第018話:捨てた名前
街の中央広場に面した代官所の地下。
冷たく湿った石造りの階段を下りた先に、厳重な鉄格子で区切られた地下牢があった。
「グレイ殿ですね。監査官閣下より、お通しするよう伺っております」
見張りの騎士が敬礼し、重い鉄扉の鍵を開けた。
「ありがとうございます。少し話を聞くだけです」
「分かりました。護送部隊の出発は明朝です。それまでなら、ご随意に」
騎士はそう言って一礼し、階段の上へと戻っていった。
松明の火が頼りなく揺れる地下牢の通路。
石壁から染み出す地下水の滴る音が、しずくとなって冷たく響いていた。
手前の独房の中には、毛布を頭から被り、ガタガタと震えながら小さく丸まっている人影があった。オズワルドだ。
かつての傲慢な若様の姿はどこにもない。口端からよだれを垂らし、暗闇に向かって「火が、火が消えない」とうわ言を繰り返すだけの、完全に壊れた抜け殻だった。
視線を切り、通路の突き当たりにある最深部の独房へと足を運ぶ。
鉄格子の向こう、冷たい石床の上に、両手両足を太い鎖で壁に繋がれた男が座り込んでいた。
元コルヴィン伯爵、ダグラスだ。
豪奢な絹の服は泥と汚水で黒く染まり、白髪混じりの髪は乱れ放題になっていた。
鉄格子の軋む音に、ダグラスがビクリと肩を跳ね上げ、顔を持ち上げた。
「だ、誰だ! 監査官か!? 頼む、もう一度だけ取り調べをやり直してくれ! あれはエインズワースの罠だ! 私は嵌められたんだ!」
かすれた声で喚き立てる男の前に、俺は無言で立った。
フードの影から見下ろす俺の顔を認めた瞬間、ダグラスの表情が絶望に染まった。
「お、お前は! 昨夜の、あの黒ずくめ!」
「無駄口を叩くな。お前の見苦しい命乞いを聞きに来たんじゃない」
冷淡に言い放ち、俺は腰のベルトに手を当てた。
「ひっ! こ、殺すのか!? 王都へ送られる前に、私を始末しに来たのか!? やめてくれ! もう爵位も、金も、領地も、すべて奪われた! これ以上、私から何を奪う気だ!」
「お前の命なんぞ、路傍の小石ほどの価値もない。王都の牢獄で、死ぬまで惨めに朽ち果てればいい」
ダグラスは荒い息を吐きながら、床に這いつくばって俺を見上げていた。
「聞きたいことは一つだけだ」
俺は腰を落とし、鉄格子の間からダグラスを冷たく見据えた。
「6年前、アッシュフォードの西の外れにあった、あの孤児院を襲った盗賊共の行方だ」
ダグラスの喉が、ひゅっと引きつった音を立てた。
「な、なんだと? 孤児院? な、なぜ余所者のAランク冒険者が、そんな昔のボロ孤児院の話を」
「質問しているのは俺だ。答えろ」
静かな声の奥に、凍てつくような殺気を乗せた。
独房の空気が微かに震え、松明の炎が青白く縮み上がる。
ダグラスは悲鳴を飲み込み、喉を鳴らして必死に首を縦に振った。
「わ、分かった! 話す! 知っていることは全部話すから、殺さないでくれ!」
男は床の埃に額を擦り付けるようにしながら、震える声で記憶を吐き出し始めた。
「あ、あの時の盗賊共なら、アッシュフォードを襲った後、すぐに東へ逃げた! 国境を越えて、隣国のエスタン王国へ逃げ込んだはずだ!」
「エスタン王国だと」
「そうだ! 奴らは国境沿いの森を抜けて、フォンテーヌ伯爵領へ潜伏した! だ、だがな、奴らはもうこの世にはいない!」
ダグラスが必死に視線を泳がせながら叫んだ。
「いない? どういうことだ」
「報告が入ったんだ! 国境警備を担っていたフォンテーヌ伯爵の私兵部隊が、不法入国した盗賊団のアジトを突き止め、全員を討伐したとな! 生き残りは一人もいない、全員がその場で処刑されたと、そう記録されていた!」
全員が討伐された。
フォンテーヌ伯爵の私兵の手によって。
俺は心の中でその情報を反芻した。
シスター・マーサを殺害した実行犯共は、すでに野垂れ死んでいたということか。
だが、まだ聞いていないことがある。
「なぜ、あの孤児院が狙われた」
ダグラスの顔が、目に見えて引きつった。
「そ、それは」
「答えろ。行き当たりの物盗りが、示し合わせたように同じ夜を選ぶとでも言うつもりか」
俺は鉄格子越しに顔を近づけた。
ダグラスの目が泳ぎ、喉から声が絞り出される。
「わ、私だ。私が、奴らに金を渡して、孤児院を片付けさせた。書類上の体裁さえ整えば、土地は好きに使える。生きた人間が住んでいると、何かと目障りだったのでな」
悪びれもしない、勘定づくの声色だった。
シスター・マーサの命も、俺の右腕も、ただの厄介事の処理として、帳簿の片隅に収められていたのだ。
喉の奥から迫り上がる熱を、俺は奥歯を噛んで押し殺した。
今ここで叩き潰しても、何も戻ってはこない。
だが、俺が本当に知りたいのは、それだけではない。
「攫われた子供はどうなった」
俺の問いに、ダグラスは喉を詰まらせ、怯えたように身を縮こまらせた。
「そ、それは、わ、分からない! だが、あの盗賊共は、私の依頼を超えて、勝手にガキを攫って自分の懐に入れようとしただけのはずだ! 奴らが売り飛ばそうとしていた人買いの元締めは、ただの裏ギルドじゃない!」
ダグラスの声が、恐怖で上ずった。
「エスタン王国の王都の裏、宮廷の権力者たちと繋がっている王政派閥の連中だ! 奴らは裏で人身売買を含むあらゆる汚い仕事に手を染めていて、中でも見込みのある才覚を持つ子供は、国家のためと称して囲い込むという噂があった! 関わった者は、貴族であっても全員消されると! 私にはそれ以上、何も分からない! 本当だ、信じてくれ!」
王政派閥。
エスタン王国の宮廷を牛耳る、巨大な権力の一角。
点と点が、頭の中で繋がっていく。
孤児院を襲った盗賊共は、目先の金のためにノラを攫い、エスタン王国の裏社会へ売り飛ばそうとした。
その買い手の元締めが、王政派閥というわけか。
そして、その盗賊共を討伐したのが、隣国のフォンテーヌ伯爵家だという。
国境沿いで名の挙がった貴族家。今はまだ、それだけの繋がりだ。
ダグラス自身は、その陰謀に直接関わっていたわけではない。
所領の境界で起きた不法入国の事件記録と、裏社会の小悪党として耳にした噂を、命惜しさに吐き出したにすぎなかった。
だが、その情報は十分だった。
6年間、手がかり一つ掴めなかった妹の行方に、初めて具体的な糸口が繋がった。
「頼む、言った通りだ! もう何も隠していない!」
ダグラスは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、鉄格子越しに縋り付いてきた。
「だから、教えてくれ! なぜお前のような男が、あの孤児院にそこまで執着するんだ!? 貴様は、一体何者なんだ!?」
血走った目で俺を見上げるダグラス。
俺はゆっくりと立ち上がった。
そして、黒い外套の右袖に手をかけ、肘の上まで無造作に捲り上げた。
カチャリ、と硬質な金属音が地下牢の静寂に響いた。
松明の灯りを浴びて現れたのは、黒く鈍い光を放つ鋼鉄の義手だった。
幾重にも組み合わされた装甲、無骨なリベット、精密に噛み合わされた指の関節。
肘から先の肉体をすべて失った者だけが身につける、異形の鋼の腕。
ダグラスの口から、信じられないものを見たような、かすれた息が漏れた。
「そ、その腕は、義手? まさか、右腕がない!?」
「忘れたとは言わせないぞ、ダグラス」
俺は冷たい声で、男の目を真っ直ぐに見据えた。
「6年前、アッシュフォードの教会で、お前の息子が嘲笑ったガキを覚えているか」
男の喉から、ヒッと引きつった息が漏れた。
「無縁などというハズレスキルを授かり、貴族様方にゴミのように見下された孤児だ」
「なっ」
「そのガキは、孤児院を救うために素手で無理やり斬撃を放ち、右腕を自ら斬り落とした。剣術の型ひとつ教われなかったのは、学費すら払えなかったからだ。お前たち名門貴族様が笑いものにした無縁は、そうやって持ち主の体を食い荒らす代物だった」
ダグラスの顔から、完全に血の気が引いた。
白目を剥きそうになりながら、顎をガタガタと震わせ、絶句している。
「お、お前、あの時の、無縁の孤児」
震える声で、ダグラスが呟いた。
「ロアンだ」
俺は短く答えた。
地下牢の気配が、一瞬で凍りついた。
「あり得ん! あり得んぞ! あんな路傍の虫けらが、腕を失って死にかけた出来損ないのガキが! Aランク冒険者だと!? 我がコルヴィン家を破滅に追い込んだのが、貴様だったというのか!?」
ダグラスは自らの髪を両手で掻きむしり、獣のような絶叫を上げた。
「私が、私が片付けさせたはずの孤児院の、ガキが! 私が送り込んだ刃が、殺しきれなかった虫けらが!」
自分たちが踏みにじり、ゴミのように嘲笑ったはずの無力な孤児。
己が金で処理させたはずの厄介事の生き残りが、6年の歳月を経て、己の地位も財産も名誉もすべてを粉々に打ち砕き、奈落の底へと叩き落としに来た。
その因果の恐ろしさに、男の精神は完全に耐えきれなくなった。
「うわああああっ! 悪魔だ! 貴様は悪魔だああああっ!」
鎖を激しく軋らせながら、ダグラスは石壁に自らの頭を何度も打ち付け、泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
瞳からは正気の光が完全に失われ、二度と戻ることはなかった。
俺は捲り上げた袖を静かに下ろし、義手を外套の闇へと戻した。
哀れみも、同情も、達成感すら湧いてこない。
ただ、6年前にこの街で止まっていた時計の針が、音を立てて動き出したのを感じていただけだった。
「ロアンという名は、もうとっくに捨てた」
呟きを残し、俺は背を向けた。
狂乱するダグラスの喚き声を背後に置き去りにし、地下牢の階段を一歩ずつ上がっていく。
地上へ出ると、アッシュフォードの空はすっかり夜の帳に包まれていた。
初秋の冷たい風が、外套の裾を吹き抜けていく。
見上げる東の夜空の彼方。
国境を越えた先、エスタン王国の広大な大地が広がっている。
「待ってろ、ノラ」
小さく息を吐き出し、俺は宿へと向けて歩き出した。
故郷アッシュフォードとの呪わしい因縁は、これで完全に終わった。
次は、妹を取り戻すための戦いが始まる。




