第013話:夜襲
静寂は、硝子が砕け散る甲高い音とともに破られた。
パリンッ!
窓枠ごと吹き飛ばされた破片が、月光を反射して青白く煌めく。
吹き込んできた夜風に混ざり、三つの黒い影が、音もなく室内の絨毯へと滑り込んできた。
足音すら立てない。
靴底に何層もの厚布を巻きつけた、完全に気配を殺した着地。
頭から黒装束を纏い、顔を覆う布の隙間から覗く瞳には、一切の感情が宿っていなかった。
私兵のような怒鳴り声も、警告も、名乗りすらない。
侵入と同時に、三対の瞳は獲物である俺の急所だけを冷徹に捉えていた。
闇ギルド、灰這い。
裏社会で金を受け取り、確実に標的の命を刈り取る殺しの専門職だった。
先頭の男が、懐から取り出した小さな黒い陶器玉を床へ叩きつけた。
ボフンッ!
くぐもった破裂音とともに、刺激臭を放つ濃厚な黒煙が部屋いっぱいに噴き出す。
瞬く間に月光が遮られ、視界が墨汁を流し込んだような闇へと塗り潰された。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!
煙の奥から、空気を鋭く引き裂く飛翔音が無数に重なり合って迫る。
麻痺毒を塗りたくられた鋼鉄の投擲針。
扇状に放たれた数十本の針が、俺と、奥の壁際にいるヴェラをまとめて串刺しにする軌道を描いていた。
俺は反射的に右腕を前に突き出した。
いつものように、手首からワイヤーを展開し、針の雨を薙ぎ払おうとする。
カチリ。
鈍い感触とともに、手首のギアが虚しく空回りした。
アシッドハイドラの酸で焼き付いた内部機構が、びくとも動かない。
「チッ!」
舌打ちと同時に、俺は身を捻り、左手の直剣を円状に振り抜いた。
ギィンッ、キンッ、カンッ!
闇の中で火花が激しく散り、弾かれた毒針が壁や天井に突き刺さる。
だが、右腕の展開を前提としていた防御の網に、ほんのわずかな隙が生じていた。
チクリと、右肩の皮膚に冷たい痛みが走った。
外套の布地を裂き、毒針の一本が皮膚を浅く掠めていた。
かすり傷にすぎない。
だが、傷口に触れた瞬間、猛烈な冷気が血管を駆け巡り、右腕の筋肉がじわりと鉛のように重くなった。
強力な麻痺毒。
身体の自由を奪い、生きたまま解体するための劇薬だった。
これまでどんな凶悪な魔物を相手にしても、無傷で切り抜けてきた俺の身体に、明確な綻びが走る。
プロの暗殺者が、その一瞬の硬直を見逃すはずがなかった。
煙を割って、左右から二つの影が同時に肉薄してくる。
右の男が逆手に握った黒塗りの短剣で俺の頸動脈を薙ぎ、左の男が低い体勢から心臓を抉り抜く刺突を放つ。
完全な死角からの同時攻撃。
麻痺が回り始めた右腕は上がらず、左手の剣一本では、二方向からの必殺の刃を同時に防ぐことはできない。
刃の切っ先が、俺の首筋の皮を断ち切る寸前。
「水よ、満ちて阻め!」
部屋の隅から、少女の張り詰めた叫びが響き渡った。
ヴェラが両手で構えた木の杖を、力任せに絨毯へと突き立てていた。
その杖先から、青白い光を帯びた膨大な水流が激しく噴き上がる。
バシャアァッ!
部屋の床一面に、くるぶしを浸すほどの水膜が一瞬で展開された。
波紋となって広がる水流が、忍び寄る暗殺者たちの足元を容赦なくすくい上げる。
バチャッ!
完全に無音だったはずの暗殺者の足取りが、激しい水飛沫を跳ね上げ、明確な足音を室内に響かせた。
暗殺術の根幹である「無音の歩法」が、ヴェラの水によって強制的に暴かれたのだ。
それだけではない。
室内を満たした水蒸気と立ち上る水膜が、空間の空気を重く押し包み、飛来する毒針の威力を鈍らせ、暗殺者たちの踏み込みの速度をわずかに狂わせた。
「なっ、何っ!?」
暗殺者の口から、初めて動揺の息が漏れた。
刃の切っ先が、俺の首筋からわずか数センチ外れる。
ヴェラが作り出した、刹那の勝機だった。
「よくやった」
俺は奥歯を噛み締め、右肩の痺れを気迫でねじ伏せた。
左足で水浸しの床を強く踏み抜く。
剣を振るう隙すらない至近距離。
俺は空いた左手の掌を、正面の暗殺者二人の胸元へ向けて突き出した。
風属性に、打撃を乗せる。
「吹き飛べ」
ドゴォォォッ!
至近距離で、暴風が拡散しながら炸裂した。
圧し固められた空気の奔流が、二人の暗殺者の胸板を正面から押し潰す。
バキバキッ!
胸骨が粉々に砕け散る鈍い破壊音が、狭い部屋に響き渡った。
二人の身体が木の葉のように吹き飛び、背後の石壁へ激突する。
壁に深い放射状の亀裂を残し、二人は大量の血を吐いて絨毯の上に崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
残るは一人。
窓枠の影に潜み、針を放っていた頭目格の男だった。
男は配下二人が一瞬で沈黙したのを見るや、一切の躊躇なく踵を返し、窓の外へと身を投げようとした。
依頼の失敗を悟り、即座に情報を持ち帰るための冷徹な撤退判断だった。
「逃がすかよ」
俺は左手の直剣を、手首のスナップだけで窓枠へと投擲した。
ドスッ!
「ぐああぁっ!」
直剣の切っ先が、男の右足の甲を正確に貫き、窓枠の木材に深々と縫い止めた。
男の身体が宙吊りのように止まり、苦悶の叫びが夜気に漏れる。
男が足の剣を抜こうと手を伸ばした瞬間、俺は水飛沫を蹴立てて間合いを詰めていた。
振り抜いたのは、動かないはずの右腕。
ワイヤーは出なくとも、鉄と真鍮の塊であることに変わりはない。
メキィッ!
鋼鉄の掌底が、男の顎下を真下から撃ち抜いた。
骨が軋む音とともに頭部の脳が揺らされ、男の白目が剥かれる。
直剣から外れた身体が、ぐにゃりと力を失って床へと崩れ落ちた。
完全な昏倒。生け捕りだった。
*
煙が窓の外へと流れ去り、部屋に再び静寂が戻ってきた。
床には水浸しの絨毯、砕けた窓ガラスの破片、そして転がる三つの黒い影。
血の匂いと、薬品の甘い匂いが混ざり合っていた。
「はぁ、はぁっ」
壁際で杖を支えにしていたヴェラが、膝から崩れ落ちるように座り込んだ。
その顔は蒼白で、手は小刻みに震えている。
だが、その瞳には、自分の魔法でグレイの窮地を救ったという強い実感が宿っていた。
俺は倒れた頭目の足から直剣を引き抜き、外套の裾を左手と歯を使って乱暴に引きちぎった。
毒針が掠めた右肩に布を巻き付け、歯で端を噛んで思い切り締め上げる。
「ぐっ」
血の巡りを止めるほどの圧迫感で、毒が心臓へと回るのを食い止める。
額から冷たい脂汗が滲み出た。
「グレイさん! その傷は!」
ヴェラがふらつく足取りで駆け寄ってきた。
「かすり傷だ。大騒ぎするな」
「かすり傷なわけありません! 麻痺毒です、顔色が真っ青ですよ!」
「死にはしない。それより、お前の水魔法、いい判断だった」
俺が素っ気なく告げると、ヴェラは驚いたように肩を跳ねさせ、それからぎゅっと唇を噛み締めた。
「当たり前です。私は、足手まといになるためにここまで来たわけじゃありませんから」
彼女は震える指先で杖を握り直し、胸を張ってみせた。
俺は足元に転がっている頭目の身体をつま先で転がした。
黒装束の懐から、一通の羊皮紙と、重みのある革袋が滑り落ちる。
「さて、誰が俺たちの首に懸賞金を払ったのか、吐いてもらうとするか」
俺は冷徹な眼差しで、気を失った暗殺者の顔を見下ろした。
今までで一番危ない夜だった。
だが、この夜襲こそが、コルヴィン伯爵家の息の根を止める決定的な引き金となる。




