第8話『森で最強騎士と出会ったので、理想のメイド候補に認定しました』
父上からノルザーク帝国の残党について話を聞いて以来、僕はヴァイスベルグ領内の街や村々を自ら巡っていた。
どの街も村も一見すれば平穏そのものだ。だが、その静けさの裏に潜む小さな異変を見逃さないためにも、忙しい父に代わり、自分の目で確かめる必要がある。
各地を訪れるたび、領民たちは気さくに声をかけてくる。どうやら以前のブルードベア討伐の件は想像以上に広まっているらしく、どこへ行ってもその話題が上がった。
期待と好意のこもった視線を向けられるたび、僕は自然と背筋を伸ばしていた。
「……ふん。みんな、完全に騙されてるニャ。ご主人様の変態っぷりを知らないだけニャ」
不貞腐れたようにぼやくニア。領民が僕に好意的なのが、どうにも納得いかないらしい。
「理想のメイドを集めたいだけで、変態扱いはさすがにひどくないかな?」
すぐに言い返すと、ニアは呆れたように尻尾を揺らした。
「“だけ”じゃないニャ。街を歩くたびに通りすがりの人をじーっと見て、品定めする目。あれはどう見ても変態ニャ」
「うぐっ……」
否定しきれないのがつらいところだ。
いつどこに理想の逸材が現れるか分からない以上、意識の片隅に“理想のメイド探し”があるのは事実だ。はたから見れば値踏みしているように映るのも、まあ……分からなくはない。
言葉に詰まった僕を見て、ニアは小さく鼻を鳴らす。
「そもそも“理想のメイドを集めたい”って発想自体が、もう十分に異常なのニャ」
今日は珍しく僕が押され気味だ。それが楽しいのか、ニアの尻尾がわずかに弧を描いている。
「いつかニアにも、僕の理想を理解する日が来るって信じてるよ」
「来ないニャ。たぶん一生、来ないニャ」
間髪入れない断言。
その迷いのなさが妙に可笑しくて、僕の口元は自然と緩む。
――でゅふふ。
「なにニヤけてるにゃ。気持ち悪いからやめるにゃ」
本気で呆れた顔をしているくせに、尻尾だけは落ち着きなく揺れている。
そのちぐはぐさに、横からやわらかな声が差し込んだ。
「……やっぱり、お二人はとても仲がいいのですね」
プルメアが、くすりと微笑む。
「ど……どこがニャ!」
即座に否定するニア。けれど、わずかに声が上ずっていた。
「ふふ……でも、とても楽しそうですよ?」
そう言って、プルメアの視線はニアの背後――揺れ動く尻尾へと向けられた。
その意味に気づいた瞬間、ニアははっとして自分の尻尾を掴み、無理やり動きを止める。
「ち、違うニャ! これは……その……!」
取り繕おうとするものの、言葉が続かない。
耳はぺたりと伏せられ、視線も泳いでいる。
そんな様子が可笑しくて、僕はまた笑ってしまった。
――そんな他愛もないやり取りに笑っていた、その矢先のことだった。
北の大森林にほど近い、小さな村の入口に差しかかったところで、ひとりの女性が息を切らしながらこちらへ駆け寄ってきた。
顔色は蒼白で、荒い呼吸の合間から覗く瞳には、焦りと恐怖がはっきりと浮かんでいる。
「く……クラウス様……! お願いです……どうか、お助けください!」
僕の前まで来ると、女性は今にも崩れ落ちそうな足取りで立ち止まった。
「落ち着いてください。……何があったのですか?」
できるだけ穏やかな声で問いかけると、女性は震える声で言葉を絞り出す。
「む……娘が……森に入ったまま、戻ってこないんです……!」
「森に?」
この辺りの森は比較的魔物も少なく、村人が日常的に薬草採取に入る場所でもある。村からも近く、子どもが足を踏み入れること自体は珍しくない。
だが――。
「帰りが遅いので探しに行ったら……森の入口に、娘の靴が落ちていて……」
差し出された手には、小さな片方の靴。
「その、すぐそばに……魔物の爪痕が……っ」
胸の奥が、ざわりと波立つ。
ブルードベアの姿が脳裏をよぎった。いくらこの森が比較的安全とはいえ、魔物と遭遇する可能性がゼロになることはない。森の奥から縄張りを外れた個体が彷徨い出てくることもある。
もし、それが幼い子どもと鉢合わせていたとしたら――。
一瞬だけ最悪の想像が頭をかすめる。
だが、目の前には震える手で靴を握りしめ、必死にこちらを見上げる母親がいる。
「……大丈夫です」
胸のざわめきを押し込み、できるだけ落ち着いた声で言い切った。
森までは、ここから遠くない。今すぐ向かえば、まだ間に合う可能性はある。
「僕が探しに行きます。どうか、村で待っていてください」
「ありがとうございます……!」
女性は靴を胸に抱きしめたまま、何度も頭を下げた。
「ニア、プルメア」
僕は振り返り、二人の顔を見る。
「わかってるニャ」
「はい」
さきほどまでの軽口は消え、二人の目には同じ緊張が宿っている。
「行くよ」
短く告げた瞬間、僕たちは同時に地を蹴った。
乾いた足音が重なり、一直線に森へと続く道を駆ける。
背後から向けられる、祈るような視線を感じながら。
一刻でも早く辿り着くために、
僕たちはさらに速度を上げ、その道を駆け抜けた。
◇◇◇
森に踏み込んで間もなく、僕たちは一本の大木の前で足を止めた。
幹の中ほどから上にかけて、深く抉られた爪痕が走っている。
「な、何ニャのニャ……この傷……」
四本。太く、一直線に並んだ痕跡。しかも、人の背丈を優に超える高さまで達している。
「ウルフ系でしょうか」
プルメアが落ち着いた声で問う。
鋭い爪を持つ魔物は少なくないが、四本の爪痕を残す特徴といえば、まず思い浮かぶのはウルフ系の魔物だ。
「うん、僕もそう思う……けど」
傷の幅と高さを見比べる。
北の大森林でよく確認されるウルフ系の魔物といえば、ハウンドウルフが代表的だ。群れで追い込みをかける中型種。数で仕留めるのが基本で、単独でここまで幹を抉る力は持たない。
それに、この高さだ。
「ハウンドの爪痕とは、ちょっと規模が違うね」
群れの移動跡も見当たらない。あるのは、明らかに一個体の一撃だけ。
「……もしかすると、ヴァルドウルフかもしれない」
「ヴァルドウルフって、群れないで一匹で縄張りを持つやつニャよね?」
「そう。ハウンドとは別種だよ。大型で、基本的に単独行動。縄張りに入ったものは容赦なく排除する」
森の奥に棲む上位種。ブルードベアと同じく、普段は深部から出てこない魔物だ。その体躯も、ハウンドとは比べ物にならない。
この爪痕の大きさと高さを考えれば、辻褄は合う。
そんな個体が、この辺りまで下りてきているとすれば――状況は決して良いとはいえない。
踏み荒らされた下草。巨体によって無残に折られた枝。ヴァルドウルフが通ったであろう痕跡は、そのまま森の奥へと続いている。
探している少女も、追われるようにこの先へ逃げ込んだ可能性が高い。
他に手がかりはない以上、この痕跡を追うしかない。
「急ごう」
そう言って一歩踏み出しかけた、そのときだった。
「……待つニャ」
低く押し殺した声。
ニアの耳がぴくりと立ち、鋭い眼差しが森の奥へと向けられる。いつもは滅多に見せない真剣な表情に、僕たちも思わず息を潜めた。
獣人であるニアは、人よりもはるかに優れた聴覚と嗅覚を持つ。僕には何も感じ取れないが、彼女が“何か”を察しているのは確かだった。
その直後、森の奥からわずかに風が流れてくる。
湿った土と草の匂いに混じる、かすかな異臭。
ニアの鼻がひくりと動いた。
「こっちニャ!」
迷いのない声と同時に、ニアが地を蹴る。
僕たちもすぐにその背を追った。枝を払い、張り出した根を跳び越え、ぬかるんだ地面を蹴り上げながら森を駆け抜ける。足場は悪い。それでも速度を緩める余裕はない。
そのときだった。
森の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
「きゃあああああっ!」
背筋に冷たいものが走る。
木立を抜けた瞬間、視界が開けた。
大木を背に、逃げ場を失った少女の姿が飛び込んできた。
その目前に立ちはだかっていたのは、巨大なヴァルドウルフ。
黒に近い深緑の毛並みが森の影と溶け合い、丸太のように太い前脚が大地を踏みしめている。少女の背を優に超える体躯は低く構えられ、盛り上がった肩の筋肉が今にも弾けそうに張り詰めていた。剥き出しの牙は短剣のように白く光り、黄金色の瞳がただ一人の獲物を冷酷に射抜いている。
喉の奥から絞り出すような低い唸りとともに、後脚がさらに沈み込む。地面が軋み、巨体が跳躍のために力を溜めた。
まずい。
このままでは間に合わない。距離が、決定的に足りない。
反射的に魔力を練り上げ、術式を展開しようとするが、それよりも早く、ヴァルドウルフは地を蹴った。
「くそっ……!」
黒い影が少女へと落ちる。その軌道を見た瞬間、どう足掻いても届かないと悟り、思わず目をそむけてしまう。
だが――。
来るはずの悲鳴が、聞こえない。
森を震わせていた唸り声も、唐突に途切れていた。
違和感に引き戻されるように顔を上げる。
そこには、飛びかかった姿勢のまま崩れ落ちる巨体と、その首だけが、綺麗な断面を晒しながら宙を舞っていた。
遅れて、胴体が地面に叩きつけられる重い音が響く。
「……え?」
あまりにも一瞬の出来事で、思考が追いつかない。
何が起きたのかと視線を巡らせたとき、倒れ伏したヴァルドウルフの向こうに、ローブを深く被ったひとりの人物が静かに立っているのが見えた。
血を払うように剣をひと振りし、そのまま滑らかな動作で鞘へと収める。無駄のない所作には、妙に洗練された気品が漂っていた。
風体だけ見れば怪しい。だが、この状況が答えだった。少女を救ったのは、間違いなくあの人物だ。
「あ……あの……ありがとうございます……」
少女が震える声で礼を述べる。
しかし――
「馬鹿者が。なぜ森の奥へ足を踏み入れた。死にたいのか」
森に叩きつけられるような叱責に、少女はびくりと肩を震わせ、その場に膝をついた。
「ちょ、ちょっといくら何でも言いすぎニャ!」
ニアが慌てて前に出て、少女をかばうように立つと、ローブの人物が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。
「貴様らは……何者だ?」
その視線は鋭く、値踏みするようでもあり、斬るか否かを測るようでもあった。
思わず喉が鳴る。それでも僕は一歩前へ出て、姿勢を正す。
「僕はヴァイスベルグ領主、フレデリック・フォン・ヴァイスベルグ辺境伯の息子、クラウスと申します。このたびは領民を救っていただき、心より感謝いたします」
ローブの奥から覗く横顔で、ようやく分かった。整った輪郭と鋭い目元――女性だ。
彼女は僕たちを一瞥し、深く息を吐いた。
「貴族の子息だと?」
声音には、露骨な嫌悪が混じっている。
「メイド姿の従者を連れて、この森に踏み込むとはな……正気か?」
確かに客観的に見れば奇妙な光景だ。魔物が跋扈する森に、貴族服の子供とメイド姿の従者。警戒されても無理はない。
だが――それはお互い様でもある。
彼女はそれ以上言葉を重ねることなく、興味を失ったように踵を返した。
「待って下さい!」
反射的に声が出ていた。
彼女の足が止まり、振り返らぬままわずかに肩が動く。
僕はとっさに彼女を呼び止めていた。
あのヴァルドウルフの太い首を一瞬で断ち切った剣技。叱責しながらも躊躇なく命を救う判断力。腕だけでなく、確かな芯を持っている。
もし僕の見立てが正しければ――。
「助けていただいたお礼をさせてください。ぜひ、屋敷へお招きしたいのですが」
そう告げた瞬間、ローブの奥の瞳がすっと細められた。先ほどよりも明確に、警戒の色が濃くなる。
「……必要ない」
低く、簡潔な拒絶。
「ですが――」
「それ以上言うな」
声がわずかに沈む。同時に、彼女の手が腰の帯剣へとかかった。
「私は貴族という生き物が嫌いだ。あまり踏み込むな」
淡々とした声音の奥に、揺るがぬ拒絶がある。
「これ以上しつこいなら、容赦はしない」
その一言で空気が変わる。
ニアの耳がぴたりと伏せ、膨らんだ尻尾がわずかに逆立つ。いつでも飛び出せるように、少女の前へ半歩だけ位置をずらした。
プルメアも無言のまま、僕の背後に静かに立つ。
森の空気が、ひりつくように張り詰めている。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
「どうか、話だけでも……」
言い終えるより早く、彼女がこちらへ向き直る。ローブの影の奥で、鋭い視線が真っ直ぐに射抜いてくる。
「……まったく」
吐き捨てるようなため息。
「貴族というやつはいつもそうだ。こちらの都合など考えもせず、まるで自分のために世界が動いていると勘違いしている」
淡々と並べられる言葉の一つ一つに、長年積み重なった苛立ちが滲んでいる。
その声音は荒げられてはいない。それでも、静かな怒りがはっきりと伝わってきた。
「なんでわざわざ怒らせるニャ……」
ニアが小さく呟く。
「そうですよ、ご主人様……」
プルメアも困ったように続ける。
けれど、彼女の視線は僕から外れない。
まるで――次の一言次第で、すべてが決まると言わんばかりに。
「どうすれば……話を聞いてもらえますか?」
自分でも無謀だと分かっていながら、問いを投げた。
彼女はわずかに目を細める。
怒りというより、値踏みする視線だった。
「……そうだな」
間を置いて、口元がわずかに歪む。
「私に勝てれば、話を聞いてやろう」
言葉が落ちると同時に、彼女は腰の剣を抜いた。
静かな抜刀。
刃がわずかに陽を反射し、森の薄闇に鋭い光を走らせる。
そして、片手でフードを払った。
押し込められていた長い金髪がふわりと解き放たれ、風に揺れる。光を受けてきらめくその髪は、戦場に立つ者のそれとは思えないほど整っていた。
整った顔立ち。凛と張り詰めた佇まい。立っているだけで周囲の空気が引き締まる。
思わず息を呑む。
そして――
「でゅふ」
喉の奥から、抗いようのない音が漏れた。
仕方がない。あまりにも、美しいのだ。
それに、それだけではない。その美貌からは想像もつかない剣技。容赦ない物言い。冷えた拒絶。
完璧だ。
僕の理想像に、これ以上ないほど合致している。
「どうした。気色の悪い笑みを浮かべて。怖気づいたのなら、さっさと去るんだな」
冷ややかな声音。
いい。
もっと言ってほしい。
だが――それは今この場だけでは足りない。
――決めた。
彼女には、僕の専属メイドになってもらう。
「あ……これは駄目なやつニャ」
ニアが額を押さえる。
「でゅふ。怖気づいた? まさか。逆ですよ。むしろやる気が湧いてきました。ありがとうございます」
彼女の眉がわずかに動く。
「ほう……度胸だけはあるようだな。だが相手の実力も測れぬとは、やはり子供だな」
剣先が、わずかに僕へ向けられる。
「少し痛い目を見てもらうぞ」
「でゅふ。望むところです。僕が勝てば――何でも言うことを聞いてくれるんですよね?」
「ああ」
迷いのない肯定。
次の瞬間、彼女の眉がわずかに寄る。
「……いや、何でもとは言っていな――」
「雷槍召喚!」
僕が放った雷の槍が、一直線に彼女めがけて奔る。
空気を裂く轟音。蒼白の雷光が森を白く染め上げた。
「ちょ――貴様っ!」
意識を言葉のやり取りに向けていたせいか、不意を突かれたように彼女の反応がほんの一瞬だけ鈍る。
だが――
次の瞬間には、すでに体が動いていた。
抜き放たれた剣が閃き、雷槍の軌道をわずかに逸らす。
真正面から受けるのではなく、角度を殺し、力を流す。
それでも彼女は一歩も崩れない。
「……貴様、よくも」
低く落ちた声と同時に、彼女の姿が掻き消えた。
次の瞬間、刃が目前で閃く。横一文字の斬撃。咄嗟に身を引くが、剣風だけで頬が裂け、遅れて血が滲んだ。
速い。
踏み込みに一切の迷いがない。間合いを測るというより、奪いに来ている。
「氷鎖縛結!」
足元から氷鎖を噴き上げる。だが彼女は跳躍し、空中で剣を振り抜いて絡みつく鎖を断ち切った。砕けた氷が光を反射しながら散る。
「なるほど……魔法の才能はあるようだな、だが」
着地と同時にさらに踏み込み、流れるように攻撃動作へ移る彼女に、僕の詠唱は追いつかない。
その勢いに押されるように、僕は思わずのけぞり、重心がわずかに後ろへと流れた。
その隙を、見逃してはくれない。
「クソッ」
時間が引き延ばされたように感じる中、彼女の剣筋が確実に僕へ迫ってくるのがはっきりと見えた。避けるには、遅すぎる。
咄嗟に魔法防壁を展開しようと試みる。
だが――間に合わない。防壁が形を成すより早く、彼女の剣が届く。
覚悟を決める。致命傷だけは避けなければならない。
せめて傷を浅くするため身体を捻ろうとした、その瞬間――
剣が、止まった。
驚いていたのは僕よりも、相手のほうだった。
「な……なんだ、これは」
彼女の足元には、無数の青い小さなスライムたちがまとわりつき、その足を絡め取っていた。踏み込むはずだった一歩を、確実に奪っている。
「ご主人様に触れさせません」
プルメアへと視線が注がれる。人形のスライムである彼女の指先から、無数の小さなスライムが滴る水のようにぽたり、ぽたりと零れ落ちていた。
「スライム、だと?」
信じられないものを見る目で、彼女が呟く。
「まさか、人の姿の……いや、そんなわけ……」
プルメアのおかげで、注意がそれた。彼女の意識は今、確実に僕から外れている。
「風の跳躍」
足元に風をまとわせ、一気に跳躍する。距離を取るためではない。上を取るためだ。
実力は明らかに彼女のほうが上だ。経験の差は埋めようがない。真正面からぶつかって勝てる相手ではないことは、嫌というほど理解した。
ならば、回避の余地を与えない、圧倒的な一撃で仕留める。
「ありがとう、プルメア。もう大丈夫だよ」
頷くプルメア。その視線が僕を信じている。
「なっ……いつの間に」
足元のスライムを蹴散らし、彼女が体勢を立て直す。
だが、もう遅い。
両手に魔力を集中させる。空気が震え、森がざわめく。
胸の奥に渦巻く膨大な魔力を、解き放つ。
「紅き雷よ、天穹を裂き、地脈を焦がす原初の焔よ――」
空間に幾重もの魔法陣が展開し、重なり合いながら回転を始める。風が逆巻き、木々が軋む。
「蒼天を統べる雷霆と、万象を焼き尽くす紅蓮の炎よ。我が魔力を糧とし、その真なる姿を現せ――」
魔法陣がさらに輝きを増し、雷鳴が遠くで応える。大地が低く唸り、空が暗く染まる。
ニアが顔色を変え、少女を抱えて距離を取るのが見えた。まったく、察しが良くて助かる。
「天と地を結ぶ破滅の奔流となれ。我が前に立つ者すべてを、裁き、焼き、穿て――!」
魔力が一点へと凝縮し、空へと突き上がる。
「――応えよ、我が渇望」
「轟雷紅蓮!!」
次の瞬間、雷鳴とともに紅蓮の奔流が天を裂いた。雷光と灼熱が融合し、凄まじい轟音を伴って大地へと降り注ぐ。
「ッ――!」
彼女は一瞬の迷いもなく、手にしていた剣を後方へと放り投げた。
代わりに両手を前に突き出し、咆哮のように魔力を解き放つ。
「防げええぇぇっ!!」
空間に幾重にも魔法陣が展開され、重ねられた障壁が連続して形作られていく。
それでも、天から迫る魔法はあまりにも巨大だった。
爆音、光、風、熱。全てが世界を揺るがすような衝撃となって彼女を襲う。
魔力の奔流が障壁を一枚、また一枚と破壊しながら迫るたび、彼女は奥歯を噛み締め、腕に力を込め続けた。
「――っく、ぅぅぅぅぅぅっ!!」
最後の一枚が弾けた瞬間、光が彼女を包んだ。
数秒後――。
爆心地から立ちのぼる煙の中に、片膝をついたローブの影があった。
次の瞬間、糸が切れたように彼女はその場へ崩れ落ちる。
僕はゆっくりと歩み寄った。少し遅れて、ニアとプルメアも様子を確かめに戻ってくる。
「……いや、やり過ぎニャ。色々と……!」
開口一番、ニアが顔をしかめた。プルメアも無言のまま、倒れた彼女を見つめている。
「なにも殺す必要は無かったにゃ……」
「ちょ……そんなことするわけないじゃないか」
僕は軽く苦笑する。
まったく、何を言っているのだろうか。この僕が、理想のメイド候補を傷つけるなんてあり得ないのに。
「よく見てよ」
倒れた彼女を指さす。
周囲の地面は抉れ、焼け焦げ、魔法の余波で弾け飛んでいる。だが――彼女のいる一点だけは、不自然なほど無傷だった。
ローブも破れていなければ、彼女の身体にも目立った傷はない。
「ど、どういうことにゃ。じゃあなんで倒れてるにゃ?」
状況が飲み込めていないらしいニアに、僕は肩をすくめる。
「僕の魔法を防ぐために、あの人は全力で障壁を展開し続けた。その結果、魔力をほぼ使い切っただけだよ」
魔力欠乏による失神。
それ以上でも、それ以下でもない。
あの一撃は、最後に滑り込ませた僕の魔力障壁で威力を削いでいる。直撃はしていない。致命傷など与えていないのだ。
「……最初から、それが目的だったのかにゃ?」
疑うような視線が向けられる。
僕は小さく息を吐いた。
「真正面から勝てる相手じゃなかったからね」
「それでもやっぱり……やり過ぎにゃ」
ニアのぼやきに、僕は肩をすくめる。
「さて……目が覚めたら、きちんと話をしようか。確か、何でも言うことを聞いてくれると言っていたはずだからね」
焦げた森の中、静寂がゆっくりと戻ってきた。




