グレイマーシュまで持てば十分だ」
独り言を呟き、厚手の布を巻き直して外套の闇へと収めた。
あの町には、かつてこの義手を組み上げる際に手ほどきを受けた工房がある。
あそこの親父なら、この固着した手首の機構も直せるはずだ。
息を吐き出し、街道へ向けて一歩を踏み出そうとした。
「お待ちください、グレイさん!」
背後から、息を切らした甲高い声が飛んできた。
思わず足を止め、振り返る。
城門のアーチをくぐって小走りに駆けてきたのは、見慣れた金髪の少女だった。
ただし、その格好はいつもの学園の制服ではなかった。
動きやすい厚手の革鎧に、埃除けの旅用外套。腰には愛用の木の杖を差し、背中には小ぶりな荷嚢を背負っている。
完全に、長旅に出る冒険者の装いだった。
「何の真似だ、ヴェラ。男爵令嬢が、朝早くから旅人の見送りか」
「見送りじゃありませんよ。一緒に行くんですよ」
ヴェラは乱れた息を整えながら、腰に手を当てて胸を張った。
俺は呆れてため息をつき、頭痛をこらえるように額に手を当てた。
「頭の打ちどころでも悪かったのか。ここはアッシュフォードだぞ。ハーロウの学園へ戻る馬車なら、南の門から出ているはずだが」
「ハーロウには戻りません。私の行き先は、あなたと同じ、隣国のエスタン王国です」
きっぱりと言い放つ少女に、俺は顔をしかめた。
「冗談は顔だけにしておけ。他国の領地に、学生が一人でふらふら入国できるわけがないだろうが」
「冗談じゃありません。これを見てください」
ヴェラは外套の懐から、きっちりと封蝋が施された羊皮紙の書面を取り出し、俺の目の前に突き出してきた。
王都特命監査官の印章と、ハーロウ魔法学園長の署名が並んで捺印されている。
偽造の余地など欠片もない、正真正銘の公文書だった。
「卒業実地任務、特命調査員、だと?」
書面に記された肩書を拾い読みし、俺は眉をひそめた。
「昨夜、監査官閣下に直談判したんです」
ヴェラは真剣な眼差しで、言葉を続けた。
「ダグラス元伯爵の自供によって、このアッシュフォードの事件は、単なる領内の不正や横領ではなくなりました。6年前に起きた孤児院の襲撃、人身売買、そしてエスタン王国の宮廷を牛耳る王政派閥の暗躍。両国にまたがる重大な国際犯罪事案として、王都へ報告されることになったんです」
「それが、お前とどう繋がる」
「フォンテーヌ伯爵家ですよ」
ヴェラは人差し指をすっと立てて見せた。
「6年前に国境を越えた盗賊団を討伐し、攫われた子供を保護した実績を持つのが、エスタン王国のフォンテーヌ伯爵家です。王都の監査機関としても、事件の証拠を引き継ぎ、エスタン側の協力体制を取り付けるための正式な連絡役が必要でした」
攫われた子供。
その一言に、心臓が一つ、大きく跳ねた。
俺は表情を動かさず、跳ねた鼓動だけを飲み下した。
「それを、お前に押し付けたと?」
「押し付けられたんじゃありません。私が引き受けたんです。私は一昨日、特命監査官を出迎えて書類の手続きを代行しました。その実務能力を監査官閣下に評価していただけたんです」
ヴェラは少し誇らしげに顎を上げた。
「学園側も、これを座学の論文に代わる卒業実地任務として正式に承認してくれました。ソーン男爵家にとっても、王都の監査官直々の特命任務なんて、家格を上げる名誉なことです。父も二つ返事で背中を押してくれました」
理屈は通っていた。
貴族の家のしがらみも、学園の卒業資格も、すべて制度の枠内で完璧に片付けてある。
お坊ちゃん育ちのエリート達とは違い、最下位男爵家で泥臭く生きてきたこの娘らしい、抜け目のない立ち回りだった。
「制度上の建前はよく分かった」
俺は冷ややかに視線を据えた。
「で、お前の本音はなんだ」
問いかけると、ヴェラは一瞬だけ言葉を飲み込み、視線を揺らした。
だが、すぐに意を決したように真っ直ぐ俺を見つめ返してきた。
「守られるだけの自分を、卒業したいんです」
澄んだ声だった。
「私はずっと、エリートクラスの最下位として、周囲に笑われないように、身の丈に合った場所で小さく縮こまって生きてきました。男爵家だから、才能がないから、水魔法しか使えないから。そうやって自分で自分に言い訳をして、誰かの後ろに隠れていました」
ヴェラはぎゅっと拳を握りしめた。
「でも、リンドヴルムの前であなたに助けられ、この街であなたが戦う姿を見て、目が覚めました。何も持たないところから、自分の力だけで立ち上がって、理不尽を叩き潰していくあなたの背中を見て、恥ずかしくなったんです」
朝風がヴェラの金髪を揺らした。
「私も、自分の足で立ちたい。自分の力で世界を歩いて、誰かを守れるくらい強くなりたいんです。だから、ついていきます。あなたの隣を歩く資格がある人間になるために」
真っ直ぐな言葉だった。
媚びも、打算も、甘えもない。
ただ一人の人間として、自分の人生を選び取ろうとする強い意志だけがそこにあった。
俺は小さく息を吐き出し、肩をすくめた。
「好きにしろ。だが、勘違いするなよ」
冷淡な声音で、俺は釘を刺した。
「俺は妹を捜しに行く。道中でどんな修羅場になろうと、お前を庇ってやる義理はない。足手まといになったら、街道の真ん中でも平気で置き去りにするぞ」
「望むところです」
ヴェラは悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「置いていかれないように、しっかりついていきますから。それに、今のあなたには、私の水魔法が必要なはずです」
「生意気を言うな」
「生意気じゃありません、事実です。怪我の手当てだって、解毒だって、全部私がいなきゃ困るでしょう?」
口の減らない女だ。
だが、その軽口の裏に、確かな覚悟があることは十分に伝わっていた。
「行くぞ。日が昇りきる前に、関所を抜けたい」
「はい!」
二人は並んで、東の城門へと歩き出した。
城壁の詰め所で、見張りの衛兵に通行証を提示する。
ヴェラが差し出したのは、王都特命監査官の印章が入った特命調査員証。
俺が差し出したのは、黒く鈍い光を放つAランクの冒険者プレートだ。
衛兵は二つの証票を見るなり息を呑み、慌てて背筋を正して直立不動の姿勢で敬礼した。
「お、お通りください! 道中のご無事を!」
重い鉄の扉が軋んだ音を立てて開き、朝陽が真っ直ぐに街道を照らし出した。
門を抜けると、冷たい風が一気に吹き抜けていく。
東へと延びる一本道。その先には、湿地帯の町グレイマーシュ、そして国境の彼方に広がるエスタン王国の大地がある。
ふと足を止め、俺は一度だけ振り返った。
朝靄の向こう、丘の上にそびえ立っていたコルヴィン伯爵邸は、すでに遠く小さく霞んでいた。
かつて俺を嘲笑い、家族を奪い、絶望へと叩き落とした因縁の街。
腐敗しきったその巨塔は完全に崩れ去り、もう俺を縛るものは何一つ残っていなかった。
「さようなら、アッシュフォード」
隣でヴェラが、小さく呟いた。
俺は何も言わず、ただ背を向けた。
止まっていた6年間の時間は、もう完全に過去のものとなった。
次に進むべき道は、すでに決まっている。
「待ってろ、ノラ」
声には出さず、胸の奥で静かに呟いた。
初秋の光を浴びながら、俺たちは国境へ続く街道を歩き出した。




