第015話:伯爵邸、再び
旧地下水路の闇ギルドを灰に変え、宿の特等室へ戻った頃には、すでに陽が西に傾いていた。
円卓の上に放り出された一枚の羊皮紙を前に、ヴェラは息を呑んでいた。
ダグラス・コルヴィン伯爵の直筆で記された、グレイ抹殺の依頼書。
鮮明な赤い封蝋と伯爵家の家紋が、言い逃れのできない証拠として刻まれている。
「これで、孤児院の補助金横領を記した裏帳簿と、裏社会の暗殺組織を使った証拠。二つの札が完全に揃いましたね」
ヴェラが真剣な表情で顔を上げた。
「ああ。だが、証拠があっても逃げられたら意味がない」
俺は腰の直剣の留め具を確かめながら、静かに告げた。
「暗殺ギルドが壊滅した報せは、すでに伯爵邸にも届いているはずだ。親父のダグラスも、息子のオズワルドも、自分たちの悪事が暴かれる恐怖で正気を失っている。今夜のうちに夜逃げを企てる可能性が高い」
「今夜、伯爵邸へ乗り込むおつもりですか」
「乗り込む。あの親玉どもを逃がすわけにはいかないからな」
俺が立ち上がると、ヴェラも慌てて椅子から立ち上がり、杖を手に取った。
「私も行きます。昨夜の水魔法のように、何か役に立てるはずです」
「断る。お前には外でしかできない、もっと重要な役目がある」
俺の言葉に、ヴェラは驚いたように口を噤んだ。
「ウィルの手紙によれば、エインズワース子爵家の部隊と王都の特命監査官が、間もなくアッシュフォードの近郊へ到着する手はずだ。お前のソーン男爵家の身分と学園の調査員証を使って、彼らを街の外で出迎えろ」
「出迎えて、どうするんですか」
「夜明けとともに、中央広場へ案内しろ。俺はそれまでに、逃げ出そうとする伯爵父子を捕らえて広場へ引きずり出しておく。私兵の力も金も通用しない、公の場ですべての罪を白日の下に晒す」
ヴェラは一瞬息を呑み、それから強く頷いた。
「分かりました。エインズワース子爵家の部隊と監査官様を、必ず夜明けの広場へお連れします」
「頼んだぞ。ヘマをするなよ」
「誰に向かって言っているんですか。私はハーロウ魔法学園の正規生ですよ」
ヴェラが誇らしげに胸を張り、部屋の鍵を手にして飛び出していった。
俺はその背中を見送り、黒い外套のフードを深く被った。
*
アッシュフォードの街並みを見下ろす北の丘。
その頂にそびえ立つコルヴィン伯爵邸は、異様な緊張と混乱に包まれていた。
庭園を取り囲む高い石壁の各所には松明が焚かれ、槍を手にした私兵たちが忙しなく巡回している。
だが、その表情には焦りと恐怖が張り付いていた。
広場でのオズワルドの惨敗、そして裏社会の闇ギルドが一日で全滅したという噂が、すでに邸内の兵たちを震え上がらせていたのだ。
俺は夜陰に紛れ、外壁の死角となる巨木の枝から、石壁の上へと軽やかに飛び移った。
靴裏で瓦を踏む音すら立てない。
見張りの私兵が振り返るよりも早く、その背後へ滑り込み、掌底で首筋を軽く打つ。
私兵は声も出せずに崩れ落ちた。
俺はその身体を物陰に引きずり込み、屋根伝いに本館の二階へと潜入した。
豪奢な絨毯が敷き詰められた廊下を、気配を殺して進む。
邸内の奥、重厚な扉で閉ざされた部屋の前に、四人の私兵が固まっていた。
扉の向こう側から、金切り声のような怒鳴り声と、何かが砕け散る音が漏れ聞こえてくる。
「おい! 暗殺ギルドの奴らはまだ連絡を寄越さないのか! あの余所者の首はどうなったんだ!」
オズワルドの声だった。
「も、申し訳ございません! 旧地下水路のアジトが何者かに放火され、全滅したという情報が入っておりまして!」
「馬鹿野郎! 嘘を吐くな! 金貨100枚も積んだんだぞ! たかが一人のガキに負けるはずがないだろうが!」
ガシャアンッ!
再び陶器の割れる音が響いた。
廊下に立つ私兵たちも、青ざめた顔で身を縮こまらせている。
俺は音もなく歩み寄った。
「誰だ!」
私兵の一人が気づいて振り返りかけた瞬間、俺の直剣の鞘がその顎を真下から跳ね上げた。
残る三人が武器を抜く暇すら与えない。
左手の拳と右腕の鉄拳が閃き、瞬く間に四人の私兵が白目を剥いて床に沈んだ。
俺は静かに扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
部屋の中は荒れ果てていた。
高級な絨毯の上には高級ワインの赤い染みが広がり、砕けたガラス瓶や皿が散乱している。
その中央で、髪を振り乱し、血走った目で酒瓶を握りしめていたオズワルドが、扉の開く音に振り返った。
「誰だと言っているのが聞こえないのか!」
オズワルドの言葉が、喉の奥で凍りついた。
手から酒瓶が滑り落ち、絨毯の上で鈍い音を立てて転がる。
暗闇の中から歩み出たのは、黒い外套を纏った俺の姿だった。
「ひっ!」
オズワルドの顔から、完全に血の気が引いた。
唇が紫色に痙攣し、膝がガクガクと震え始める。
「な、なぜ貴様がここにいる! 暗殺者はどうした! 私兵どもは何をしているんだ!」
「お前の雇った殺し屋なら、全員片付けた。外の兵も全員眠っている」
俺が一歩踏み出すと、オズワルドは悲鳴を上げて後退り、尻もちをついた。
「く、来るな! 来るな化物め! 俺はコルヴィン伯爵家の跡取りだぞ! 貴様のようなドブネズミに触れられていい身分じゃないんだ!」
恐怖のあまり錯乱しながら、オズワルドは腰の予備の短剣を引き抜こうとした。
だが、その手が柄に触れるよりも早く、俺の間合いはゼロになっていた。
剣すら抜く必要はない。
俺は鋼鉄の右手で、オズワルドの伸ばした右腕を万力のように掴み上げた。
メキメキッ!
「ぎゃあああああっ!」
骨が軋み、肉が押し潰される激痛に、オズワルドが絶叫する。
俺はそのまま男の身体を片腕で持ち上げ、背後の分厚い石壁へと力任せに叩きつけた。
ドゴォォンッ!
凄まじい衝撃に石壁にひびが入り、オズワルドの肺から空気が一気に吐き出された。
「ごふっ!」
ずり落ちるオズワルドの首根っこを掴み、俺は耳元で低く囁いた。
「お前のような虫けらに、二度も剣を抜く価値はない」
オズワルドの瞳から、完全に正気の光が消え失せた。
つい先日、広場で俺に虚勢を張っていたプライドの欠片すら残っておらず、ただ白目を剥いて泡を吹き、腰を抜かして泥人形のように床へ崩れ落ちた。
完全なる精神の崩壊だった。
*
オズワルドの部屋の奥、重厚な彫刻が施された執務室の扉。
鍵が頑丈に下ろされていたが、俺は左足のかかとで鍵穴の真横を一撃で蹴り抜いた。
バキィンッ!
石の枠ごと木製の扉が砕け散り、室内の空気が吹き抜ける。
「ひぃっ!?」
執務室の奥で、短く情けない悲鳴が上がった。
豪奢な毛皮の外套を着込んだ男が、腰を抜かして床にへたり込んでいた。
アッシュフォードの領主、ダグラス・コルヴィン伯爵だった。
壁の巨大な鉄製金庫はすでに開け放たれ、床には金貨の革袋や宝石が散乱していた。
机の上には、貴重品を詰め込むための大きな旅行鞄が広げられている。
手配書を出し、暗殺ギルドを使って時間稼ぎをしている間に、財産だけを持って夜逃げしようとしていたのだ。
「誰かいないのか! 私兵ども、出てこい! 曲者だ!」
ダグラスは床を這いずりながら、必死に怒鳴り声を上げた。
だが、駆けつける兵は一人もいない。
「呼んでも無駄だ。お前の息子の私兵隊長なら、隣の部屋で泡を吹いて転がっている」
俺は冷徹に言い放ち、執務机へと歩み寄った。
「き、貴様が手配犯のグレイか!」
ダグラスは震える指先で俺を指差した。
「無礼者めが! 私は由緒あるコルヴィン伯爵家の当主だぞ! 貴様のような名もなき平民の賊が、私に指一本触れて許されると思っているのか!」
「由緒ある名門の当主が、金庫の金を抱えて夜逃げの準備か。滑稽だな」
俺は懐から二つのものを取り出し、ダグラスの目の前の机へと叩きつけた。
一つは、孤児院の補助金横領と違法重税を記した裏帳簿。
もう一つは、今日アジトから奪い取った、伯爵直筆の暗殺依頼書。
「なっ、何っ!?」
二つの証拠を目にした瞬間、ダグラスの顔から完全に血の気が失せた。
顎が外れたように開き、喉からヒューヒューとかすれた呼吸が漏れる。
「な、なぜそれを貴様が! ば、馬鹿な、灰這いの奴らはどこへ行った!」
「全部灰になったよ。お前の悪行の証拠だけを残してな」
俺が冷酷に告げると、ダグラスは突然、床に頭を擦り付けて平伏した。
「た、頼む! 見逃してくれ! 金ならいくらでもやる! この金庫の金貨も、宝石も、全部貴様にくれてやる! 見逃してくれさえすれば、手配令も取り消す! 領地を出てどこへでも行ってくれ!」
オズワルドと全く同じ、醜悪で無様な命乞い。
飢えと寒さに震えていた孤児たちの金を奪い、シスター・マーサやノラを死と絶望へ追いやる原因を作った元凶が、今、俺の足元で泥を這うように震えている。
「お前の汚い金など一銅貨もいらん。お前の命も、ここでは取らない」
俺は冷え切った声で言い捨てた。
「この街のすべての住人の前で、その腐った首を晒せ」
「ひ、ひぃぃぃっ!」
俺は部屋のカーテンを直剣で引き裂き、頑丈な布のロープを作った。
泣き叫ぶダグラスの手足を固く縛り上げ、隣の部屋から引きずり出してきたオズワルドとともに、執務室の中央の太い石柱へと背中合わせに縛り付けた。
二度と解けないように、鋼鉄の右腕で力任せに締め上げる。
二人は恐怖のあまり失禁し、ただ震えることしかできなかった。
壊れた窓の外を見上げると、東の空が白み始めていた。
ボォォォン。
遠くの中央広場から、アッシュフォードの夜明けを告げる鐘の音が、重々しく鳴り響いた。
舞台は整った。
この街を6年間にわたって支配してきた腐敗の巨塔を、完全に崩壊させる朝がやってくる。




