第012話:繋がらないはずの理由
本日は2話更新します。
よろしくお願いします。
白銀の獅子亭の特等室は、街の喧騒から完全に切り離されていた。
窓の外からは時折、通りを巡回する私兵の怒鳴り声や、甲冑の擦れ合う金属音が微かに届いてくる。
だが、分厚い石壁と、扉の外側に掲げられたソーン男爵家の紋章が、そのすべてを寄せ付けない。
地方の没落貴族にとって、他領の貴族令嬢が借り切った部屋へ無断で踏み込むことは、外交問題という名の破滅を意味していた。
部屋の中央にある円卓の上には、昨夜奪い取った革表紙の裏帳簿が広げられている。
俺はその前に腰を下ろし、指先で紙面をなぞっていた。
湯気を立てる陶器のカップが二つ、テーブルの端に置かれた。
ヴェラが茶を淹れて持ってきたのだ。
「どうぞ。安物ですけれど、冷えた体には効きます」
「毒見は済ませたのか」
「失礼ですね。宿の給仕が持ってきた茶葉を、私が自分で確かめて淹れたんです」
ヴェラは口を尖らせながら、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。
泥だらけだった制服の裾は簡単に拭き取られ、乱れていた金髪も櫛で整えられている。
それでも、険しい検問を突破してきた疲労の色は、その白い頬にわずかに残っていた。
俺は茶には手をつけず、帳簿の数字から視線を外さなかった。
「そういえば、グレイさん」
ヴェラが思い出したように、制服の内ポケットへ手を伸ばした。
取り出されたのは、青い封蝋で固く封じられた上等な羊皮紙の手紙だった。
「これ、ハーロウを出発する直前に、エインズワース子爵家の使者から託されたものです」
「あのお坊ちゃんの手紙か」
「お坊ちゃんだなんて、酷いです。ウィル様は真面目で誠実な方です。あなたがハーロウのギルドに託していった告発状と裏帳簿の写しを受け取って、すぐに動いてくださったんですよ」
ヴェラが手紙を差し出してくる。
俺は受け取らず、顎でそれを促した。
「読んでみろ。俺は文字を読むだけで手が塞がっている」
呆れたように肩をすくめながら、ヴェラは手紙の封を丁寧にペーパーナイフで切り開いた。
「当主のジョフリー子爵様が、裏帳簿の写しを確認した上で、王都の監査機関へ正式な告発特使を走らせてくださったそうです。アッシュフォードのコルヴィン伯爵家による孤児院維持補助金の横領と、不当な重税に関する調査請求書を添えて」
「上出来だな」
「それだけじゃありません。手紙の最後に、ウィル様直筆の追伸があります」
ヴェラは視線を落とし、その一文を読み上げた。
「あの日、単独でリンドヴルムを討ち取った冒険者を信じる。筋を通せ」
部屋の中に、静かな余韻が落ちた。
俺は小さく鼻で笑い、帳簿のページを一枚めくった。
「おめでたい頭の坊っちゃんだ。見ず知らずの平民に、よくそこまで肩入れできる」
「ウィル様は、あなたの強さと、その奥にある覚悟を見たから信じているんです。私も同じです」
ヴェラは手紙を丁寧に折りたたみ、テーブルの脇に置いた。
その視線が、真っ直ぐに俺の顔へと注がれる。
「グレイさん」
「なんだ」
「ずっと、気になっていたことがあります」
ヴェラはカップを両手で包み込み、温もりを確かめるように指先を動かした。
ハーロウの廃鉱山で出会った時、そして街道で別れた時にも、彼女の瞳には同じ疑問が宿っていた。
「あなたのその強さは、いったいどこから来ているんですか」
俺は答えず、冷ややかな視線を返した。
だが、ヴェラは視線を逸らさなかった。
以前のように怯えて引き下がる気配はない。
「ハーロウ魔法学園の授業では、こう教わりました。人間の魂力には厳格な制約があって、相反する複数の属性を同時に操ることは絶対にできないと」
ヴェラの声は、静かだが芯が通っていた。
「火の魔法を使いながら氷を出すことも、相反する属性を同時に編み上げることも、術者の魂を焼き切る自殺行為だと教わってきました。なのに、あなたはあのリンドヴルムの火炎を氷の一撃で消し飛ばし、雷と火を同じ瞬間に叩き込んで見せました」
彼女は一歩乗り出すように、テーブルに身を寄せた。
「常識では絶対にありえない現象です。学園のエリートたちでも、高位の宮廷魔導士でも、そんな芸当はできません。あなたはいったい、何をしているんですか」
室内の空気が、わずかに張り詰めた。
窓の外を風が吹き抜け、木製の鎧戸をカタカタと揺らす。
俺は帳簿のページを押さえていた指を止め、ゆっくりと顔を上げた。
6年前に教会で「無縁」と判定された日のこと。
神官に嘲笑され、オズワルドたちにゴミのように見下された記憶。
右腕を失い、シスターを殺され、ノラを奪われたあの日の光景。
それらの過去を口にする気は毛頭ない。
だが、この目の前の小娘は、危険を冒してここまで追いかけてきて、貴族の看板を盾にして俺を匿った。
境界線だけは、引いておく必要があった。
「無縁が繋いでるのは、属性同士だけだ。動きに小細工を混ぜてるわけじゃない」
ヴェラが息を呑んだ。
ヴェラの喉が、ひゅっと小さく鳴った。言葉を失ったように、唇が微かに震える。
「属性同士を、直接?」
ヴェラは呟くように繰り返した。
「魂力の制約を飛び越えて、相反する二つの力を同時に束ねているんですか? そんなこと、身体が砕け散ってもおかしくないはずです」
「砕け散らなかったから、今こうして生きている」
俺は素っ気なく切り捨てた。
「机の上の理屈で命が助かるなら、誰も苦労しない。お前たちの言う常識なんぞ、生きるか死ぬかの瀬戸際では何の役にも立たない」
ヴェラは絶句したまま、俺の顔を凝視していた。
理解が追いつかないというより、信じがたい真実の重みに圧倒されているようだった。
彼女が学園で積み重ねてきた理論のすべてが、俺の存在ひとつで根本から揺るがされている。
俺はそれ以上語ることをやめ、無意識に右腕の手首を軽く回そうとした。
カチリ、ギギッ。
外套の袖の下から、鈍い金属の引っかかる音が響いた。
微小な歯車が噛み合わず、無理な力がかかって軋む感触が肘に伝わってくる。
「チッ」
俺は舌打ちを零した。
アシッドハイドラの酸の蒸気を浴びたせいで、手首の内部機構が焼き付いている。
ワイヤーを巻き取るゼンマイも、指先を展開する連動ギアも、完全に固着したままだ。
ヴェラが音に気づき、視線を俺の右腕へと向けた。
「その音、腕をどうかしたんですか?」
彼女が立ち上がり、心配そうに手を伸ばそうとする。
俺は反射的に右腕を引き、外套の裾で覆い隠した。
「なんでもない。触るな」
低く鋭い拒絶の声に、ヴェラの手が宙で止まった。
「ですが、変な音がしました」
「余計なことに首を突っ込むなと言っている」
冷徹な一瞥を投げかけると、ヴェラは唇を噛み、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「手当てが必要なら、言ってください。水魔法には、怪我の痛みを和らげる基礎もありますから」
「怪我ではない。必要ない」
この腕を治せるのは、肉体を癒やす魔法ではない。
鉄と真鍮の組み方を教えてくれた、あの職人の技だけだ。
そしてその男は、この国にはいない。
気まずい沈黙が、部屋を満たした。
*
夜が深まるにつれて、窓の外の物音は途絶え、街は底冷えのする静寂に包まれていった。
卓上のランプの灯りが、時折パチリと小さな音を立てて爆ぜる。
向かいのソファでは、ヴェラが膝を抱えるようにして身を丸め、浅い寝息を立て始めていた。
今日一日の緊張と移動の疲労が、限界に達したのだろう。
俺は音を立てずに立ち上がり、部屋の灯りを布で覆って絞った。
室内が深い闇に沈み、窓から差し込む冷たい月光だけが絨毯を青白く照らし出す。
静かすぎる夜だった。
俺は耳を澄ませた。
階下の通りを行き交う巡回の足音は、とっくに途絶えている。
だが、それとは別の何かが、夜気に混ざり始めていた。
風の音に紛れて、屋根の上の瓦を踏む、極めて微かな擦過音。
猫の足音よりも軽く、体重を完全に殺した熟練の身のこなし。
それだけではない。
窓の隙間から流れ込んでくる夜風の中に、わずかな異臭が混ざっていた。
甘ったるく、舌の奥が痺れるような薬品の匂い。
刃に塗布された、強力な遅効性の麻痺毒の匂いだ。
俺の目は、暗闇の中で冷たく細まった。
コルヴィン伯爵家の私兵のような、統率も技術もない連中の仕業ではない。
金で命を刈り取る、裏社会の専門職の匂いだった。
俺は足音を殺してソファへと歩み寄り、ヴェラの肩を左手で軽く叩いた。
「ん、グレイさん?」
ヴェラが寝ぼけ眼を擦りながら顔を上げる。
「声を出すな」
俺は低く、息のような声で命じた。
「客のお出ましだ。奥の壁際に下がってろ」
ヴェラの表情から一瞬で眠気が消し飛んだ。
俺は腰の直剣の柄に静かに指をかけ、月光が差し込む窓の正面へと歩み出た。
夜の帳の向こう側から、研ぎ澄まされた殺気が、部屋全体を包み込もうとしていた。




