59 記憶
クッキーの皿の辺りへと視線を落としているアノスジェンはしばらく動かなかったが、ふと口を開く。
「僕、何もお役に立てないんだ。それなのに、高いお衣装やきれいな馬、広いお部屋、たくさんのお料理、たくさんのお菓子、たくさんの優しい言葉……。ここの人たちは僕にたくさんの物をくれなきゃならない、気も使わなきゃならない、僕がお婿さんだから。
キンガース公爵閣下もペギーもショーン執事長も優しいから叩いたりしないけど、きっと僕を邪魔だって思っている。国王陛下からの命令だから僕を置いておかなきゃならなくて、僕をお婿さんにしなきゃならなくて」
アノスジェンが頭を抱えてうずくまっていく。言葉を紡ぐほど震えていく。
「本当はお父様やルートン兄様やあの使用人のみんなのように僕を殴りたいのかもしれない。ご飯を出したくないのかも。だって、僕は何のお仕事もしていないもの」
『この役立たず! ロクな仕事もできないくせにただ飯ばかりくらいおって』と言われ続けた言葉、父親が杖で殴ってくる姿、嘲笑いながらいじめてくるルートンの姿、使用人たちにパンを投げられ腹を空かせていたこと、グズだと蹴られては立ち上がって仕事をしたこと、それらの忘れられない記憶が頭を支配する。震えながら涙に濡れた顔をあげてワディンの手をとった。
「国王陛下に会えないかな? 国王陛下にお婿さんじゃないお仕事させてくださいって言えないかな?」
ワディンが立ち上がりアノスジェンの顔を胸に抱くとアノスジェンは声を殺しながらも泣いていた。
そこへミックに呼ばれたディジリーナが入ってきてワディンの反対側に膝立ちをし、ワディンと交代して抱きしめる。
「ペギー。僕が役立たずでごめんなさい。お婿さん、できません。できるお仕事します。なんでもします。殴ってもいいです。ご飯もちょっとでいいです。ここが好きなの。みんなといたいの。だから……」
「アン。貴方は今のままでいいのよ。今はお婿さんのお勉強でしょう。いつかできるようになるわ。ゆっくりでいいの。私たちは殴ったりしない。ご飯もいっぱい食べてほしいわ」
ディジリーナがそっとアノスジェンと離れて顔を覗き込む。
「ここを好きになってくれて嬉しいわ。これからもずっとずっとここにいて。私たちがおじいちゃんおばあちゃんになってもずっと、私とこの領地を見守ってって、お約束したでしょう」
「でも僕はルートン兄様みたいにみんなを喜ばせることもできないし、魔法もできないんだよ」
「「「「魔法!!」」」」
いつの間にか来ていたニール、ヘリン、トビー、そしてワディンが『思い出した!』と小さな小さな声をあげた。ニールがキンガース公爵の前に歩み出て耳打ちする。
「お人払いを」
キンガース公爵が視線で合図するとショーン執事長以外の者たちはそれぞれ心配そうな視線を投げながら出ていった。
「実はアース様は魔法ができます。確かにマレガード王国の王城を出たばかりの頃は何もできませんでした。でも、旅の途中でなぜかできるようになったのです。
ですが、我々はその道中でアース様のご家庭のご事情をある程度把握しておりましたので、それを知られたら強制的に帰還となるかもしれないと考えました。それはアース様がお望みにならないのではと」
「そうか。それは賢明な判断だ」
ニールの視線でヘリンが前に出た。
「それ以外にもありまして、ご説明は難しいのですが……」
「待て! それ以上は今は口にするな。それらのことをお前たちが知っているとわかってしまった時点で、お前たちをマレガード王国へ帰すことができなくなってしまったことは理解しているのか?」
どう考えてもアノスジェンの秘密事項である。今後どのように上へ報告するのかは検討していく必要があるが、現時点で他言していい内容とは思えない。
「「「もちろんです!」」」
アノスジェンの方を見ると泣き疲れてディジリーナの胸で眠っていた。ショーン執事長が抱き上げてベッドへと移す。
「ワシの執務室へ来い。ワディン、お前もだ。ミックを呼び戻してアースの世話をさせろ」
ディジリーナは愛おしいとアノスジェンの頭を撫でてから、キンガース公爵の後を追った。
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