57 愛称
その日の夕食、キンガース公爵は上機嫌だった。
「アノスジェン殿。我が家への婿入りを承諾してくれてありがとう。君の決断に感謝し、できる限りのことをするから遠慮なく言ってくれ」
「いえ、お礼を言わなくてはならないのは私の方です。ご配慮いただきありがとうございます」
「勉強は楽しいか?」
「はいっ! ショーン執事長に大変お世話になっています。早くお婿さんのお仕事ができるように頑張ります!」
「お婿さんのお仕事」をあらぬ方向に考えたキンガース公爵がむせた。
「お父様、アンを穢さないで」
『アンは純粋なんだって教えたでしょう! 私が少しずつ教えるんだから余計なこと言わないでよ』
ディジリーナの目力にキンガース公爵が咳払いで誤魔化した。
「そ、そうだ。ディナと愛称で呼び合うことにしたそうだな。ワシもアンと」
「ダメっ!」
被せるようにディジリーナが噛み付く。体躯のいいキンガース公爵が小さく見える。
「わ、わかった。では、なんと呼べば?」
「アースと呼んでください。ここまでの旅でみんなに呼んでもらっていた名前です」
「そうか、そうか。では、アース。この屋敷内では、アースと親しい者たちにはその名を呼ぶことを許そう」
「ありがとうございます」
隣に座る三人へ顔を向けた。
「アースって呼んでね」
「「「かしこまりました。アース様」」」
トビーがテーブルの下で親指をグッとあげ、アノスジェンもくすりと笑った。ワディンにも視線を送れば、笑顔が返ってきた。
アノスジェンは旅でのニックネームを貴族社会では使ってはいけないものだと思っていた。あくまでも身分を悟らせないための配慮なのだろうと考えていたのだった。
だが、ディジリーナにお互いの愛称呼びを提案されたとき、とてもぽかぽかした気持ちになった。近くにいることを許されたと感じることができたのだ。
だから、親しい人たちに「アース」とまた呼んでほしいと思ったのだが、今度はそれを言い出すべきかで悩んだ。(トビーのような特殊な状況を除き)みんなはアノスジェンに基本的には敬語を使う、砕けた敬語であっても。そのような関係の人に愛称呼びを強要して、迷惑をかけたくないと考えてしまっていたので、キンガース公爵の提案は渡りに船だった。
「私をディナと呼ぶことを許してあげるわ」
「「「恐れおおいことでごさまいます!」」」
三人はキンガース騎士団の鍛錬に参加しており、ディジリーナがアノスジェンにはまだ見せていない姿を知っている。
「何か?」
美しく笑うディジリーナにアノスジェンは『僕と一緒に来たみんなに許してくれるなんて嬉しいな』と感動しているが、身内に認定され鍛錬が厳しくなるのだろうと予想する三人は腹に力を入れた。
「「「ディナお嬢様」」」
「よろしいわ」
こうして、アノスジェンは今日のレッスンの報告を楽しくしながら、夕食を終えた。
夕食が終わり部屋に戻ったアノスジェンはまわりを見渡した。
「あれ? ワディンはどこ?」
「旦那様のお仕事を手伝っておられます」
ミックが風呂の支度を整えながら答えた。ブティックの件以来、ミックはワディンとともにアノスジェン専属従者になった。
その頃ワディンは自分が悪いわけでもないのに縮こまってテーブルに座っていた。目の前には厳しい顔のキンガース公爵とディジリーナ、マレガード王国の代表としてニール、キンガース公爵の後ろにはにこやかなのに怖いショーン執事長がいる。
「ショーンから聞いたのだが、今日、アースの口からずいぶんと不穏な話が出たそうだな」
『やはりそのお話ですよね……』とワディンは諦めた。
「私は2ヶ月ほどしかあのお屋敷におりませんでしたので、すべてを把握しているわけではありません」
「それはわかっているから、気にするな。お前のわかる範囲でかまわない。おそらく、お前の話だけでも聞くに堪えないものになりそうだとは思っているがな」
「ワディンからの情報によって、今、彼に何が足りないのか、どんな配慮が必要なのかを知ることができるの。包み隠さず、装飾せず、報告なさい」
「かしこまりました……」
ワディンが話をすればするほど凍りつく室内に耐えながら、ワディンは知る限りの話をした。
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