第21話『静まり返る森で』
木漏れ日の差し込む小さな開けた場所で、僕たちはプルメアの作ってくれたお弁当を広げていた。
「ん~! やっぱりプルメアのお弁当は最高ニャ!」
ニアは両手にサンドイッチを持ったまま、頬いっぱいに食べ物を詰め込み、尻尾をぶんぶんと振っていた。
一つ飲み込んだかと思えば、間髪入れずに次を口へ運ぶ。
そのうえ、次は何を食べようかとランチボックスの中へ視線を走らせる様子は、まるで獲物を探している猫そのものだ。
まったく、そんなに急いで食べなくても誰も取ったりしないと思うのだけれど、先に確保しておかないと落ち着かないのは、ひょっとすると猫獣人の習性なのかもしれない。
そんなニアを見て、僕とセラは半ば呆れながら苦笑していたのだけど、プルメアだけはどこか嬉しそうに微笑んでいた。
ただでさえ朝早くから出発する予定だったのに、プルメアは僕たちよりさらに早く起きて、このお弁当を用意してくれていたのだ。
こうしてニアみたいに分かりやすく喜んで食べてもらえれば、プルメアとしても嬉しいのだろう。
ラッシュボアを一体倒してからは、魔物との遭遇は一度もない。
そのおかげで、ついさっきまで森の中を警戒しながら歩いていたのが嘘みたいに、空気はすっかり和んでいた。
「これ、こっちのおかずも食べていいかニャ?」
「駄目です。そちらはご主人様のぶんですよ」
「ケチニャ……」
さすがに食べ過ぎだと思ったのか、プルメアも少し呆れたように笑った。
自分の分を早々に食べきってしまい、プルメアにたしなめられたニアは、両手を頭の後ろで組むと、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
そのまま木々の隙間からのぞく空をぼんやり眺めていたかと思えば、不意に口を開いた。
「でも、思ったより平和だニャ。森の奥って、もっと次から次へと魔物が出てくるもんだと思ってたニャ」
その言葉に、僕はふと手を止めた。
思い返してみれば、僕たちはすでに森の入口からかなり歩いてきている。
街の冒険者でさえ、あまり近寄らない辺りまで来ているはずだ。
だとすれば、ニアの言う通り、もっと魔物の気配があってもおかしくない。
それなのに、ここまでほとんど魔物と遭遇していない。
何も起きていないようでいて、この大森林においては、それこそが異常なのではないかと頭をよぎったのだ。
「……たしかに、妙だね」
そう口にすると、セラも小さく目を細めた。
「……ああ。ここまで魔物の気配が薄いのは確かに不自然だ。この先で何かが起きているのかもしれないな」
セラのその言葉に、和やかだった空気が少しだけ引き締まる。
軽いピクニック気分に引っ張られて、僕もそこまで深く考えてなかったけれど、ここまで何事もなく進めていた時点で、本当はもっと早く警戒するべきだったのかもしれない。
ニア自身は何気なく感想を口にしただけだったのだろうけど、僕とセラの反応を見てなのか、寝転がっていた身体を起こした。
「……じゃあ、ここでのんびりしてる場合じゃないってことニャ?」
先に食べ終えて手持ちぶさただったせいか、その顔にはわずかに楽しげな色さえ浮かんでいる。
「そう……だね」
正直、食事くらいはもう少しゆっくり取りたいところだけど、この妙な静けさを前にして、のんびり昼食を続ける気にはなれなかった。
まだ何かが起きていると決まったわけじゃない。
でも、この静けさの正体くらいは確かめておきたい。
「昼食はここまでにして、少しだけ先の様子を見にいこう。それでも何もなければ引き返そうか」
「ああ、そうだな」
セラも短く同意した。
――すると、待ってましたとばかりにニアが目を輝かせた。
「じゃあ、これはあたしがいただくニャー!」
「えっ」
そう言うが早いか、ニアは残っていたおかずへ勢いよく手を伸ばし、次々と口の中へ放り込んでいく。
「ちょ、こら!」
「残したら、せっかく作ってくれたプルメアに申し訳ないニャ!」
「絶対いま思いついただけでしょ、それ!」
僕が思わずツッコむと、ニアはもぐもぐと頬を動かしながら、どこ吹く風といった顔で尻尾を揺らした。
まったく、緊張感があるんだかないんだか分からない。
それでも、こういう騒がしさにほんの少しだけ肩の力が抜けたのも事実だった。
僕たちは手早く後片付けを済ませると、さっきまでの行楽気分を胸の隅へ押しやり、さらに森の奥へと足を踏み入れたのだった。
♢♢♢
森の奥へと進むにつれ、木々はますます深く生い茂り、陽の光さえ枝葉に遮られて、辺りには薄暗く不気味な空気が漂っていた。
いつ魔物が襲ってきてもおかしくない状況だというのに、依然としてその気配はない。
むしろ、何も出てこないこと自体が、この森の不気味さをいっそう際立たせていた。
そんな中でも、ニアだけはどこか気楽そうだった。
警戒はしているのだろうけど、どちらかといえば、いつ魔物が出てくるのかと待ち構えているような様子だ。
……まったく。
この状況であそこまで普段通りでいられるのは、ある意味ですごい。
そう思っていた、そのときだった。
不意に、そのニアがぴたりと足を止めた。
「……にゃ、なんにゃのにゃ、これ」
さっきまでの気楽さが嘘みたいに消えた声に、僕も思わず足を止める。
「どうしたの?」
ニアは耳をぴくぴくと揺らしながら、落ち着かない様子で辺りを見回した。
「いや、なんか急に空気が嫌な感じになったニャ。なんていうか……気持ち悪くなるような感じがするニャ」
「え?」
僕も思わず周囲を見回す。
けれど、たしかに森の空気は不気味ではあるものの、それ以外にこれといった異常は見当たらない。
すると、後ろからセラが呆れたように口を挟んだ。
「ただの食べすぎじゃないのか?」
「ち、違うにゃ!」
ニアが弾かれたように振り返る。
「そういうんじゃないニャ! 本当に急に嫌な感じがしたんだニャ!」
むきになって否定するニアを見て、僕は思わず苦笑した。
……とはいえ、食べすぎを疑われても仕方ないとは思う。
出発前、ニアは残り物をずいぶん勢いよく平らげていた。あれだけ腹に詰め込んでいれば、気分が悪くなっても不思議じゃない。
ただ、それでも今のニアの様子は冗談には見えなかった。
プルメアのほうを見ても、きょとんとしているだけで、特に何かを感じている様子はない。
僕たちには分からなくても、獣人のニアだからこそ感じ取れるものがあるのかもしれない。
だからこそ、ニアが覚えた違和感は、今この森で何が起きているのかを探る手がかりになる気がした。
「ニア、その嫌な感じがする方向は分かる?」
「……たぶん、あっちの方ニャ」
ニアは眉をひそめたまま、森の奥へ視線を向ける。
「ニアが大丈夫なら、このまま進もうと思うんだけど」
「大丈夫ニャ。ちょっと嫌な感じがするだけで、別に動けないわけじゃないニャ」
強がっているというより、本当にその程度なのだろう。
不快ではあるけれど、進めないほどではない。少なくとも、今はまだ。
「分かった。じゃあ、慎重に行こう」
僕たちは隊列を崩さないまま、ニアの示した方向へ足を進めた。
しばらく進むうちに、前を行くニアの様子が少しずつ変わっていく。
最初は、時おり鼻先をひくつかせる程度だった。
けれど、進むにつれて顔をしかめることが増え、やがて片手で鼻を押さえるようになる。
そして少し遅れて、今度は僕の鼻にもその異変が届いた。
獣臭い。
湿った土の匂いに混じって、獣の脂と血が腐りかけたような、生臭い臭気が漂ってくる。
思わず眉をひそめた、その直後だった。
不意に、木々が途切れる。
そして僕は、思わず足を止めた。
そこに広がっていたのは、いくつもの魔物の死骸だった。
地面のあちこちには黒ずんだ血がまだらに染みつき、折り重なるように倒れ伏した肉塊が、そこかしこに無造作に転がっている。
一匹や二匹じゃない。
牙を剥いたまま絶命したもの。
四肢を投げ出し、力なく横たわるもの。
大きく見開かれた目だけが、ついさっきまでそこに命があったことを嫌でも思い知らせてくる。
「な、何なのニャこれ……魔物同士で争ったのかニャ……?」
ニアが鼻を押さえたまま、嫌そうに顔をしかめる。
けれど、セラは何も言わず、近くに転がっていた死骸のひとつへ歩み寄った。
片膝をつき、傷口をじっと確かめる。
そして次の瞬間、わずかに目を細めた。
「……違うな」
「違う?」
僕が問い返すと、セラは死骸から視線を外さないまま、低く言った。
「魔物同士でやり合った傷じゃない。この斬り口は、人の武器によるものだ」
たしかに、その傷は鋭利な刃で裂かれたような跡だった。
鋭い爪を持つ魔物もいるにはいるが、そうだとすれば、もっと肉をえぐるような傷になっているはずだ。
「いったい……誰が、これだけの魔物を」
ここはすでに森の奥深く。
本来なら、街の冒険者ですら足を踏み入れないような場所だ。
以前僕たちが討伐したブルードベアのような危険種が生息する領域で、これほどの数を相手にできる者がいるとは思えなかった。
「さぁな……」
セラは立ち上がりながら、あたりに散らばる死骸を見渡した。
「だが、これだけの数を手早く仕留められるだけの腕を持つ者がいたことは、間違いないだろう」
見れば、どの死骸にも無駄な傷は少ない。
急所だけを断ち切るように、短く鋭く仕留められている。
相当な手練れだ。
「それにしても……異様だな。群れでもない魔物が、これだけ一か所に集まっているのは普通じゃない」
たしかに、その通りだった。
ここに倒れているのは、種族も大きさもばらばらな魔物ばかりだ。
本来ならそれぞれ別の縄張りを持っているはずの連中が、どういうわけか同じ場所に折り重なるように倒れている。
「そうだね……まるで、この辺りの魔物が全部ここに集められたみたいだ」
魔物の気配がまるでなかったのも、ひょっとするとこの辺りに大半が集まっていたせいなのかもしれない。
「ああ。それに、この妙な息苦しさの原因も、おそらくこれだろう」
そう言って、セラは周囲に転がる死骸へ視線を巡らせた。
意識してみると、この辺りの空気は妙に重い。
視界の先も、心なしか薄く黒く霞んで見える。
「……これって、まさか瘴気?」
思わず漏れた僕の呟きに、セラは小さく頷いた。
大森林にもともと瘴気が多いことは知っている。
だけど、目に見えるほど濃い瘴気なんて聞いたこともない。
もしかすると、この大量の死骸と、そこに残った魔力が瘴気をさらに濃くしているのかもしれない。
「この感じ、あたしは苦手だニャ……」
ニアが鼻先を押さえたまま、露骨に顔をしかめる。
なるほど。
ニアが感じ取っていた“嫌な感じ”の正体は、これだったのかもしれない。
瘴気とは、言ってしまえば濃い魔力の塊のようなものだ。
濃度が高ければ高いほど心身への悪影響も強くなり、とくに魔力の保有量が少ない者ほど当てられやすいと、以前本で読んだことがある。
つまり、この中ではニアがいちばん影響を受けやすかったのだろう。
とはいえ、このまま放っておくわけにはいかない。
死骸が瘴気の原因になっているのなら、片づければ少しはましになるはずだ。
それに、これだけ魔力を宿した魔物が転がっているのだ。
プルメアの魔力補給にも使えるなら、都合がいい。
「プルメア、この量だけど……どうかな?」
さすがにこれだけの数だ。もし無理そうなら、残りは僕の魔法で焼き払うしかない。
そう思いながら問いかけると、プルメアは死骸の群れを静かに見回したあと、小さく頷いた。
「はい。大丈夫です」
返ってきた答えは、拍子抜けするくらいあっさりしたものだった。
正直、本当に大丈夫なのかとは思う。
けれど、プルメアがそう言うのなら、きっと問題ないのだろう。
プルメアは一番近くの死骸へ歩み寄った。
次の瞬間、その小さな身体がふわりと揺らぐ。
輪郭がぼやけたかと思うと、白い指先も、淡い髪も、透き通るような肌も、音もなく溶けるように崩れていった。
そして、その場に残ったのは、ぱさりと地面へ落ちたメイド服だけだった。
人の形を失ったプルメアは、半透明のスライムとなって地面を這うように広がっていく。
それは一体の死骸に触れたかと思うと、そのまま水のようにするすると広がり、折り重なった死骸の山が横たわる一帯そのものを包み込んでいった。
ついさっきまでそこにいたのは、どう見ても華奢な少女だった。
それなのに今、目の前に広がっているのは、死骸の山を丸ごと呑み込むほどの質量だ。
見た目と中身が釣り合っていない、なんてレベルじゃない。
普通のスライムとは違うと分かっていたつもりだったけれど、こうして目の前で見せつけられると、改めて思い知らされる。
やっぱり、プルメアは特別な存在なのだと。
スライムに包まれた死骸は、じわじわと輪郭を失っていった。
肉も骨も、こびりついた血の跡さえも、淡い粘液の内側へ溶けるように取り込まれていく。
やがて、そこにあったはずの魔物の死骸は、跡形もなく消えていた。
その光景に息を呑みながら、僕はふと別のことに思い至る。
これだけの魔物を、こんなにもあっさり吸収してしまうのだ。
もしプルメアが本気で僕の魔力を吸っていたなら、僕の魔力なんてとっくに空っぽになっていてもおかしくない。
――つまり、プルメアはずっと我慢していたのだ。
僕の魔力を吸い尽くしてしまわないように。
そう考えると、今回こうして魔物狩りに来たのは、やはり正解だったのだと思う。
やがて、死骸を呑み込んでいた淡いスライムが、するすると一点へ集まっていく。
それは、地面に残されたメイド服のもとへ戻るように流れ寄り、服の内側から形を作るようにふくらんだ。
次の瞬間、そこには何事もなかったかのように、いつものメイド服姿のプルメアが立っていた。
「ふぅ……終わりました」
その言葉どおり、さっきまで山のように積み重なっていた死骸は、もう跡形もなく消えていた。
あたりに漂っていた生臭さもかなり薄れ、さっきまで肌にまとわりついていたような重苦しさも、いくらか和らいでいる。
「……だいぶましになったな」
セラが周囲を見回しながら、小さく呟く。
「うにゃ……さっきよりは全然いいニャ……」
ニアもようやく鼻先から手を離し、ほっとしたように息を吐いた。
瘴気はだいぶ薄れ、さっきまでの息苦しさもかなりましになっていた。
けれど、胸の奥に残った引っかかりまでは消えてくれない。
なぜ、この辺りの魔物がすべて集められたような状況になっていたのか。
そして、いったい誰があれだけの魔物を倒したのか。
結局、その答えは何ひとつ分からないままだ。
ただひとつはっきりしているのは、あの光景がどう考えても異常だったということだけだった。
街へ戻ってギルドに行けば、何か分かるかもしれない。
たとえそうでなくても、この惨状は一応報告しておいたほうがいいだろう。
そう考え、僕は三人に声をかけた。
「……そろそろ、街へ戻ろうか」
僕の言葉に、三人もそれぞれ頷いた。
胸の奥に引っかかりを残したまま、僕たちはひとまず街へ戻ることにしたのだった。




